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その日は雨だった。
元々日本のように強烈な四季の移り変わりを感じることがないせいか、今が何月に相当するのかはっきりとしたことはわからなかった。
ダリウスと暮らす小屋にカレンダーや時計はなく、日付や時間が分からないということが最初の頃はひどく不安な感じがして、いったいどれくらいの時間が経過したのか知ることができないと言うのは気が変になりそうだったけれど、日々の語学学習の時間や、畑の手入れ、サシャの村へ行くことなどで慌ただしく日々が過ぎ、冷蔵庫や電子レンジがないので日々口にするものを準備することも大変なことで、そのうちに時間という数字にこだわるのではなく、太陽が登ってくる感覚や、鳥が泣き出したら朝が近いとか、コウモリが飛び回り始めたら夜になるとか、窓から見える大きな針葉樹のてっぺんにかかる太陽の位置が移動することで時間経過を図るようにして、「なんとなく」の感覚で暮らすようになっていた。
そんな中でも、わたしは感染症には気をつけた。
数字の概念から離れる代わりに、日本での暮らしではそれほど意識していなかった感染症への警戒心が増した。
コウモリや鳥たちの糞を含んだ埃からは、肺にカビを生えさせるヒストプラズマ症が発症されるし、動物の糞尿で汚染された水からは糞口感染によってA型肝炎や腸チフス、コレラ、ネズミからはハンタウィルスなど多くの病原菌が…。
だからわたしは、ダリウスが呆れるほど掃除と水に神経を使った。
なぜ自分がこんなわけのわからない事になっているのか、このストーリーを用意した誰かが何かの計画を持っているのなら、どんなストーリーを用意しているのか、それを見届けるまでは絶対に死ねないと思っているし、死ぬにしても感染症で悶え苦しんで死ぬのは絶対に嫌なので、朝起きると一通り掃除をしてからじゃないと落ち着かなかった。寝る前に掃除をしても、朝起きるとここは森の中。野鳥や小動物、昆虫が生活圏に痕跡を残していく。また水も必ず繰り返し濾過し、一度煮沸してから出ないと歯磨きにすら使わなかった。
自分が生まれてから日本にいた最後の日までにどのくらいの予防接種をしてきたか分からない。
両親は特定の宗教や思想がなかったから、至って普通にB型肝炎ワクチンや、BCGもしているはず。近世に入るまでの死因の上位に入っていた結核は、BCGによってある程度は予防されていると思うけれど、乳幼児期の接種でその免疫抗体が一生涯続くのかは分からない…。それでも、何もしていないよりはマシだろう。
それから、これはラッキーなことに、わたしは人より沢山ワクチン接種をしてきた。
大学での専門は「土壌」だったけれど、畜産科と連携しているアグロエコロジー農家さんのところへ勉強会に行っていた期間があった。持続可能な農業を目指すアグロエコロジーでは、家畜から出る堆肥を肥料として農業に転化させ、同じコミュニティ内で農業と畜産を両立させていた。その関係でわたし達人間が家畜に病気をうつさないための予防接種とともに、家畜や土から感染症をもらわないための予防接種もたくさんした。街で暮らしていたら受ける必要のない、炭疽ワクチンや破傷風トキソイドワクチン、ヒト狂犬病ワクチン、肝炎、トキソプラズマなどのワクチン接種をしている。
一生涯免疫が続くわけではないけれど、あれはまだ2年ほど前のことなので抗体は残っているだろう。
サシャの村で狩猟した獣肉の処理をするとき、石鹸やアルコール除菌をしている様子がないことには驚かされたけれども、どちらもまだこの世界にはない発想かもしれない。手術をする医者が手を洗うようになったことさえ近世に入ってからのこと…。
