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「あれで演技ならば、ぜひ諜報部員に欲しいくらいだな」


次の出兵案会議を終え、持ち運びできる携帯用ゴブレットに入れていたぬるいエールを一口口に含み、エルヴィンは独り言のように洩らした。出兵計画はまたもや予算と生命や資源などの浪費をいかに最小限に抑えられるのかという事で白熱し、常に発言を続けていたエルヴィンの口内の水分を全て奪っていた。そんなエルヴィンの言葉を拾ったリヴァイは何も言わずに、ただ夢子の事だろう事だけは検討をつけた。
徹夜で警護に当たらせたペトラやオルオらは控えで仮眠を取らせてところだった。
あと一時間も眠らせればさきほどまとまった出兵案を告げ、一人一人の部隊の動きなどの会議となるだろう。
このまま夢子の監視などに関わる雑務を続けさせるということは、上に報告しない「存在していない仕事」を秘密裏にさせ続けるということになる。体力や健康状態が損なわれると出兵に参加する事は出来なくなる。夢子の件に関して唯一リヴァイが懸念する「手間」だった。


「ボロを出す様子は?」
「全くない。まるでこの国の文明を知らない、ただの外国人そのもののようだ。隔離され、我々の文明から遠ざけられた哀れな娘。だがテーブルマナーなどは“人間”の様子だ。決して狼に育てられた野生児ではない。ただの、外国人。だが、この壁内にあって、外国人など存在しない」
「だったら巨人に会わせてみれば?もしかしたら巨人が食べない人類なのかもよ」


突然リヴァイとエルヴィンの会話に首を突っ込んだのは、ハンジだった。
リヴァイが「気色の悪い冗談だ」という顔をしているのに対して、ハンジの目はその眼鏡の下できらきらと輝いている。本気だった。そして自分でも自分が言いだした提案に興奮したように、頬を蒸気させて一方的に話始めた。



「だって、夢子の持っていた本を見た?私たちが全く知らない世界、文明、街、自然、人種、それらがみっちりぎっしり載っていたんだよ?しかも絵じゃない!あんな写実的な描写絵じゃありえないよ!きっとどこかに存在する景色をそのまま紙に印字したようなものだったじゃないか!あれはどこかに存在する!きっと存在しているんだよ!あの本の中に“人類の脅威”である巨人の存在は影も形もなかった!壁内じゃ見たことのない流行の服だの靴だの化粧をするための道具だの…そんな、くっだらない物のための本なんだよ!もしかしたら私たちの知らない人類が壁の外で生きているのかもしれない!なぜ生きて居られるのか?それは巨人の敵じゃないからだよ!巨人と壁外でぬくぬく生きている人間たちがいるのかもしれない!お願いだよ、エルヴィン!一度でいいから夢子を貸してよ!それで巨人に食われないんだったら私の仮説が正しかったって事になる!」
口角に唾を貯めて一気に喋り、まだ言葉を続けようとして息を吸い込んだハンジの胸に、リヴァイは軽く拳をぶつけて「黙れクソメガネ」と一蹴した。マッドサイエンティストめ、と呟いた言葉にエルヴィンも険しい顔をして頷いた。


「ハンジ、その仮説にはある意味立証の価値はあるが、それを立証するには問題がある。巨人の前にあんな何の訓練もされていない娘一人放り出し、そして仮説もむなしく食われたらどうする?夢子が食われればその説が間違っていたとなるが、その後の事を考えろ。夢子がいなくなった後、我々に残されたのは我々の想像力を超えたテクノロジーだけであり、解明は不可能になる」
「えぇっ!じゃあリヴァイ班の精鋭に護衛させてさ!ほら、例えば巨人を一匹、二匹捕獲して、動けないようにして夢子を差し出すってのは?巨人が夢子を食おうとするかどうかだけでもいいから!ね?ね?いいだろ?絶対守るから夢子を貸してよ」
「ハンジ、前にも言ったが巨人の捕獲に伴うリスクを分かっているのか?夢子一人の為に何人の人間を殺す気だ?」
「じゃあさ、じゃあさ、夢子を縛って壁からぶらーんと吊るして壁にへばりついている巨人どもに見せるってのはどう?それで壁外の巨人が夢子に反応するかどうか、ってのは?やばくなったらすぐ上から引っ張るからさー」


