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リヴァイの顔を見つけた瞬間の安堵感を、わたしは一生忘れないと思った。




もう大丈夫だって思った。心の底から、もう大丈夫なんだって思った。それ以上の言葉はなかった。
安堵感なんて言葉では言い表せないくらいの強烈に大きな気持ちがどっと身体にこみ上げて、あ、と思う間もなく意識を飲み込んで、視界が真っ暗になったのを覚えている。それから揺れる身体に目を覚ました時、馬が引く荷台に乗せられているんだと気がついた。


頭がズキズキとひどく痛み熱を持ち、悪夢を見た朝のように体中が硬直していた。
目を開けると恐ろしいくらいの星空が広がっていて、夜風に震えた。身体を起こすことはできなかった。それでも、自分の身体に被せられていたジャケットを見て、リヴァイのものだと思った。何故かはわからない。わからないけれど、でも、そうだと思った。そうしたらまた瞼がとても重くなって、目を閉じた。なめらかなアスファルトのように舗装されているわけではない道を走る荷台はとても揺れて、うるさくて、溝に車輪が引っかかるたびに揺れる身体が板の間に打ち付けられて決して快適とは言えない状況だったのに、身体は芯から疲れ切っていて、目を閉じることしかできなかった。



もしもリヴァイ達の為に出来ることがあるのなら、わたしはなんだってやってやる。
なんだって差し出そう。











「私が欲しかったのは、夢子からの強烈な信頼」


その一方を堪らない気持ちで眠れぬ夜を待っていたエルヴィンとダリウスは明け方にも関わらず飛び込んできた早馬からの伝達を読み終え、それぞれが息を呑んだ。はっきりと言葉にしたエルヴィンの口許にはうっすらとした笑みが浮かんでいたことに、ダリウスは表情を曇らせた。


野心を隠そうともしないエルヴィン。
その目論見のために、あの娘が惨たらしい目に合ったことは聞くまでもなかった。いや、エルヴィンだけを責めることはできない。自分もその計画に大きく加担した。夢子の目の前でわざとそのおぞましい計画を話した。もちろん、最終的に救出するつもりだ、という点は隠し、今後の夢子の身の振り方を最悪の方向で計画する会話の茶番を続けた。夢子は表情ひとつ変えず、まるでただの町娘のような顔をしていた。
あの娘が、どんなに怯えたことだろうか。



―――しかし、夢子は、命乞いをしなかった。


司祭の恰好をさせた兵士が夢子に向かって「一言命乞いをすれば今までの奇行は忘れ、生命と食糧と市民権の維持を約束しよう。でなければ極刑である壁外追放は免れぬ」と芝居がかった声で話したが、夢子は全く言葉を理解せずに抵抗した。これから処刑されようという恐怖の中、彼女はその力の持つ限りの抵抗をした。媚びはしなかった。しかし、生きたいと全身で抵抗をした。生命への執着。しかし、無慈悲に迫る死。脳が溶けるような恐怖。そこから救い出したのは、我々だ。


「畜生とて命を救われれば主人を理解する。私が欲しかったのは夢子からの強烈な信頼。誰を信頼し、誰を頼り、誰に依存すればいいのか、理解させたかった。これで夢子は、決して裏切らない」


彼女には、極限までストレスを与えるように指示している。拘束される苦痛。五分が一時間にも永遠にも感じられる長い沈黙の中、死への恐怖をじっくりと教え込んだ。それでも彼女は媚びない。なぜ?―――――本物だからだ。

エルヴィンの身体は興奮に震えた。
ゴブレットを持つ手が震え、ゴブレットの中の葡萄酒に波が立つ。


「人類の真実」に最も近い存在が手の中に転がり込んだ。
この百年、隠されていた真実。指先にかすりもしなかった壁外の文明。その真実を知るために、自分たちは一体その秘密のためにどれだけの血を流し、人間の想像しうる地獄絵図を超えた地獄を見たことか。どれだけの部下をおぞましい死へと追いやったのか。どれだけの仲間が墓も作れぬ葬式をしたのか。どれだけの人間が恐怖に人間ではなくなってしまったのか。欲しい。夢子の持つ知識が、夢子が持ってきた文明が、夢子が暮らした社会が、欲しい。喉から手が出るほど、欲しい。もしも夢子の持って居た我々の文明技術を超越した技術で作れた書物に載っていた、服や、化粧品や、食物や、着飾って無邪気に何も知らぬ顔で笑う女たちの暮らす世界が壁外にあるというのなら、我々は一体なんだというのだ。




神が存在するというのなら、我々はただ巨人の退屈を満たすための生餌でしかないというのか。
小さな箱庭に閉じ込められ、ただ死を待ち愚かな抵抗を続ける人類の、それでも生きようとする意味はなんだというのか。



夢子は、本物だ。
夢子一人で彼女の持ってきた技術が成せる筈がない。絶滅した東洋人の顔をした夢子が、我々の知らぬ文明を持って居る。あの本には夢子以外の東洋人の生き写しのような精巧すぎる絵も沢山載っていた。夢子以外の東洋人が生きて、どこかで着飾って、面白可笑しく生きている。この地獄も知らぬ顔で笑っている!!どこかに比べようもないほど発達した技術を持ち、絶滅した東洋人や我々のような顔立ちの人間が住むコミュニティが存在する。どういう因果かは分からないが、そこに属した夢子が我々の社会に現れた。


