一通り馬の世話が終わり、薪小屋を出る頃にはすっかり陽が落ちていた。
夢子に伴われて小屋に案内されて、部屋に立ち入ったリヴァイは驚いた。
あまりに清潔過ぎる。
以前来た時も綺麗に掃除された家だと思ったが、今回は生活の工夫がなされた上で更に清潔に保たれている。暖炉には火が入り、部屋は暖かく乾燥し、馬の手入れをしている間にダリウスが焼いたパンの匂いが部屋を満たしている。上流階層の家のように絨毯が敷かれたわけでもないが、床が綺麗に履き清め、ワックスをかけたわけでもないだろうに塵ひとつ、野菜クズひとつ落ちていない。
「靴、脱いでください。これを履いてください」
なんだ、と見れば夢子が履いていたブーツを脱いで、何かの草で編んだ簡素なサンダルへと履き替えていた。リヴァイは知らなかったがそれは草鞋だった。森の中のどこにでもある一般的な蔦植物を借り、鍋で煮込んで柔らかくしたものを乾燥させ、夢子が編んだ草鞋だった。
草鞋は両足に引っ掛けるように「∞」(インフィニティ)型の輪を作り、それぞれに横糸とした柔らかく叩いた蔦を通して編んでいくもので見た目の複雑さに反して簡単に作れるものを夢子はいくつか編み、鼻緒型の草鞋ではなく、紐状に編んだ細い蔦を左右に渡し、いわゆる“便所スリッパ”型の草履とし、靴下を履いたまま履けるようにしていた。本当なら靴下も脱いでしまいたくなるが、現代日本の建築のように隙間風など入らぬ何重もの違う素材で覆われた家ではないため底冷えするため、靴下を履き、屋内用や屋外用にスリッパやサンダル代わりに履いて暮らしている。
野生動物の多い環境の中、土には彼らの排泄物が乾いた粉塵となって紛れ込み、靴底の泥が室内に最近やマダニなどを連れ込む。また何より日本人としての習慣として土足で室内を歩くことに慣れず、掃除の手間も大変なものになるが、かといって素足で歩けるほど手入れされた床ではないため、夢子の考えでそうしているものだった。
ダリウスはエルヴィンから夢子のやりたいようにさせ、そこから生活習慣、思想などを得られる情報は全て得るよう指示を受けているので、基本的に夢子のさせたいようにさせていたし、貴族社会で暮らしていたダリウスにとっても、貴族たちが高価な木目の床を傷付けたり、途方もなく高価な絨毯を汚したりしないよう柔らかな室内履きを愛用していることを知っていたので、夢子の出身階層に対しての認識が更に貴族寄りになっただけで納得のいく習慣だったので、特に大きな抵抗はなかった。
だがリヴァイは困惑した。人前で靴を脱ぐという習慣がなかった。
大抵庶民の家というものは、床は土間であったり、このような板の間であったり、靴下を持っていない家庭も多く、靴を脱ぐことがない。特に地下街育ちのリヴァイにとって、人前で靴を脱ぐのは、宗教的聖域に立ち入る場合、あるいは娼婦の前で“事に及ぶ”に至って脱ぐくらいであり、他人に靴下を見せるということがどこか無防備な感じがしたが、そう躊躇するのも一瞬のことで、夢子の家の床の清潔さの由来がこの変わった室内履きにあることも見て取れたので、僅かに眉を寄せただけで大人しくブーツを脱ぎ、草鞋を履いた。少し小さかったが、雨道を駆けてきたので革で出来たブーツは靴下までぐっしょりと濡れ、また泥だらけだった。今日に限って新しい靴下を履いてきた事に内心で少しだけ安堵する。
───夢子といると調子が狂う。
だが夢子はブーツを脱がせただけでは飽き足らず、靴下も脱ぐよう指示し、椅子に座って乾いた布を持ってきて身体を拭くよう言い渡してその間に湯を用意すると言い出した。「体が冷たいこと、よくないこと」と言って暖炉に掛けられていたケトルからコップに湯を注いで飲むように言い、その間に何やら慣れた様子でテキパキと入浴の準備をする。白湯は井戸のカビ臭さもなく、口に含むと内臓から温まり、知らず「ほぅ」と息を吐いている。酒以外にも身体を温めてくれるものがあるのかと知る。