ここには狂人しかいねぇらしい、とリヴァイは内心で舌打ちした。
ハンジもエルヴィンも、夢子を「一人の人間」としては見ていなかった。壁内の人類の娘であれば、巨人の前に差し出すような真似をしないだろう。だが、夢子は違う。夢子は、同じ危機を共有する人類ではない。実験体だ。エルヴィンの口ぶりからはまるで、夢子がもう一人いれば片方を巨人に差し出してハンジの仮説を立証するのもやぶさかではないという様子だった。


確かに「壁外調査」という使命には「犠牲」が必要だった。
しかし、無意味な犠牲はリヴァイの意に反するものだった。自分がそう善良で紳士的な性根の優しいタチだとは全く思ってはいなかったが、恐らく立体起動装置すら満足に使えない素人の小娘をわざと巨人に差し出すような人体実験というのは、流石に胸糞が悪かった。


「町では夢子の噂が出回っている。俺たちとは違う人類を調査兵団が匿った、と。壁の中に逃げ込んで百年。この安穏とした毎日だけを謳歌する人類は、異物を嫌う。嫌うからこそ、話題になる。こうして秘密裏に夢子に教育をした所で、いずれ上の耳に入るぞ」
このまま会話を続けさせては、本当に夢子を巨人の餌にしかねない。
リヴァイの出した話題にエルヴィンは「好きにさせておけ。話題に飢えた街では度々奇妙な噂が立つ」と一蹴した。
そこで会話はお開きとなった。


「そうだ、仕事が終わったらペトラを後で少し貸してくれ」
書類をまとめて、まだ興奮したまま「夢子実験計画」を話し続けるハンジを無視して部屋を出ていこうとしたリヴァイにエルヴィンが声を掛けた。
「今は誰かさんがねじ込ませた特別任務の仮眠を取らせているが、その上残業代はつくのか?」
「まあ、うちで夕食くらいなら」


露骨に睨んだリヴァイにエルヴィンは苦笑し、慌てて「やましい事はないよ」と弁解した。














今日は「動作」についての授業だった。
走る、泣く、笑う、歌う、話す、座る、立つ…。人間が何気ない行動ひとつ取るためには、それを説明するために沢山の言葉が必要なんだということに今更気がついて、頭の中では呪文のように繰り返し続けた色んな単語がくるくると回り続けている。


ダリウスの授業は厳しくなった。
それまでのほのぼのとした授業じゃなくなった。ダリウスはどこから持ってきたのか靴べらのような形をした鞭を持って、わたしが同じ間違えをすると手の甲をぴしゃりと叩いた。昔の日本だったら竹刀みたいなものだろうか。厳しいけれど、真剣だ。わたしがそうさせた。鞭で叩かれることには驚いたけれど、体罰だの騒ぐ気にはとてもなれなかった。ダリウスが、本気でわたしに言葉を教えようとしている事が分かっているから。そして、わたしも本気だった。鞭はどうなっているのか分からないけれど、パーティーグッズのハリセンのようで、派手な音が出るわりには痛くなかった。もしかしたら小さな子供はこの音で怖がって、真面目になるのかもしれないと思ったけれど、随分叩かれたわたしの手の甲はすっかり赤くなっていた。


ダリウスは全ての動作の単語をまずは教え込もうとしているらしく、わたしがトイレに立っても付いてきて、「ドアを開ける」「ドアを閉める」「これは便座」…というように、どんな動きも無駄にしないように言葉を教え、ダリウスが言う言葉を覚えて、ダリウスが指さしたドアを「ドア」と彼らの言葉でちゃんと答えて、ダリウスがドアを開けたら「ドアを開ける」とちゃんと言えないとトイレから出ていってくれないほどで、昼食だって「ナイフ」「フォーク」「パン」「飲む」「食べる」…と食事に伴う言葉をちゃんと言えるようになるまで食事はお預けとなり、スープはすっかり冷め、食事を終えるのに二時間近く掛かってしまい、フラウベルタがうんざりとした顔でダリウスに文句らしい言葉を投げるほどだった。


ボールペンよりずっと乾きの悪いインクで手の側面や腕を黒く汚して、与えられていた紙はすっかりまっ黒になるほどの走り書きでいっぱいになり、何枚も何枚も溜まった紙を、わたしは命綱のように大事に胸に抱いて、トイレへ行くにも食事をするにもずっと抱えては、ダリウスが投げた言葉に答え、テニスのラリーのように会話のやりとりがぽんぽんとスムーズに行えるように必死でメモと記憶を頼りに会話をした。