感染症の概念がないことが怖いけれど、この世界で「異質」な存在であり、「女」であるわたしが知恵を与えようぞとばかりに賢しげに行動することは危険に思え、ただ家での調理には一層気を配ることとしていた。
そうやって過ごした雨の日、リヴァイがやってきた。
その日は昨夜から続く雨でひどく冷え、簡素な作りの小屋に湿気が溜まるので暖炉を使った。
薪にも限りがあるので勿体無いと思ったけれど、冷蔵庫や完璧に密封される保存容器のない場所にあって湿気からカビが生まれ、そのカビからまた別の病気を誘発するのが心配で、暖炉に火を入れ、部屋を乾かし、ただ燃やしておくだけでは火が勿体無いのでダリウスとパンを焼いていたときだった。
馬の蹄の音が聞こえたと思い、ダリウスと顔を見合わせて警戒していると、ドアが叩かれた。────そうしてリヴァイがやってきた。
木戸を叩く音に警戒するように顔を覗かせたのはダリウスだった。
リヴァイさん、と声を上げたダリウスに夢子が慌てて出迎えるが、濡れ鼠のリヴァイに驚いた顔をして部屋に引っ込み、すぐによく乾いた布を持って現れ、リヴァイに「どうぞ」と差し出した。
夢子から意思疎通の取れる理解できる言葉が溢れたことにリヴァイはやや不思議な感覚を覚えながらも、その布を受け取り、顔を拭う。
「外に馬をつないでいる。どこか休ませられる場所はないか」
顎でしゃくると駐屯地からここまで自分を乗せて走らせてきた愛馬が黒い目をさらに濡らせて震えている。
急がせたわけではないが、それでも随分長距離を走らせたし、急に変わった天候に馬体を冷えさせてしまった。小屋に馬小屋などという立派なものはなかったが、薪小屋にしている納屋があるのでそこを使うように提案されると、二人のやりとりを言葉によって理解できたのか、それとも推測したのか夢子がすぐにランプに火を入れてやってきて「こちらへどうぞ」と濡れるのも構わず案内を買ってでた。
────妙なもんだな、とリヴァイは感じていた。
以前もそう感じた。夢子を、綺麗だ、と感じた。
だが前回の訪問よりもさらに流暢になった発音や、貴族専門の家庭教師をしていたダリウスの教える語彙が殊更品がよかったためか、妙な気分だった。兵団で囲っていた頃の夢子は怯え切った瞳をした言葉の通じない異人種だったが、その頃とはまるで違った。落ち着いた物腰と状況把握をしている安心感、言葉が通じることによって突然精神的に距離が近づいたようで、それまで「得体の知れない娘」だった夢子が同族の女のように見えた。いや、同族ではない。リヴァイが育ってきた地下にはいない女だ。だが貴族でもない。何か不思議な感じがするのだ。
案内された納屋を見てさらにリヴァイは驚いた。
小屋は、確か当初は朽ちかけていたと思ったが、随分修復がされている。
ダリウスがそうさせたのだろうか、と考えたが、それにしては修復の仕方が見たことのない技法によってされているため、夢子の知恵でそうしているのではないだろうか、と感じる。
穴が空いていた屋根は丸太を不格好ながら切り揃えた屋根で補修され、さらにその上には藁が巻きつけられ、更にその上には針葉樹の葉がついた小枝が敷かれているため細かい雨が入らないようになり、壁は外からは板が打ち付けられているが、中は土と藁が混ぜられた壁が覆い、隙間には明らかに人工的に詰められた苔によって塞がれている。積み上げられているのは薪だけではなく、焚き付けに使うためか松笠が集められ、新たに切られたらしい生木が積み上げられて乾燥を待っている。
「ここで大丈夫ですか?」
小屋を無遠慮に見回しているリヴァイに、夢子が心配そうに尋ねる。
「あぁ、問題ない」とこの男には珍しく、若干の上の空で応えながら、まただ、とリヴァイは思った。
妙な感じがする。
