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すっかり深夜になってからエルヴィンが帰宅すると、眠い目をこすりながら起きて待っていたベルタがすぐに酒とわずかなチーズを用意して主人の労をねぎらった。そしてどこかそわそわとした様子だったベルタに気がついたエルヴィンが「何かあったのかい」と声を掛けると、待っていましたとばかりにキッチンへと引っ込んだベルタは昼間、アブラムシがいっぱいくっついていた小さなバラの木の植木を持って戻り、小声で、しかし興奮した様子で昼間の話をした。


「スミス様、あの娘をどこで拾ってきたんですか?あんな水仕事ひとつ満足にしたことがないような手をした娘なのに、どっかの農家から拾ってきたんですか?見てください。何度水を撒いてもこの私を悩ませていた虫が、あの娘が作った水を撒いて、しばらくしてから清潔な水を撒いた途端、虫がみーんなぽろぽろと落ちていって、よくみたらみんな死んでしまったんですよ?」
「水?」


彼女が家事の合間、裏庭の植物を愛でることをこの家の楽しみの一つとしていた事も、この季節になるとどこからともなくやってきては植物をダメにする虫に頭を悩ませていた事も薄々知っていたエルヴィンの頭には、夢子が寝込んだ時に彼女がリヴァイと作ったという砂糖やら塩を混ぜた水のことを思い出した。


「ええ、スミス様とダリウス様が昨夜吸い終わった吸殻と、それから以前よりの吸い殻…吸い殻は火が出ますし、吸い殻があると浮浪者が漁って持っていってしまいますから、まとめてこっそり捨てようと置いておいた分まですっかり集めて水につけて、あとは触るなと放置したっきり。しばらくして水を見ると水はすっかり茶色のような黒っぽい水に汚れていましてね、それをあの娘が植物に掛けたんですよ!私はもちろん怒りましたとも。せっかくの植物に汚い水を掛けて、と。でもね、しばらくそうさせてやると虫がみんな死んでしまったんです!画期的なことですよ!婦人会でもぜひに話してやらないと!」


ベルタがこんなに興奮するのを見たことがないエルヴィンは、少し鼻白んだように口を結んでベルタを見下ろした。
そして胸には、やってくれたな、という満足感とも驚きともとれぬ気持ちがじわじわと込み上げてくるのを覚えた。
煙草は高価な嗜好品だ。ベルタが言う通り、誰かが捨てた吸殻さえ吸って恰好をつける不良もどきもいる。それだけ貴重なタバコなのに、水につけてしまえば二度と吸うことはできない。水に近づける、という発想さえない。しかし、その水で虫を殺すことができる。


あの娘の持っている知恵。
娘には、必要とあらば持っている知恵を全て惜しげなく披露する気でいるのではないか、とふと思った。
あの素人くさい娘の本心は、自分が考えているよりもよっぽど単純で、すでにこちら側に服従しているのではないだろうか。



欲しい、と思った。―――――夢子の持つ知識の、全てを。













この時代は夜が暗くて活動できない代わりに、朝が早いみたい…。


どんどんどん、と乱暴にノックされた音で目が覚めた。何かをひと声怒鳴っていった声でそれがフラウベルタだと分かった。寝坊しちゃったのかな、と眠たい目をこすりながら、窓の外を見ると青磁色、とでも言うんだろうか、まだ暗く、うっすらと青味がかった朝霧が辺りに降りている。部屋から見える井戸のある裏庭も、裏通りも、まだうんと暗い。鳥だって鳴いちゃいない。寝間着のままじゃまずいかなぁ…それとも遅くなる方がまずいかな…と考えながら、昨日ペトラが用意してくれた服の中から自分でも着られそうなクリーム色をしたワンピースを手探りで着て、一階へと降りていくとエルヴィンはすっかり身支度を済ませ、食堂でわたしを待っていた。もちろんダリウスも一緒だ。


早朝でも夜でも、いつ見てもエルヴィンの頭は因数分解なんてさらさらと解いてしまえるように目覚めているみたい。
この人も寝ぼけたりするんだろうか?一方のダリウスは、すっかり目をしょぼしょぼとさせて、目尻に浮かんだ皺がまたずっと深くなって皺の中に目が埋もれてしまっているみたい。いかにも低血圧そうに、「ああ…おはよう、夢子」とあくび交じりに言って、以前フラウベルタが出してくれたものと同じハーブティーを舐めるようにすすっている。フラウベルタに朝の挨拶をしたけれど、相変わらず素っ気なく返事が返ってくるばかりで、テキパキと朝食の準備をしている。


