20
ベッドに潜り込むと、すぐにとろとろとした眠りがやってきた。
身体は眠りへと落ちる準備をしてすっかり力が抜けていくのに、頭は冴えてしまって眠れない。
今、何時なんだろ…、と思ったけれど部屋に時計はない。まだ時計が貴重で高価なのかもしれないけれど、時計は一階の玄関にある振り子時計ひとつだ。まるで「おじいさんの古時計」に出てくるような立派な時計。もしかしたらエルヴィンの部屋にはあるのかもしれないけれど、わたしが行っても良いと許可されているテリトリー内にエルヴィンの部屋は含まれていないので分からない。入ってはいけない、と言われた部屋に入ってしまった青髭の花嫁のような事はしたくないから、絶対に約束を守る。
今できることは、敵意がないってことを分かってもらえるようにするだけ…。
わたしは侵略者ではないし、何かを盗んだり、脅かしたりするつもりなんてまったくない。
帰る日まで、安心して眠れる部屋と、食事さえもらえるなら、絶対に大人しくするから…。
―――――帰る日、まで…
目を閉じて、ごろんと横向きに寝て、膝を抱える。
昨日はすっかり疲れ切ってしまっていて、考える余裕なんてなく眠ってしまったけれど、今日はなんだか目が冴える。
少しお手洗いに行きたい気がしたけれど、真っ暗な夜の廊下を通って、いわゆる「ぼっとん便所」に行くのが少し、心細い。
それに夜中にこそこそ歩いているなんて怪しがられちゃ困る…。
この時代には、まだ上下水道が完備されていないみたい。
あの…地下の、スラム街。ハイドニクの家から地上へと向かう道なりの中の悪臭。あれは、人間の汚物を路上に捨てた匂いだ。
大学の専門だった「肥料」の授業でやったなぁ…。西洋文化は、人間の糞尿をアジアやエジプトのように肥料として利用する事を嫌い、アジアではお金を出して買い取られるそれらを道や川へじゃぶじゃぶと捨てていたせいで、ペストやコレラの病気が萬栄した、と。エルヴィンは、地下街で暮らしていたハイドニクとは生活レベルが違う。
ハイドニクの家はまさしく「おまる」だった。
あれを平気でそのまま外に捨てるんだろう…。エルヴィンの家のお手洗いは陶器の洋式トイレが作られ「ぼっとん式」で蓋がされているけれど、窓に捨てるような取り外しができる様子でもないし、もしかしたら回収する業者がいるのかもしれない。
水道がないせいで、お風呂だってフラウベルタに手伝ってもらわなければ入浴できなかった。
一階にあるユニットバスになった広い部屋に、バスタブが置かれ、そのそばに薪ストーブのようなものがあって、そこで沸かした熱湯をいちいちお風呂に貯める。熱湯もバスタブに溜まる頃にはすっかりぬるま湯になって、入浴ができる。入浴は一大イベントだ。わざわざ庭の井戸から水を汲んでは沸かしてまた汲んで…と行ったり来たり…。日常的にお風呂に入る習慣はないらしい。今は乾燥した季節だから我慢できるけれど、夏の体臭はどうなるんだろう…とやっぱり気になる。
蛇口をひねれば水が出るわけじゃないから、キッチンの流しだって独特だった。
キッチンのすぐ裏口にある井戸から水を汲んで、木でできたタライに入れる。タライに粉洗剤を溶かしてそこで食器をじゃぶじゃぶと洗って、もうひとつの水だけが用意されたタライで洗剤を落とし、重ねておいた洗った食器を清潔な布で拭いていく…。大仕事!それに洗剤だって、日本で売っているような「手肌にやさしい」とか「手荒れ防止」なんて程遠いみたいで、ちょっと手伝っただけなのに手がすっかり乾燥してガサガサする。家事と仕事の両立は無理そうだ。きっと洗濯はもちろん洗濯板が出てくるんだろうな…。
そういえば洗濯女なんて職業があったなぁ、なんて考えていると、だんだん眠りがやってきた。
結局、フラウベルタは口を聞いてくれなかった…。
黙ってタライや水を用意して、一人でじゃぶじゃぶと食器を洗いだして、すっかりおろおろしてしまった…。
でも、負けちゃだめだ。突っ立っているだけなんて、悔しい、と思って、フラウベルタが真水のタライにつけた食器を奪って、さっきまで彼女がやっていた通りに食器を洗っていったんだ…。あの空気は、息苦しかったなぁ…。
どうしたら…受け入れてもらえるんだろう…どうしたら、ただの人間だって分かってもらえるんだろう…。
ベストフレンドになってください!とは言わないから、ここで生活することを許してほしい。
それから…
それから…
昼食を取っていると、裏庭の方からフラウベルタのイライラとした大きな声が聞こえた。
言葉が通じなくても、それが『ああ、もう!!』とか英語なら「SHIT!」位の意味だろうって事は人間としての本能で分かって、ダリウスと顔を見合わせてお互いに目をぱちぱちとさせた。なんか、手伝いにいった方が良さそう…?