馬を小屋に引き入れ、鞍や馬の口に噛ませたハミ、手綱、頭絡や鎧(あぶみ)などの馬具を外していくたび、夢子が自然にそれらを受け取り、小屋の中での作業台にしている机に丁寧に置いていく。だが流石に12キロ近くある鞍には驚いたらしく、調査兵団では女であっても自分で手入れをするためなんの意識もせずに夢子に渡したが、当の夢子は両腕で鞍を抱くように抱えて、作業台に中々持ち上げられない様子だった。
「貸してみろ」
夢子の傍から馬の汗と雨に湿った鞍を受け取り、作業台に乗せた。
「壁外では機動力を上げるためにもっと軽い鞍を使うんだが、今回は急ぐこともないからこの鞍で来た。実際、ある程度重さがある方が実は馬体の負担を減らすことができる。軽い鞍は馬の背に良くない。こいつは結構歳だからな。無理はさせたくない」
何をペラペラと話してやがる、と内心で舌打ちをして隣を見ると、夢子がきょとんとした顔で自分をまっすぐに見ている。狭い小屋の狭い作業台の前に並んで立っているせいで、夢子の腕が肌に触れて、そこから雨に濡れて冷え切った体にじんわりと女の身体の温かさが伝わる。リヴァイはすぐに顔を背けた。調子が狂う。
馬具を全て外してやり、持参した荷物から馬体を手入れするための大ぶりの布を取り出して濡れた馬体を拭き始めるとすぐに夢子が「何か手伝わせてくれませんか」となぜかその目をきらきらとさせて手伝いを申し出たので、布を渡してやり「こいつを拭いてやってくれ」と任せるとすぐに嬉しそうに馬体を拭き始めた。だが不意に夢子の持っていたあの精巧な女の服ばかり載った本には、馬の絵など一枚もなかったし、夢子が騎乗すらできないことを思い出して、馬の扱い方を知っているのかと何か問題がありそうなら口出しをしようとしたが、馬脚の後ろに回り込むこともなく、また馬足を避けて自然に移動するのである程度の注意点はわかっているようだった。500キロ近い馬に足を踏まれれば人間の足など粉砕骨折だ。
「馬は、とてもやさしい。やさしい目」
そう言って更に何かを呟いたが、それが夢子にしか分からない言葉だったためリヴァイには理解できなかった。
だが馬が気持ち良さそうにリヴァイに鼻先を擦り寄せて甘えるので、馬も夢子に作業されることが嫌ではないらしい。馬の鼻先から頬にかけての引き締まった肌を撫でてやると、この馬のいつもの癖で「もっと」とねだるようにリヴァイの服を軽く噛む。馬は口元ばかりがふわふわと柔らかく、その柔らかであたたかな口元を撫でてやると更に甘えるように鼻面を擦り寄せる。
夢子に水気を拭き取らせてからブラッシングを任せ、その間にリヴァイは馬蹄に溜まった汚れを落とし、足を保護するカバーを巻いてやる。
小屋に落ちる雨の音が規則正しく、それでいて静謐で、ランプから落ちる温かな光の中、不思議と自分が落ち着いているのを感じながら、夢子と二人、口数少なく馬を労った。
馬房とはどのようなものなのか、その様子を知っていたのか、リヴァイが何も言わずとも夢子は乾燥させて柔らかくなった針葉樹や藁を、許可を得て馬の足元に敷き、「ちょっと待っていてください」と外に出たかと思えば、桶に水を汲んで現れて馬の鼻先に置いた。騎乗はできなくても知識があることが不思議だった。一体これはどういう女なのだろうか、とリヴァイは考えずにはいられない。
「こいつはお前のお陰で生きながらえた」
だがその言葉は夢子には通じなかったらしく、夢子が不思議そうにリヴァイの目を見つめる。無垢な目だ。純粋に自分を信じて慕っているその目の向こうに何が見えているのか。どんな知識を隠しているのか。どんな世界を知っているのか。
夢子が与えた塩と砂糖を含んだ水の知識のおかげで、脱水症状で死ぬはずだった老馬が生き延びた。
「ありがとう」
呟いた言葉は言い慣れなかったせいで夢子の顔を見ることはできなかった。