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夜がこんなにも暗いものだとは思わなかった。
電気がない世界。部屋のあちこちに、3本の太い蝋燭が立てられる燭台が置かれていたけれど、やっぱり薄暗い。
窓を見ても、町のネオンや隣のマンションの明かりが漏れ伝わることもなく、真っ暗で何も分からない。21世紀でも、夜のデートとか女子会などで「隠れ家的」と呼ばれるような静かなバーやレストランへ行くと、そういう都会のひっそりとしたお店のテーブルにはキャンドルが置かれ、照明の落とされた部屋でこそこそくすくすと会話をするようだけど、店にいる間の一、二時間のことではなく、もうずっとこの暗さの中、ぼんやりと浮かぶ明かりを頼りにしての食事なので、なんだか目が疲れてくる。
ペトラも夕食に同席し、食事が終わると食事後のお酒も飲むことなくすぐに帰っていった。
ペトラは終始、エルヴィンと会話ばかりをしていて、時々「夢子」とか「リヴァイ」「ハンジ」「仕事」などの単語を拾うことができたので、流行りの演劇の話とか、人気のお店とか、そんな他愛もない話というよりも彼らの言ったように「仕事」の話をしているらしく、そこに時々ダリウスが口を挟むくらいで、二人の表情は和気藹々とは遠く、真面目で深刻そうだった。そんな中で、時々ペトラが「おいしい?」「なにがすき?」「これ、おいしい」と簡単な単語で声を掛けてくれる事が嬉しかった。
もっと沢山言葉を覚えて、早く、会話に加わりたい。
自己主張できた事のありがたみを感じるなぁ…。
ペトラが帰宅してから、ダリウスとエルヴィンは食事をしていたテーブルを離れ、わたしとダリウスを伴って暖炉を囲むように半円に置かれた三つの一人掛けソファーにエルヴィン、わたし、ダリウスとそれぞれ座らせお互いの中央に置かれた小さなチップ材のテーブルに日中わたしがメモをとった紙の束を置いて、タバコを吸いながらまた深刻な顔の話の続きをダリウスと二人だけで始めたので、正直、手持無沙汰だった。今日はフォークを上げ下げする事にさえずっとつきっきりで「動詞」の全てを教え込んでいたダリウスもエルヴィンとの会話を止めて授業の続きをすることもない。ずっと話し込んでいる。
男性たちにはタバコ。そしてわたしにはカップに入ったハーブティーをフラウベルタが用意してくれた。
嗜好品、ということなんだろうか。ハーブティーは、21世紀の日本の、オシャレなオーガニックカフェなんかで出されている紅茶に香りづけをしたフレーバーティーではなく、本当に裏庭に生えている野草を煮詰めたような薄い茶色をして、一口目は土のような香りがしたけれど、飲み干してしまうと口内に僅かに花の香りが残った。すっかり毎食出てくるアルコール分の薄く、酸味の強いエールよりも飲みやすい。
アジアから紅茶が届くのは、まだ先のことなんだろうか。
紅茶さえあれば、茶葉の木自体は紅茶もウーロン茶も緑茶も全てカメリアシネンシスという同じ物だから、乾燥や発行の具合を替えればなんでも飲めたに違いない。そういえば、学部は違ったけれど飲料できる植物について勉強していた、あの背が高い男の子がこの時代に来ていたら、きっとこの時代の飲料文化に興味を持ったに違いない…。彼は語学堪能で留学もしていたらしいから、きっともっと違う方法で立ち回れたんじゃないだろうか。でも、今他人を羨んでも仕方がない。……いつだって、できる事をしよう。
辺りを見回すと、エルヴィンもダリウスもタバコをふかしながら眉間に皺を寄せて黙りこくってしまっていた。
さっきまでの議論がうまくいかなかったんだろうか。二人がおそらく話題の本人である「わたし」に声を掛けてくる事はなさそうだし、辺りを見回せばフラウベルタは相変わらず不機嫌そうな顔をして、エルヴィン一人分だった頃より遥かに増えた食器を片付けている。わたしのハーブティーを用意してくれていたから、片付けが遅くなってしまったのかもしれない。どっちにしろ、仕事を増やしてしまったのは事実だ。