「わたし フラウベルタ みた」
「見たじゃなくて、見る、という未来に向かって掛かる動詞で…まあそれは後でいいか。私も行きましょう」
どうも単語を間違えたみたいでダリウスの授業が再開されそうだったけれど、わたしが席を立つとダリウスもしぶしぶといったように一緒に席を立って、裏庭を覗くと、裏庭の植木たちに向かって頭を抱えているフラウベルタの姿を見止めて立ち寄った。もちろん…、わたしは無視されたので、ダリウスが様子を尋ねたらしく声を掛けると、フラウベルタがひとつの植木鉢を持ち上げ、ダリウスに突き付けた。彼らより頭ひとつ小さなわたしは、すぐにそれが何か分かって「あっ」と声を洩らした。
茎にみっちりとくっついた、アブラムシだ…。
フラウベルタがダリウスに向かって小言を洩らしている間に、しゃがみ込んで裏庭の植物の葉の裏や根っこや茎をよく観察して回ると、ほとんどの植物の茎にぷっちりと小さなアブラムシが密集して食いついている。アブラムシはコロニーをつくる虫だから、一匹いたら千匹はいる。どっかから繁殖してしまったみたい…。一通りダリウスに愚痴を言ったフラウベルタだったけれど、ダリウスから良いアドバイスがもらえなかったらしく、大きなため息を漏らした。本当は専門じゃないんだけど、まあアブラムシ程度なら…。
「フラウベルタ エルヴィン…あぁ、えぇーっと…」
本当は「昨夜エルヴィンとダリウスが吸っていたタバコの吸い殻をいただけますか?」と聞きたかったんだけれど、「タバコ」や「昨夜」「吸い殻」などの単語が分からなくて、指を二本口に当ててタバコをすぱすぱと吸うフリをするとフラウベルタが怒ったような顔をした。
「女が吸うものじゃありません!」
「ちがう わたし ちがう いる いる」
「ちょっとお待ちください。話を聞いてみましょう。彼女のする事はやらせてみなさい、とエルヴィン団長からの許可もありますからね」
ぴしゃりとフラウベルタに言われてしまい、それが早口だったためなんて言ったのかは分からなかったけれど、ここで折れてしまうとニコ中だと思われるのも癪なのでつい抵抗したけれど、でも言葉が続かなくてもごもごとしていたら、ダリウスが助け船を出してくれた。フラウベルタは不機嫌そうな顔を隠しもせずに家の中へ入ったかと思うと、新品の煙草が収められた銀色のシガレットケースを持ってきてわたしにつきつけた。それはいかにも高級で大切なもののようで、もったいない。
「エルヴィン ダリウス おわる おわる もの」
ああ、なんて言ったらいいんだろう!!!もどかしい!!吸い終わったものって言いたいだけなのに!!!
もどかしくてイライラしながら、タバコを吸うフリをして、それを捨てるフリをした。二人も困惑したようにわたしを見ていたけれど、ようやく理解してくれたらしいフラウベルタが屑箱に捨てられていたタバコの吸い殻を持ってきてくれて、やっと通じたっていう嬉しさに思わず『それそれ!』と大喜びしてしまい、彼女からますますおかしな者をみるような目を向けられたけれど、通じたことが嬉しくてすっかり平気だった。
「わたし これ できる!したい!」
「こら!シケモク吸うなんて真似はやめなさい!はしたない!」
煙草と植木を指さしてそう言うと、またぴしゃりと怒られてしまった…な、なんで?
「おい、あいつの事を憲兵団が嗅ぎ付けたぞ」
エルヴィンが出仕し、現代風に言うなら「自分のオフィス」に貯められた報告を眺めていると、すぐにノックもなしに入ってきたリヴァイはそう報告した。昨日は、ペトラに付き合ってもらい、保護された時から何も変わらぬ服を着たきりとなっている夢子の服を買うために定時で帰ったが、事態はその後に動き始めたらしかった。
この時代を生きるエルヴィンの知るところではなかったが、西洋を中心とした人種、民族や国民性を無視して、一緒くたになって壁の中へと逃れ生きている「人類」にそれぞれの国民性が反映できる自由はなかった。本来であれば大らかで陽気な大陸の国民性を持つ筈だったが、壁の中へと進退し、その身分を問わずに運命共同体となったこの百年、彼らの国民性は壁内という狭い社会ですっかり「村社会」となり、調和を乱す者という存在は疎まれる者となっていた。
―――夢子はまさに、調和を乱す者、だった。
変化することは疎ましい。
しかし、単調な毎日には飽きてくる。他人へと目がいく。常に話題と好奇心に飢えている。牽制し合う。
そんな毎日に飛び込んできた「夢子」という異質な存在の噂は尾ひれを帯びてトロストク一帯に広まっていた。
調査兵団が絶滅した東洋人を匿っている。
調査兵団が国の税金で怪しい女を囲っている。
その珍しい容姿で売春をしていた女が元締めの元を逃げ出して調査兵団に保護された…などなど。
言われるまでもなく、エルヴィンとて夢子についての噂が広まりつつあることは分かっていた。
だが、人の口に戸は掛けられない。ここで噂を撤回しようと動き回れば回るだけ、怪しいと言われるだろう。だが、それらの噂が大きくなり、民衆よりもいくらも調査兵団に対して意見を言える立場の人間の耳に届くことは避けたかった。珍しい者を収集する事を愛する貴族などに口を出されれば、どうなったものか分からない。対立関係にある憲兵団が本来ならば壁内の騒動を鎮圧する役割を握っているのだから、彼らに口出しをされれば法の下では夢子を渡す事になるかもしれない。だが、あの娘はただの犯罪者ではない。壁外へ通じる娘。
今、あの娘…夢子を調査兵団が失う訳にはいかない
「で、その聡明な頭にはどんなシナリオが用意されてるんだ?」
リヴァイの皮肉に薄く笑い、エルヴィンは昨夜、ダリウスと計画した事を話し始め、リヴァイが僅かに眉間に皺を寄せた。
「奪われる前に、我々の手で夢子を暗殺しようと思う」