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倉庫だった。


二畳ほどの狭い部屋に、穀物か何かが入ったような麻袋が積み上げられ、埃をかぶり、何に使うのかも分からない布やロープや板などが壁に立てかけられ、わたしが座るほんのわずかなスペースいっぱいに駕籠に入れられたジャガイモや玉ねぎ、ニンニク、人参などの野菜が置かれている。これだけあればカレーかシチューが作れるな、なんて馬鹿なことを考えていないと身体が震え出して止まらないし、馬鹿なことを考えていると身体の中がどんどんブラックホールに飲み込まれていくように空虚な気分になった。


もうだめだ。


後ろ手に縛られたままの腕。さっきまで鈍い痛みで間接が悲鳴を上げていたのに、もう感覚だってない。
ゆっくりと指を動かそうとすると流れが悪くなった血がじわりと流動することを感じるほど。猿轡は外されていたけれど、「たすけて」という言葉を吐き出す先が見当たらない。あの街で、男たちに取り押さえられ、この地下倉庫に放り込まれてからどれくらいが経ったのか分からない。

僅かに尿意を覚えたけれど、それも全て苦しい脂汗となって溶け出していくようだった。
縛られた足を横に崩した姿勢ももう限界だった。倉庫の扉にはわたしの頭の大きさほどの格子窓が取り付けられていて、廊下にともされた松明の明かりが漏れる部屋はただただ薄暗く、時間の流れが分からない。


もう、だめだ。


ダリウスはどうなったんだろう。エルヴィンは?
あの男たちはエルヴィンやリヴァイ達と同じような服装をしていると思った。軍隊?警察?
わからない。でも、もうどうでもいいから。――――早く楽にしてほしい。



どさりと顔を麻袋の上に乗せる。体勢を替えおかげで少し腕の力が楽になる。
ぼんやりと目の前の駕籠に入ったジャガイモを見つめる。日本のスーパーには並んでいないような小さく形の悪い素人目にも等級の低いジャガイモには少し芽が出始めている。種イモにするんだろうか。去年の夏が懐かしい。ゼミのみんなで北海道へ農業体験へ行ったっけ。朝から晩まで土をいじって、野菜を比べて、JAの人から講習を受けて、牛の糞を掃除して、夜はジンギスカンパーティー。普段研究室にこもってばかりで、レイチェル・カーソンだのBD農法だの、窒素だのリン酸だのの研究をして土を触る機会があまりない学部のわたし達の使えなさに農家の人が「本当に農大生か」なんて大笑いしてたなぁ。あのおうちの中学生の男の子、あの子の方がわたし達よりよっぽど土や動物のことを知っていた。良い年をしたわたし達なんて、ろくに料理ができないメンバーばかりで、慣れない農作業にくたくたで料理をする気力もなくて、ずっとカレーだった。ああ、楽しかったなぁ…。コンビニまで五キロも歩いて、携帯だって通じなかったけれど、星が本当に綺麗だった。みんなで市から借りた空家に住んで、毎日毎日カレーのかさ増しばかり…。


だからジャガイモを剥いてばっかりで…ジャガイモ…


ぱっと身を起こすと腕が悲鳴を上げたけれどそんなことは構わずにわたしは、ジャガイモがたっぷり入った駕籠を見下ろす。
ああ!どうかしてた!!どうして……どうして今まで気がつかなかったんだろう。



この時代は、なにかがおかしい!!!












この時代の夜は闇だった。
ビルやパチンコやコンビニやキャバレーのネオンもなく、車のライトや最低限の街灯すらない。
街の中へと行けば魚尾灯と呼ばれる魚の尾鰭のような二股、三股形に分かれた炎が灯るガス灯からの蝋燭よりも断然明るい光が街を照らすが、山奥と言っていいような壁内でも僻地にあって、夜は闇だった。闇の先で何かがガサガサと音を立てれば、そこから一体どんな魔物が飛び出してくるのかと大人の男ですら身構える。暗い地の底のような闇の中、男たちは静かに馬を走らせていた。下弦の月がぼうっとその輪郭を覆う雲を闇の中で浮かび上がらせているが、それでも暗い。闇だ。


男たちは普段ならば自分たちの所属が分かるように、そしてその言葉に尽くせぬ誇りを誇示するように、揃いの紋章がデザインされたジャケットを着こんでいたが、言葉もなく、松明も灯す事無く闇の中の街道を縫うように走る男たちは分厚い外套を着こみ、まるで夜盗のようですらあった。いくらかの街道を走ったのち、一行は人一人歩いてはいない町の中へと入っていった。蹄の音に驚いた野良犬がゴミ箱から顔を上げて更に薄暗い闇の中へと逃げた。


