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日が暮れるのを待って、大きなフードのついた外套をすっぽりと被せられて、玄関に横付けされた馬車に乗り込んだ。
今度の馬車は、あの小屋からエルヴィンの家へやってきた時のように窓に目張りはしていなかったけれど、こうも人目を忍んで移動しているのに勝手にカーテンを開けたら叱られるだろう、と判断して、わたしは外の様子が気になってたまらないのも我慢して、窓際に座ったにも関わらず、窓に手を触れることはしなかった。馬車に乗り込んだのは、わたしと、ダリウスと、エルヴィンだ。
わたしの隣にすわったダリウスは、窓を指さして「だめ」と言い、正面に座ったエルヴィンもまた頷いた。


自分の行動がひとつ「正解」だったことにほっとした。





馬車に乗り込む前、フラウベルタにお礼を言ったけれど、彼女はごく事務的に、主人の前だからというように「いいえ」と言ったっきりだったし、たった一度だけ見たブルーノという執事のような男性に合う事はなかった。エルヴィンの家で過ごしたのは、たった三日だった。
そんな短時間で受け入れられようだなんて、虫が良すぎたのかな…。


戦国時代に日本にやってきた宣教師は、どうやって日本で生きていたんだろう。
何もかもがまるで違う世界の筈。それなのにどうやって…どうやって生きて、どうやって白人を見たことがない日本人相手に、その人たちが信じていた仏様だのご先祖さまだのの信仰から、まったく別の神さまであるイエス様を信じさせることができたんだろう。学校の授業なんてアテにならないな。知りたいのは西暦何年に日本にやって来た…なんて数字じゃなくって、人間の生きた話が知りたいと思ったし、自分は本当に、なんにも知らないんだな…と思いながら目を閉じた。


けれど、走り出した馬車は、滑らかなアスファルトやコンクリートではなく、石畳の上!
馬車はガタガタ上下に揺れ、時折舗装が甘かったのか大きく跳ねて、固い座席に何度もお尻をぶつける。目を閉じて、“浸って”いる場合じゃない!馬車の上にくくりつけた荷物が落ちやしないかと心配になるけれど、二人ともいたって平気な顔をして椅子に座り、真剣な顔をしてネイティブの速さで会話をしている。馬が走る様子を「パカパカ走る」なんて言った歌があるけれど、本当にそうだと思った。人間で言うなら爪先立ちをするような馬の蹄。その蹄が地面を叩くときにできる空洞のせいなのか、空気が漏れる音がする。それに馬に取り付けられた馬具がリズムよく鳴る音がして、時折鞭の音がして、頭上ではガッタガタバタバタと括り付けた木箱やその中身が打ち付けられる音がする。馬がブルルッ、フンッ、ブルルーと乱暴に鼻を鳴らす。その間にもお尻をしたたかに打ち付ける。


馬車で移動するというのはなんて騒々しいんだろう!
こりゃルイ14世も、マーラーも、留学中の夏目漱石も、みんな痔に苦しんだことだろう…


「夢子が、笑ってる…」
『えっ』
エルヴィンがわたしの名前を呼んだのでそっちを見たら、エルヴィンもダリウスも少し驚いたみたいな顔をしてこっちを見ていたから、頭に「?」を浮かべて二人を見返すと、エルヴィンがさっきまでダリウスと話し込んでいたような真剣な顔ではすっかりなくなって、少し笑った。


「初めて笑ったね」
「え…?」


だって、こんな時に痔だなんて、なんだかふっとくだらなくっておかしくなって、笑ってしまった。
エルヴィンが何を笑っていたのか聞きたがったので、「ゆれる」と答えて手を上下させてみたけれど、きっと馬車の揺れなんて日常茶飯事の彼らにはそれだけじゃ通じない。でも痔だなんて、そんなこと説明できやしないしなぁ…。


「ゆれる うるさい たのしい」


そう言った瞬間、石畳の溝に車輪が取られたのか、馬車が大きく揺れて、シートベルトもないものだから前のめりになってしまい、あっ、と思う間もなくエルヴィンの太ももに思わず手を置いて身体を支えてしまった。エルヴィンが「大丈夫?」と聞きながらまた元の席に座れるように腕を支えてくれたけれど、でもそんな些細な一瞬触れただけなのに、わたしは息を呑んだ。男性の身体に触れたから、驚いたんじゃない。その筋肉のあまりの硬さに、驚いた。なんて筋肉質な太ももをしているんだろうか。まるでアスリートだ。よく見ればがっしりとした太ももに比べて、脛に伸びていく筋肉はそう太くない。まるでサイクリング選手のように、太ももの筋肉が随分としっかりとしていて、驚いた。
でも足をまじまじを見ているなんてまるで変態だから、見えもしないのに窓の方へと目をやった。


エルヴィンは、あの頃付き合った男の子の、誰とも違う身体をしている、と思った。
きっと、誰とも違う、生き方をしているんだろう。









やがて馬車が何か…門でもくぐったんだろうか、という音がして、少し走ったと思ったら馬車が止まった。
目的地に着いたんだろうか?でも「森」って言っていたような気がする。森に、石畳はあるのかな…。
外の様子は見えないのに、落ち着いている自分に気がついた。環境が変わることが、この間はあんなに怖くて、不安で、最悪の方向にしか考えられなくて、嫌で嫌で堪らなかったのに、今回は不思議と怖くなかった。言葉が少しだけ分かるようになって、エルヴィンもダリウスも説明をしてくれるからかもしれないと思ったけれど、ここまで生かして、教育を与えてくれる彼らがもうわたしをどうこうするつもりはないのかもしれない、とうっすらと期待するように思っているからかもしれない。


まさかキリスト誕生以前にいるとも思えない。この文明水準ならそう古代でもない筈。キリスト教徒はヨーロッパ中を占めている筈だ。
もしかしたら、みんなは博愛主義のキリスト教徒で迷える子羊を助けてくれる、とか…?


外から馬車が開けられ、エルヴィン、ダリウスにつづいて馬車を降りた。
そこにはエルヴィンが着ている兵隊の服と同じような服を着た若者たちが4,5人、松明の明かりを頼りに立っていた。もう見慣れたここの兵隊たちだろう。そのうちの一人、頬にニキビの後が残る天然パーマっぽい男性がエルヴィンに耳打ちしたかと思うと、案内をするように先を歩き出した。


…ここは、森、じゃない…?


まるで、要塞だ、と思った。
月明かりに照らされたその建物は、石造りでできた大きな館にはチェスのルークのような無骨な形の円柱型の建物がいくつもくっついている。お城、というよりも軍事施設のように見える。なんだ…、ここ…?そう思って見上げていると、すぐに髪を後頭部で結び、髭を生やした男性がわたしの背中を押した。何も言ってはこなかったけれど、先を歩き出したエルヴィン達にくっついて早く行け、という意味だと解釈して「すみません」と詫びると、彼は少し驚いたように唇を結んだ。緊張、している。
その反応に思わず立ち止まって、先を歩き始めたエルヴィンを思わず見ると、それが通じたのかエルヴィンが立ち止まって、振り返った。


……エルヴィン、笑ってる?



先頭を行く男性の手に持たれた松明の明かりを受けて、影になったエルヴィンの顔の全体は見えなかった。
それでも微笑みの形に浮かべられた口許だけが煌々と照らされ、わたしは息ができなくなっていくような気がした。