「今日の天気は?」
「晴れ」
「気分はどう?」
「良い」
「まだ食べたい?」
「食べない」
「どれがおいしい」
「スープ おいしい」


その程度。
きっと三歳児よりも稚拙な単語のやり取りだったに違いないけれど、それでも言葉のひとつも分からずにおろおろとしているよりも、ずっと、ずっとよかった。今は単語のやり取りだけど、すぐにきっと、助詞や動詞の変化を覚えて、繊細なイントネーションの違いを覚えてネイティブの会話ができるようになるだろうと…ううん、そういう風にならなければ、この世界で死ぬだろうと思った。


死にたくない。
このまま、何も分からないまま死にたくない。――――まずは、生きる。
生きるために、学ぶ。そして、どんなものでも食べる。食べて、食べて、身体に気を付ける。
この世界の医療技術がどんなものなのかは分からなかったけれど、もしモルヒネなどが開発されていない時代だとしたら、2,3針縫うような怪我をしてもきっと痛がりのわたしはぎゃーぎゃー喚くだろう。虫歯になったらどうする?盲腸は?麻酔なしの手術だなんて、考えただけでもぞっとする。どんな些細な怪我も病気もしないように、自分を守る。



全ては、生きるために。





「外は?」


ダリウスに言われて窓の外を見てようやく外がすっかり暗くなっている事に気がついた。
でも「暗い」とか「夜」という単語を習っていないので「わからない」と答えると、ダリウスは机の上の蝋燭にマッチを擦って明かりをつけた。「明るい」と言って復唱させ、わたしが「明るい」という言葉の音をメモすると、蝋燭の火を吹き消して「暗い」と言った。それでその「明るい」と「暗い」というダリウスが言った言葉が「明暗」を意味すると理解して、わたしは窓の外を指さして「暗い」と言うとダリウスは満足したように頷き、蝋燭に火を灯した。電気は、まだ、ない。

エジソンが電気を発明したのは、西暦何年のことだろうか。
はっきりとした数字は分からないけれど、理科の教科書に白黒の顔写真が掲載されていた頃だから、近代のことだろう。この文明よりも百年、二百年も先のこと。そんな未来まで、わたしは待っていられない。そのことを考えると泣きだしたくなる。だから、考えない。今は、目の前のことだけを考える。


その時、玄関の大きなドアが開き、フラウベルタとエルヴィンの声が聞こえてきた。
時計がないので何時かは分からないけれど、仕事を終えてエルヴィンが帰ってきたらしい。


「エルヴィン、どうした?」
「エルヴィン 行く」
「それより、きた、の方がスムーズだ。さあ言って、エルヴィン きた…」
「エルヴィン、きた」
「そう。“行く”と“来た”では少し違う…」


そう言ってインクの入った瓶を掴んで「これは、エルヴィン」と言って笑い、エルヴィンと仮定したインクをとことこと歩くように机の上を自分の近くから遠くへ移動させて「行く」と言った。今度は遠くへ行ったインクを手元へとことこと歩かせて「来る」と言った。それで理解が出来た。「行く」と「来る」。またその違いを紙に、すっかり慣れた羽ペンでメモをしていくとドアがノックされ、ダリウスの返事でエルヴィンが入ってきた。
ダリウスは何かを言いだそうとしたエルヴィンに軽く自分の手で制止させて、「夢子、あいさつ」と言った。わたしは椅子から立ち上がり、エルヴィンに向かい合った。


「エルヴィン、こんばんは」
「こんばんは、夢子。今日は挨拶する人がもう一人いる。ペトラだ」


エルヴィンが僅かに微笑んで、ゆっくり振り返ると同い年くらいの女性が立っていた。
そして少し緊張したようなこわばった顔をして、でも感じの良い笑みを浮かべた。若い女性なのに、エルヴィンやリヴァイ、ハンジと同じような軍服を着ていたことにわたしは少し驚いた。女の人も兵隊になれるんだろうか。ハンジは…女の人?どこか中性的なハンジは背丈もあったし、声のトーンも女性でも男性でもどちらとも取れる声だったし、はっきりとは驚かなかったけれど、目の前の女性はどこからどう見ても女性だった。女の人で戦いに出るっていうのは、なんとなくジャンヌ・ダルクくらいしかイメージがなくて、わたしもきっとまじまじと彼女を見つめたに違いなかった。