ならば我々が沈黙し、ただ生餌をなって生きる理由はない。




「時々、夢子を見ていると怒りで胸が震えるよ」


普段の明瞭な声とは打って変わり、注意していなければ聞きもらしてしまうような弱弱しい声で吐き出したエルヴィンの言葉に、ダリウスは答えることができなかった。調査兵団の団長として生きた彼と、壁外に人類がいた頃の文明を愛する自分と、その壁外への想いが違うことは分かっていた。彼はおぞましい現実を知っている。自分は過去の栄光を夢見ている。夢子への…夢子が生きた社会への憧れ。嫉妬。憎しみ。人類の最前線に立ち続けるエルヴィンの夢子への憎しみにも似た強すぎる執念に、ダリウスは肌がピリピリと感じるほどの緊張感を覚えた。


この男は、真理を得るためならどんな事だってするだろう。


エルヴィンほど夢子に対して懐疑的ではないダリウスは、夢子に言葉が通じないと学者として理解していた。
全く異なる言語社会で生きていたのだと理解できた。だがエルヴィンは違う。慎重すぎるエルヴィンは、確かに夢子からの信頼を得るための作戦であったが、「本当に夢子に言葉が通じていないのか」を確かめるために、この残酷な計画をたてた。これから先、エルヴィンが「確認」のためにどれほどの試練を夢子に与えるのか、ダリウスには計り知れなかった。


採れたばかりの新酒の葡萄酒の色はまだ鮮やかな赤色をしていた。
青白くほのかに明るい光の中、おだやかに沈黙する葡萄酒の水面に浮かぶ自分のこわばった顔は、これからこの男の地獄の道連れに悪鬼となるのだろう。
ダリウスの青ざめた顔とは打って変わり、顔を上げたエルヴィンの瞳は興奮に爛々と光っている。



「私は夢子を信じる。それだけの価値があると判断した。夢子を守る。それが、調査兵団の成果となるのなら、私はなんだってしよう」













物音にふっと目を覚ますと、ヒモがぶら下がる蛍光灯なんてついていない木目もあらわな天井だった。
枕元に置かれた太い蝋燭を見て、ああ、まだ悪い夢の中にいるんだ、と思った。なんだか体中が痛くて、無意識に手を当てた髪に包帯が巻かれている。二日酔いみたいに頭がずきずきとして、熱を持っている。けれど寝かされているベッドが長い間使われて来たシーツ特有の毛羽立ち、柔らかさを持っていて、よく洗濯がされた良い匂いがして、大きな窓から部屋に差し込む明かりが柔らかくて、とても穏やかな気持ちだった。


「目が覚めたか」


部屋に入ってきたのはリヴァイだった。
あっ、と身体を起こそうとしたわたしの肩を押さえてそのままシーツに戻したリヴァイは無表情で、その感情は読み取れなかった。
リヴァイが手に持って居るトレーの上には食事が乗っていた。まるで、この時代に来たばかりの頃、食中毒になったわたしを介抱してくれた時のようだった。あたたかい日差しの中、何も言わずにわたしを見下ろすリヴァイの顔を見て、もう百年も会っていない親しい人に再会したような、言葉には言い尽くせない懐かしさに胸が掻き毟られるような気持ちになった。


でも、もう泣かなかった。
泣いてしまおうと思えば、簡単に泣けた。でも、わたしは唇をかみしめて、カッと熱くなる目頭を堪えるわたしの額にリヴァイが手を乗せた。額に感じる掌の皮膚が肉刺だらけでとても固い。リヴァイの掌と、わたしの額の体温が溶け合って交じる。その安堵感と感謝の気持ち。


そして――――怒り。
一体何度、わたしはこの人に助けられるのだろう。
一体何度、わたしはこの人の手を煩わせるのだろう。


あの時、食中毒に喘いだ時、わけもわからなくて、言葉も何も話せなくて、何も言えなかった。伝えられなかった言葉。
今は分かる。今は言える。今は伝えられる。こんなにも、心を込めて、呪いですらあるような気持ちを込めて、伝えることができる。今までこんなに切ないほどの気持ちで口にしたことがあっただろうか。こんなにも身が引き裂かれるような強い気持ちで、祈るように言ったことなんてなかった。何度も何度も口にしても、何度も何度もリヴァイが頷いても、わたしのこの身体を支配して、熱く膨張を続け、海が溢れるような気持ちがどれだけ伝わったか分からない。たとえ日本語が通じたとしても、一体わたしがどれだけの気持ちでいるのか伝えることなんてできない。



だから、わたしは、この人の、この人に繋がる全ての人の、役に立つ人間になろう。
その為に、なんだって差し出そう。
なんだって……リヴァイが救った、この、命だって。


だから絶対に、負けない。
「どうしてわたしだけ」とか「もういやだ」とか、そんな弱音を絶対に吐かない。
どうしてこんな世界、こんな時代があり得るのか、どうやってこんな場所に来たのか、それは分からない。
分からないけれど、でも、これはわたしの現実だ。なら、もう負けない。


この身に降り注ぐ運命に、向かいくる逆境に、わたしは勝つ。