ハーブティーを飲み干して、席を立つ。
エルヴィンが何か言いかけるように顔を上げたのは分かったけれど、わたしは飲み干したカップを持ったままフラウベルタに「でも」と声を掛けた。さっき覚えたばかりの言葉。ペトラがダリウスとエルヴィンの会話に割って入るときにいつも最初に言っていた言葉だから、多分、声を掛けるときの言葉だと思う…。Excuse me…のような意味なんじゃないだろうか。でもその答えは分からない。「でも」が「Excuse me」なのか確認するよりも、初めて異人であるわたしから声を掛けられた事に驚いたのか、フラウベルタが息を呑んで一歩後ずさり、わたしの背後に座るエルヴィンに助けを求めるように目をやったのが分かった。怯えられている…。これは、ちょっと、辛い。
「わたし てつだう フラウベルタ おしえて」
フラウベルタはぎょっとしたような目でわたしを見下ろす。だからもう一度同じ言葉を繰り返した。
これはダリウスに教わった単語だから、間違ってはいないと思う。でも、彼女から「YES」は返ってこないので、わたしは彼女が片付けていたのと同じように食事が済んだばかりの汚れた食器をいくつか重ね、キッチンを指さし、できるだけ敵意のない笑みを浮かべて「はこぶ」と聞いた。本当ならば「これをあちらへ運びましょうか?」と丁寧に聞きたいのに、まるで野生児みたいに単語をひとつ言う事しかできない事が、恥ずかしかった。
フラウベルタからの返事は、ない。
わたしの顔に浮かべていた笑みが不自然に宙に浮いて、風船がしぼんでいくように、無意識に眉が下がってしまう。
「ベルタ、せっかくだから夢子に手伝ってもらいなさい」
「で、でも、スミス様…でも…こんな…」
「大丈夫。危害は加えない」
助け船を出してくれたのは、エルヴィンだった。
それまで事の成り行きを見守ってくれていたエルヴィンが席を立ち、わたしの肩に手を置いた。
二言、三言、フラウベルタに何かを言うと、彼女は主人からの言葉にしぶしぶ従うといったように頷いて、わたしに向かってキッチンの方向へ向かって顎をしゃくったので、わたしもようやくほっとして、「ありがとう」とエルヴィンに伝えて、キッチンへと向かった。背中の方で、フラウベルタが文句を言うような強い口調でエルヴィンに何かを言ったのが聞こえた。
フラウベルタのリアクションは、正直、ちょっと、いや、かなり、かなしい。
この年まで、人種差別なんて受けることなく、守られて、受け入れられて、生きてきた。
アジアとの交易があるのかは分からない。シルクロードを往来する商人のアジア人が、ヨーロッパ大陸のどこまで立ち入ったことがあるのか、歴史の知識なんて曖昧だ。アジアといっても、中東などの中央アジアの人たちが主で、中国…ましてや日本人なんて知らないのだろう。わたしは世界中のどんな顔立ちや、肌の色、目や、髪の色をした人と出会っても驚かない。それは「知っている」からだ。どんな身体的特徴をした人でも同じ人間で、同じように感情がある、当たり前の人間だという事を。今いる場所がヨーロッパのどの辺りで、どれくらいの都市レベルなのかは分からないけれど、21世紀よりずっと昔の人なら、「異人」というのは「宇宙人」と同じ意味になるくらい「得体の知れない存在」なのかもしれない。
アジア人を見たことがないであろうフラウベルタにとって、この、言葉ひとつ満足に話せないわたしがどんな風に映るのか…。
でも、いつか分かってもらう。普通にしていたら、分かってもらえる。
わたしが、ただの人間だってことを。
ベルタがエルヴィンに向かって「変な病気とか持ってやしないでしょうね」と痛烈な批判をひとつ残してから、不機嫌を隠すこともせずに夢子が消えたキッチンへと向かったのを見送ってから、エルヴィンは深いため息を漏らした。
