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部屋の一室に通された。


石造りの部屋は夜風に底冷えし、足元に敷かれた分厚い絨毯はすっかり踏み締められて汚れ、ほつれ、誰かが落としたタバコや暖炉の薪から飛ぶ小さな炎でところどころ焼け焦げている。随分古い絨毯らしい。その模様はどこかイスラム圏のアラベスク文様を思わせる抽象的な柄が描かれているけれど、アラビア語のカリグラフィーのような物はデザインされていない。中東との交易はまだないんだろうか?シルクロードさえ成り立っているのなら、いつか、分からないけれど、いつか、シルクロードの先、長安まで行くことができれれば日本に行くことができるんじゃないだろうか。ここが何時代なのかは分からないけれど、せめて日本に行きたい。


……いつの事か分からない。方法だって分からないけれど。


12畳ほどの部屋には軽く埃を拭った程度の長方形のテーブルが置かれ、部屋のあちこちに燭台が置かれているけれど薄暗い。
煌々とした蝋燭の明かりは、日本で売られているアロマキャンドルや仏間の蝋燭とは違い、「照明」を意識しているせいか芯が太く、明かりが強い。温度の低い赤い炎に揺らめく男の人たちの顔に影ができ、顔が影で隠れては現れ、隠れては西洋人めいた顔が緊張にこわばっているのが闇の中から浮かび上がった。



この建物に入ってから、なんの説明もない。
「森」へ行くって言っていたと思ったけれど、それはわたしの理解ミス?本当は違う単語だった?



同じテーブルについた男の人たち相手に、ネイティブ達の速さで次々に会話が飛んでいく。
早くてついていけない。時折「夢子」という名前を拾うことができるから、わたしの話をしていることは間違いないと思うんだけれど、わたしはすっかり蚊帳の外だ。次から次へと会話が進み、テーブルに広げられた地図にコインを置いて、それを移動させたりしながらエルヴィンが早口に会話を進めていく。と時折ダリウスがエルヴィンの話を切って、エルヴィンの動かしたコインをまた違う方向へ移動させている。


何の話をしているんだろう?ここから出るルートの相談?
会話はちっとも分からないけれど、でもなんとか理解したくて、わたしは必死にエルヴィンやダリウスの言葉に耳を傾け、読めない古代文字のようなものが書かれた地図の上を移動するコインを凝視した。視界の隅で炎の周りに溜まっていた溶けた蝋がぼろろっとこぼれ、こぼれていく形のまま固まっていった。この会議が始まってからどのくらいの時間が経ったんだろう。


少しでも会話が拾えたら良かったのに…。













夢子を席に付かせたまま、彼女の極秘移送の会議を始めようとしたエルヴィンを遮ったのはエルドだった。
エルドは彼女がさきほど「すみません」と言ったことを強烈な印象を持って覚えていた。
明らかに、自分たちとは違う顔立ちをした人種の娘。ペトラから「多少の会話ができる」とは聞いていたが、実際に自分たちの言葉を発するのを見るとわずかにたじろいでしまった。調査兵団の任務の意味。壁外で巨人を殺しつくす事ではない。人類領域外の調査。


――――多すぎる血を流し、俺たちが目指したものの手掛かりが、目の前のこの小娘に?



「いや、このままでいい。あえて聞かせておきたい。彼女の全てが狂言だとして言葉が通じているのだとしたら、自分がこの先どうなるのかを聞いて顔色を変えるか見てみたい。分からなければ分からないで、理解できぬのだから放っておけばいい」


そうして会議は始まった。
エルヴィンの大胆な作戦にエルドは思わず息を呑んだ。思わず横目で末席に座る夢子を横目に見やったが、彼女は顔色ひとつ変えずに彼女と仮定したコインを見つめている。エルヴィンが手を伸ばし、地図の上からコインを取り上げた。地図からコインが消えた。それが意味することを理解していないらしい。自分の運命を聞いて、こんな小娘が顔色を変えずにいられるだろうか?


本当に言葉が通じていない、のか?


そんなまさか…。
この地上に存在する全ての人類がこの壁内に生きている以上、地域によって多少の民族や風習の違い、方言などがあっても、俺たちの話す公用語を全く理解できない民族がいるはずがない。この女、この年までどうやって生きてきたっていうんだ?


「しかしあいつらがそう思い通りに動くのか…」
地図を睨みながら腕を組んだオルオにエルドは内心でここにペトラがいたらまた怒ったろうな…と思った。まあ分からんでもない。
多少イラついたのは忘れるとして、確かにオルオの呟きには理解できるものがあった。この作戦は先方がこちらの思う通りに動いてくれる事を前提として成り立っていた。エルヴィンは地図を丸めながら少し笑みを浮かべた。


「ツテがある」


エルヴィンが笑みを浮かべるとき、どこかうすら寒い気持ちになるようになったのはいつからだろうか。
入隊したばかりの頃は気付かなかった。しかし、同じ時間を過ごすうちに、エルドはこの男の笑みにどこかうすら寒いものを覚えるようになっていた。憧れだけだはない、どこか、畏怖するようなもの…。しかし、笑みが浮かびあがる時、それはその計画がエルヴィンにとって「完璧」に裏付けされたものだという事を理解するようになった。恐ろしい。しかし、「間違い」がない。
もしかしたら自分は、この人に心酔しているのかもしれないな、と思った。