「夢子、ペトラよ。ペトラ・ラル。
壁外調査から帰還した時、通りで飛び出してきたあなたを保護した時にリヴァイ兵長の後ろで騎乗していたんだけど、見覚えあるかしら?」


エルヴィンが促すと彼女はゆっくり話してくれたけれど、自分の名前とリヴァイという単語しか聞き取れなくて、わたしは曖昧な笑みを浮かべて、ダリウスを振り返って助けを求める。ダリウスは助けてくれない。「夢子、話す」と言って頷いて、ダリウスに通訳をしてもらおうとした自分の甘い考えを恥じて、わたしはゆっくりと彼女に向かい合った。


「こんばんは、わたし、夢子。言葉 学ぶ。たくさん、分からない」
「あっ、そっか、通じないんだよね。ごめんね。えーっと…ペトラ、私、ペトラ」
彼女は自分を指さして「ペトラ」と言って笑みを浮かべてくれたから、それが彼女の名前だと分かって「ペトラ」と繰り返したら、ペトラは嬉しそうに笑ってくれたから、わたしも同い年くらいのペトラの笑みに嬉しくなって自然と笑った。


でもダリウスは違った。
ペトラが兵隊の恰好をしているからだろうか。ダリウスだけは険しい顔をしてエルヴィンに何かを訪ね、ペトラが慌てたように何かを言うとエルヴィンが頷いてそれに答えた。そのやりとりはすっかり理解できなかったけれど、時々「夢子」とわたしの名前を拾うことはできて、それらの会話が自分に関係していることだと知って身を固くする。



日本の警察でも、女性が犯罪を起こしたら女性警察官が付き添ったり聴取に対応する様子を警察の特集特番なんかで見たことがあった。
もしかしたら、ペトラはわたしが女だから、割り当てられてやってきた女性兵で、何かの仕事でやって来たのかもしれない。こんな状況でまさか「同じ年頃の友達を作ってやろう」とエルヴィンが連れてきたわけがない。拘束でもされるんだろうか。空港とかでも女性は女性スタッフがボディチェックをするし、女性の刑務所は刑務官は女性だ。

女性の兵士がやって来た。何か状況が変わるのか。

もしかして、エルヴィンの家から女性の刑務所や収容所へ連れていかれるのか?ペトラは女性用収容所の看守なのか?
わたしの表情がこわばった事が分かったのか、ペトラは慌てたように胸の前で手を振って、何かを弁解するように話したけれど、すっかり分からなくてわたしは思わず後ずさって「わからない」ばかりを小声で繰り返した。無意識にテーブルを強く掴んで、ここを動くまいと身を固くする。



「どうしよう、何か怖がらせたみたい…。あ、そうだ、ちょっと待ってて!」


ペトラは笑みひとつ浮かべて急いで部屋の外へ行って、それからすぐに部屋に戻ってきた。
腕には抱えるほどの服を持っていた。そしてこわばったままのわたしの胸に、たくさんの服を押し付けて笑顔を浮かべた。


「今日は服を選んできたのよ。その服をずっと着たままでしょう?団長が背丈が似ているから、と私の背丈で選んだんだけど、きっとぴったりだと思うわ。でもあなたはそんなに筋肉がついていないから、もしかしたら大きいくらいかも…。でも裾上げをしたりサイズを直したら問題ないと思うから着てみて頂戴。趣味が合わなかったらごめんね、でも一応町で流行りのものを選んだつもりだから…」


あっ、と声をもらしてペトラから服を受け取ると、ペトラはにっこりと笑ってエルヴィンを示した。
この人は、わたしの、着替えを選んできてくれたんだ…。
それが分かるとこわばっていた身体から力が抜けて、二枚、三枚、シャツが手元からこぼれてしまった。ペトラがそれを拾ってくれて、手渡してくれる。その顔には悪意も敵意も、最初に部屋に入ってきたときのような緊張感も全くなくて、一人の人間に対する当たり前の親切で、わたしはペトラからシャツを受け取って、心からお礼を言った。



わたしの事を考えてくれる人がいることに、感謝した。