エルヴィンにあんな口を聞ける女性は、おそらくフラウベルタただ一人だろう。
それは彼女がただの家政婦であって、調査兵団の部下ではないからだという事もあるが、壁内で安穏とした日々を守り、変化を何より嫌う国民性そのものが強く反映されているようだった。ここに家を構えてから彼女にはずっと食事と家の管理を任せていた。彼女にとっては、彼女の母親の、そのまた母親から伝わったというキッシュのレシピをそのまた娘の娘へと変わらずに伝え、火曜日には町内の婦人サロンへ出かけて新しいスカートの型紙を考案し合い、たまにしか帰らぬ主人が帰ってきた時は必ず食後にシガレットを出して、一か月に消費されるシガレットの数が完璧に計算通りであり、一切何も変わらない生活を送ることこそが重要であった。
夢子の件はもちろん事後承諾だった。
洗濯や食事、そして入浴の手伝いという仕事を増やす分の手当ては増やした。しかし金銭のことが問題ではなかった。
夢子という存在は、保守的を中年女性にしたようなベルタにとっては恐ろしい敵であった。しかし、夢子の存在をエルヴィンが一般人である彼女に打ち明けた時、ベルタに選択肢は残されていなかった。ベルタにさえ、調査兵団の団長が手段をいとわない男だという事は分かっていたからだった。
得体のしれない小娘と一緒に得体の知れない中年男まで転がり込んできた。
食事の量は倍になり、シガレットも消費される。夢子のような女子供がシガレットを嗜むとも思えぬし、第一もったいない。仕方なく彼女が個人の楽しみの為に作った西洋タンポポのお茶まで出した。彼女にとって許せないことばかりだった。
その怒りを気付いていながら、エルヴィンは無視をして、ダリウスに向かって「良い子じゃないか」と洩らした。
良い子、なのかは分からないが、それでも自分がするべき事を探し、居場所を作ろうとする姿勢はエルヴィンにとっても納得のできるものだった。彼女がベルタを懐柔できるとも思えないが、それでも懐柔してくれたのなら自分に向かう怒りも収まり万々歳だった。
「良い子…ええ、良い子ですよ。知能も高い。さきほどの“でも”と話し掛けた言葉は私が教えた事ではなく、恐らくペトラ嬢の口癖から学習したのでしょう。彼女が我々の会話に割って入るのはいつも批判からでしたが、夢子の語学力ではそこまでは理解できなかった。が、しかしそう言って会話に入るのだから、そう話し掛けるものだと判断したのでしょう」
まぁ、間違ってはいますがね…と付け加えながらもダリウスの表情はどこか満足そうだった。
何か小さな復讐をエルヴィンにしたような誇らしさを覚えていた。―――あの娘は貴方が思っているよりもずっと、素晴らしい。
エルヴィンは再び椅子に深く腰掛け、曖昧に頷いた。夢子に学習能力は、あるらしい。
確かに単語、単語の歪な会話ではあるが、着々と意思の疎通が図れるようにはなってきたとエルヴィンも感じていた。だが、エルヴィンには夢子という生き物が理解できなかった。あの小屋で監禁していた頃もそうだった。あの小屋程度の粗末な監禁ならばいくらでも逃げ出す事ができただろうに、病気をしていた事を除いてもその素振りはない。夢子には「抵抗」の意思がまるで感じられなかった。媚びへつらう事ならば誰にでもできる。特に弱者はその術に長けているという事をエルヴィンはよく知っていた。
ならば夢子にとっての弱点、というものは何なのだろうか。
今現在にあっては、衣食住を失うことだろうか。
それとも壁外の秘密を知られることだろうか。
そもそも我々を欺いてる狂言なのだろうか。
エルヴィンには分からなかった。夢子が何を、望んでいるのかを。
「会話ができなければ、言葉がなくては、その人間性は分からない。本当は、“良い子”なんかじゃないのかもしれない」
何かを思案するように暖炉で煌々と燃える穏やかな火を見つめながら呟いたエルヴィンの横顔は、蝋燭に頼るしかない暗い部屋にあって、やけに明るく照らし出され、燃える光をその瞳に揺らしていた。