「わたし フラウベルタ コップ はこぶ」
食器の準備などを手伝いましょうか、と言いたいところだけどまだこの程度の語学力で許してほしい。
けれど今日はちゃんと通じたみたいだけど、首を振って拒否をされる。うーん…、なんとも…。



「夢子、座りなさい」
断られた気まずさで曖昧に笑ったわたしにエルヴィンがそうゆっくり声を掛けて、意味が理解できたわたしはわたしの為に用意されているらしい席についた。エルヴィンが、いつになくにこにこと笑っている。昨夜はすっかり遅かったみたいで、わたしもダリウスも先に夕食を済ませて寝てしまったから顔も見ていないのだけれど、一昨日の夜はあんなに難しい顔をしてダリウスと話し込んでいたのに、どうかしたのかな?


「夢子、引越し、の意味は分かるかね?」


こちらの世界の言葉も、英語や日本語のように疑問符になると言葉尻が上がるので何かを質問されている事はわかった。
“分かる”という単語も理解できたけれど、その全文の意味は理解できなかった。そして、分からない時は、分かったフリをして曖昧に答えるとダリウスから鞭で手のひらを叩かれるという事をよく身体で覚えていたわたしは、素直に「わからない」と答えた。分かっているフリをするとダリウスに叱られる。でも、わからない、と正直に質問する時、彼はいつまでもいつまでも根気よく説明をしてくれる。
エルヴィンは想定内だという顔をして、嫌そうな顔もせずに頷いた。


「これは、夢子。こっちはダリウス。これは、私…。今、この家にいる。これから、隣の町へと向かう。分かったかい?」


エルヴィンは、食卓に並べられたフォークをわたしと呼び、ナイフをダリウス、ティースプーンを自分だと言って並べて、指でくるっと丸を描いた。この状況、この家のことを言っているんだと理解できて頷くと、今度はわたし達、と仮定した三つの食器を掴んで、まるで指人形をトコトコと歩かせるように左右に可愛らしく降って、隣のポットへと移した。
……今日、どこかへ移動する、という事だろうか?


「わたし、ダリウス、エルヴィン 行く?どこ?」
「森へ」



夢子の所持品といえば、与えられた衣類程度のものであり荷造りなどはあっという間に済んでしまった。
あの小屋からこの家まで来た時のように、移動する事に怯え、ごねるだろうか、とエルヴィンもダリウスも懸念していたが、多少語学力がついた結果なのか、それとも彼らに対する安心感のようなものを覚え始めていたせいなのか、夢子は抵抗することもなく、大人しくエルヴィンに用意してもらった旅行バックに僅かな衣類を詰め込み、ダリウスの書物の整理を手伝った。


ダリウスがエルヴィン宅に持ち込んでいた書物の量は、彼が生涯の財産として、憲兵団からの拷問にさえ耐え、隠し通した命の記録だった。
それらはあらゆる人の手を介したせいですっかり擦り切れ、色あせ、古い紙特有の匂いを放っていたが、ダリウスはそれらをすべて丁寧に、大人が一抱えできる程度の木箱に詰め込んだ。エルヴィンに触らせることをしなかったのは、やはり心のどこかでまだ彼を信用できぬからだった。その点、夢子ならば文字を読むことができないと判断し、箱詰めを手伝わせた。
しかし、夢子の心中はダリウスが考えているよりもよほど複雑に動き、動揺していた。


『やっぱり変だ、この文字…』

ダリウスの目を盗んで開いた本の中の文字に、夢子がよく知るアルファベットがどこにも見当たらない。
夢子は曖昧な知識ながらもエルヴィン達の食生活や、顔立ちからゲルマン系だろうか、と判断していたのに、ギリシア文字のような、フェニキア文字のような、ヘブライ文字のような、ありとあらゆる太古の文字の形を混ぜたような姿形をしていた。アルファベットの原型には近いような物もあれば、象形文字か何かだろうか、と考え込んでしまうようなものもあった。


『中世ドイツ、っていうのは見当違い…?』


しかし、人買いから逃げた時に見た街並はテレビで見るドイツの観光地、ロマンチック街道のような木骨組の壁の、ドールハウスのような家が並んでいた。あの町並みや、今のこのエルヴィンの家の生活水準は、こんな古そうな文字が使われている古代の時代だとも夢子には思えなかった。少なくとも、ベッドやテーブル、椅子などは現代で使用されているものと変わらない。だったら、この妙な文字は一体、なんなのだろうか?ダリウスが趣味で集めているマニアックな本なんだろうか、とも考えたがその後手に取る本は全て同じような、古代の文字が一緒くたになったような理解できぬ物ばかり。


ここは、どこなんだろう…
なんだか嫌な汗を掻いていた。