「兵長、そろそろ目的地です」


葦毛の馬を先頭を走る男に近づけていった人間の顔がフードの間から月夜に浮かんだ。ペトラだった。
声を掛けられた男、兵長がわずかに頷いた時、前方にうっすらと明かりが灯る建物が見え始めていた。――――ストヘス区、憲兵団支部


「作戦を実行する」

リヴァイの言葉はそれだけだった。
それだけで十分だった。




拘束が一度解かれた時はあまりの解放感に少し涙が出た。
肩から腕の関節や筋肉の全てが指先を少し曲げただけで血がどくどくと流れる感覚が強くなった。指をよく見ると細かく震えている。痙攣していた。ずっとねじりあげられていた背中の筋肉が一歩歩くたびにギーギーと古く錆びたブランコの鎖のように鳴るような気がした。満足に歩くことができない。足の感覚がまるでなくて、膝の関節がうまく動かないせいで重い太ももを前後に動かして、おたおたとよろけながら歩くたびにわたしの前後を歩く兵隊たちが腕を引っ張り、舌打ちした。それでもトイレに連れていかれた時は少しほっとした。もう少しでこの時代で自殺の理由がひとつ増えるところだった。



―――本当に「過去」だというのなら、の話だけれど。
今度は拘束されることなく倉庫に放り込まれた。時間の流れはさっぱり分からないまま、わたしは小麦か何かの入った麻袋に顔を埋めた。荒い麻袋の目が腕や頬や額にちくちくと食い込んだけれど、鉛のようにぐったりと疲れた身体はそんなことはどうでもよくて、ただ休息が欲しかった。


わたしをどうするつもりだろう?
“これ”を仕掛けた人は、わたしをどうするつもりなんだろうか?
こんな事はなんの意味もないし、どうしてわたしが“選ばれた”んだろう?


腕を伸ばして、芽が出始めているジャガイモをひとつ掴んで手の中で転がす。
少し匂いを嗅いでみると、土臭いような、カビ臭いような匂いがする。ぐっと手の中でジャガイモを握る。



ここが中世ヨーロッパだとするなら、この時代のヨーロッパに、ジャガイモなんて存在しない。
ペルーやボリビアなどの南米アンデス原産で、その地域で主食として食べられていた芋は「コロンブスのお土産」と呼ばれ、新大陸発見以降ヨーロッパへ持ち込まれた。しかし聖書が全ての教科書であるキリスト圏の人々は聖書に載っていない野菜を気味悪がって食べることはしなかったし、悪魔に魅入られた堕落した王女の墓に実った「悪魔の食べ物」であり、食べれば天国の扉は永遠に閉ざされるだなんて迷信まであった。またそれはたびたびヨーロッパを襲った不作や飢饉でも頑なに口にされることはなかったほどだ。時の権力者があの手この手で、時には金品を撒いてまで飢餓対策に普及させようと苦心したジャガイモ。


ジャガイモがヨーロッパで食べられるようになったのは、コロンブスが持ち帰ってから更におよそ300年経った、18世紀に入ってから。
ここでの食事にジャガイモは当たり前のように出てきた。民衆の間では当然の食事となっていた。もしもジャガイモが根付いた様子から考えるに18世紀も随分過ぎた頃だというのなら、何かが絶対的におかしい。


18世紀。
日本なら江戸時代も中期から後期になろうとする頃だ。変だ。文明の発達が18世紀ではありえないほど遅れている。
それに男たちに拘束される前、わたしと目が合った女性の瞳は、緑。緑は北欧系の遺伝子じゃなかっただろうか?
でも町並みのあの組み木の壁はまるでドイツのロマンチック街道にある、よくパンフレットやテレビでみるような様子だった。
ここはドイツ?でもおかしい。町で売られていた花は、チューリップ…チューリップは、アナトリア半島、今のトルコの辺りの筈。オスマントルコの領地拡大の流れで伝わったチューリップはとても高価な花で、とてもじゃないけれどあんな路上で売られる花じゃない。



どうして気がつかなかったんだろう。
一体何年大学で農業や、それにまつわる野菜や植物について勉強していたっていうんだろう。
もしも学校で習ったことが正しいというのなら、この時代は何かがおかしい。誰かが何かを仕掛けている。



こんな時代はありえない。ばかげている!







扉が開いた。
松明を持って立っていたのは、あの時、わたしを馬車から引きずり下ろした男だった。
その後ろに立つ男は、顔に覆面を被り、手には大袈裟なほど大きな斧を持って居た。