そうしている間にも、夢子とダリウスによって暖炉の前に素人の手作りらしい、不器用に作られた木製の衝立が立てかけられ、大きな洗濯タライを置いて、事前にダリウスが暖炉にぶら下げた大鍋で沸かしていた熱湯を水でうめてあっという間に準備がなされた。リヴァイが反論する間も無く整えられた様子に目でダリウスに反抗するが「いつものことですから」とダリウスが微笑む。
確かにダリウスからの報告書で夢子が毎日湯で身体を清めると聞いていたが、毎日の入浴は贅沢なものだった。天然の湯が沸く地域では病人たちが療養に行くとも聞くが、それとて特別なことだ。
「リヴァイ」
夢子の目がさあ早く、と促してくる。
確かに濡れた体に衣類が張り付き、体は冷え切っている。観念して、衝立の向こうに隠れて服を脱ぎ、たらいに足をつけるとそこからはあっという間だった。
少し熱いくらいの湯は気持ちよく、骨まで凍るようだった寒さが溶けていく。湯がざらざらするので何かと見れば、湯には灰が溶かされ、ローズマリーの葉がいくつも放り込まれているので爽やかな青い匂いがついている。
「お湯が足りなければ暖炉のケトルからご自分で追加してくださいね」とダリウスが声掛けをし、「私のものですが着てください」とシャツとズボンを出して暖炉の前の小さなスツールに置いた。そして大鍋で湯を沸かす間他所に退けていたのか、何かのスープが入った鍋をまた火にかける。鍋をチラリと覗くと蕪やイラクサが見え、かすかに香るニンニクが空腹を思い出させた。決して珍しい食材ではなかったが、見たことがない調理法だった。
「あいつは靴を脱いで暮らす女なのか?」
「えぇ、靴を脱ぎ、入浴することを知っている女性のようです。私は彼女ほど清潔な娘を見たことがありません。いっそ神経質なほど身辺を綺麗に保つことに時間を割いています。彼女の出自がそうさせるのでしょうか…。まあこの辺の話は後でゆっくりしましょう。それを聞きにいらしたのでしょう?」
ダリウスの言葉通りだった。エルヴィンがそろそろ焦れている。
夢子を観察対象として研究する学者の目ではなく、人類の最前線に立つ兵士の目で夢子の詮議をしにきたのだ。
しかし家の中はこんな辺鄙な場所にあるとは思えぬほど清潔に保たれている。エルヴィンが拾ってきた頃のダリウスは路地裏で野良犬と転がり、ひどい悪臭がしたものだったが、身体を洗うよう綿布を差し出すその爪の間さえ真っ白く清潔であり、小ざっぱりとしている。夢子の影響だろうか。
「リヴァイ、服を洗います」
夢子の言葉に慌てて下着だけでも取り返そうとしたが、流石に全裸で飛び出すのは憚られると逡巡したうちに衝立に引っ掛けていた衣類が回収され、遠くでテキパキと水を使う音が聞こえ出し、立ち上がったついでにケトルから湯を追加し、ダリウスから受け取った綿布で身体を洗った。湯からはローズマリーのさっぱりとした香りがした。
湯から上がり、ダリウスのシャツとズボン、靴下の匂いを嗅ぐも嫌な匂いがしなかったし、何より全裸だったため仕方なくそれらを身につけたが、よく手入れされているせいか不快感はなかった。とりあえずそれを着て衝立から出ていくと、ダリウスが入浴セットを片付け、その間に脱水も終えた夢子が部屋に渡されたロープにリヴァイの洗濯物を吊るし、暖炉に薪をくべた。室内で炊かれる火は部屋をよく乾燥させるので、明日には乾きそうだった。
他人のものとはいえ清潔な衣類を身に纏い、ブーツを脱ぎ、そして身体の芯まで温められてしまうと、とてつもなく無防備になった気がした。
自分が身に纏っていたあらゆる防具が取り外され、心許なさと共に、奇妙に安堵する気持ちもある。だがそれが何なのかはわからない。
「リヴァイ、ご飯にしましょう」
洗濯を干し終えた夢子が振り返って、微笑んだ。
言葉もまともに話せず、怯えるばかりだった娘が、言葉を獲得し、立ち居振る舞いが洗練されてきた。リヴァイの知らぬ世界を持ち、滲ませる。調子が狂う。
不意になぜこうも調子が狂うのかと思い至った。
これが家庭の匂いというものなのだろうか。
それはリヴァイの知らぬものだった。