「さぁ、お姫様を護衛しようじゃないか」





出発は随分日が昇ってからだった。
エルヴィンの家を夜逃げのように、真夜中にこそこそと目立たないように抜け出したのにわたしとダリウスを乗せた馬車は、真っ昼間の街中を移動する。ご丁寧にエルヴィン達と同じ軍服を着た騎乗の兵士たちに護衛されているらしい。わたしには、まるで絵本の中の悪い魔女が被っているような頭から足元までを覆った黒いローブが与えられ、ダリウスが目深にそのフードをわたしに被せた。警戒は、している。けれど、馬車の中にはカーテンが引かれていない。最初、カーテンを閉めるのを忘れていたのかと思いカーテンを引こうとしたらダリウスに止められた。ダリウスはにこりと微笑んで「不要」と言った。わたしの頭には「?」が浮かんだけれど、逆らうことはせずにそのままにしておいたおかげで、この時代に来て初めて、と言ってもいいくらい、わたしはじっくりゆっくりと町並みを観察することができた。


―――本当に、ひとつの国だ。


ありえないけれど、でも、頭のどこかでこれは壮大なドッキリで、一般人を過去にタイムスリップさせたら、なんて海外のリアリティーショーが行うような手の込んだ仕掛けで、ここは撮影所やテーマパークのような中世っぽい町並みを作ったセットなんじゃないか、なんて…。でも、違う。ここには、ひとつの生活があった。


すっかり陽が昇ってから要塞のような堅牢な石造りの建物を出て、わたしを乗せた馬車はしばらく田園地帯を走ったかと思えば町へと入っていった。
田園地帯から町へと広がる空は、湿度が高いせいかどこか白みがかった日本の青空ではなく、宇宙まで抜けていくようにやけにさっぱりとした深く青い空に、子供が絵具で書いたような白々しいほどふわふわとした雲が浮かび、どこかに飛行機雲や、電柱や、ヘリコプターの影でも見つからないかと必死に探したけれどそんなものはどこにもなく、青々とした葉を茂らせる葡萄の棚田が規則正しく続いている。あの葉の様子からするとヨーロッパの八月頃の色だ。畑の傍の囲いの中で羊が力強い生命力を持っているようにやけに青い草を食んでいる。庭に干されたシーツが風を受けて白く光りながら揺れている。畑の野菜に向かって腰を曲げて作業をする農夫たちが背後に消えていく。確かに、わたしは夏にいた。夏の日の日本にいた。アスファルトから立ち込める熱気で汗を拭って大学からの道を歩いていた。夏だ。
でも、こんなところは知らない。わたしの知らない夏の景色だ。



――――なんだか胸がどきどきする。胃の底がざわざわとして、吐きそうだ。


田園風景の中にぽつり、ぽつりとまるでお人形の家のようなオレンジ色の屋根に木組みされた壁が特徴的な家が畑に中に現れては、その家の形はそれぞれ違うものの、おおむね同じようなオレンジ色の屋根に壁を木枠で区切られた家がひとつからふたつ、ふたつからみっつ、よっつ…と道を進むにつれて密集しはじめ、やがて街道と呼んで良いような家々の密集地帯を抜けた。馬車が大きな門をくぐり、町へと入った。パーカーや、ジーパンや、デニムシャツや、Tシャツじゃない、まるで中世の映画の登場人物のような素っ気ない服を着た人々が門を往来する。人々の流れを避けるように馬車の歩みが遅くなる。頭にジャガイモの入った籠を載せて歩く中年の女性と目が合う。モンゴロイドではない、顔。緑色の瞳。アジア人なんてどこにもいない。道端に布を広げて食器を売る人がいれば、スーパーに並ぶ野菜よりも随分と不格好な野菜を売る男がいる。荷台に積んだチューリップを売るおばさんがいる。人々の群れは「生活」へと向かって歩いている。


耐えられない。
彼らの生活感がわたしの心臓を握りつぶすように締め付ける。



―――――――――でも、なんだろう、この違和感は?



突如馬車の外で何かを叫ぶ男性の声がしたかと思うと、馬車が大きく波打つように揺れて止まり、わたしとダリウスが声を上げてつんのめり、顔を合わせた瞬間、馬車のドアが乱暴に開けられ、何かを大声で話しながら男が入ってきた。
えっ、なに、エルヴィンの仲間?



「XXXXXXXXXXX!!!!!」



ダリウスが何かを叫んだ。
男の腕がまっすぐにわたしの首根っこに伸びて、ダリウスの制止もままならない力で悲鳴をあげることもできずに馬車から引きずりだされ、強かに石畳で背中を打った。思わず目を見開くような鈍痛を息を呑んで耐えたわたしの身体にいくつもの腕が伸び、わたしは声を上げたのにそれは誰の耳にも届いていないかのようにいくつもの腕や足で抑えつけられ、頭のローブを乱暴に引きはがされ、頭の中でブチブチと髪の毛が抜ける音と痛みと共に視界が開け、まわりの男たちが息を呑む。男の一人がわたしの顎を砕くような力で掴んで顔を上げさせ、わたしは悲鳴を飲んだ。黒髪に無精ひげの男と目が合う。わたしを引きずり落とした男だ。


「XXXXXXXXX」


男が何かを言った瞬間、後頭部から伸びた手がわたしの口にタオルを噛ませる。猿ぐつわだ!そう思った瞬間声にならない悲鳴を上げて持って居る力の全部で暴れる身体に縄が通され、容赦なく締め付けられた間接や筋肉が悲鳴を上げた。


わたしに馬乗りになる男たちの腕や肩の間から、馬鹿みたいに青い空が見えていた。