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それからまた、わたし達は移動した。
ダリウスと再会したわたしは、欧米人特有の寛容さでわたしを抱き締めたダリウスの腕の中で崩れ落ちそうな気分だった。
頭の傷がズキズキと痛み、途方もない安堵感と、それからとてつもない疲労感、それら全部がいっぱいになって、わたしは再会を喜ぶ声も出せずにダリウスの腕の中でされるがままとなった。ついた溜息がじんわりと広がる音だけがいやに大きく聞こえた。


移動のメンバーに、リヴァイやペトラがいてくれた事もわたしが安堵できた一因だった。
他にも何度か顔を見た事がある男の人たちがいて、この人たちがリヴァイの部隊とかチームのメンバーなのかもしれないな、と思った。ぺトラ以外の彼らからは、決して好意的にわたしと友好を築こうという空気はなかった。ただ、命令された通りに、物珍しいパンダを護送する警察官のような、事務的でいて、それでいて遠巻きに物珍しい動物を見る目が露骨に感じられた。


…わたしの頭に手を置いた日から、リヴァイとゆっくりと顔を合わせた事はない。


リヴァイはいつも忙しそうにメンバーの人達と何かを話し合っているし、気軽に声を掛けられれタイプの人でもないような気がして、つい尻込みしてしまう。あれこれと単語で話しかけてくれるペトラの優しさにばかりつい甘えてしまう。でも、ペトラだって仕事なのかもしれない、とか疑心暗鬼になっている。言葉が通じない今、相手が顔で笑って本当は何を考えているのか気になって気になって仕方がない。誰かの話す言葉が、笑う声が、溜息が、全部自分の事なんじゃないかって気になってしまう。前は生きることに必死で、自分がどう思われているのかなんて卑屈なコミュニケーションを疑うことはなかった。でも、今は、ひとりの人間として気になってしまう。それはきっと、状況が改善されたからだ。一歩前に進んだからだ。悪いことじゃない。もっと広い目を持てたのは悪いことじゃない。


でも、こんな事じゃ駄目だ。
もっと言葉を覚えてコミュニケーションを取っていかないと。
何か彼らの役に立って、何かわたしにもできるって事を証明しないと。………この世界に食らいついてやる!



野宿を3回繰り返し、外での排泄やシャワーの我慢にも焚き火に集まる大きな虫や、酢漬けキャベツと薄いベーコンの塩辛いばかりのスープや、硬く焼き締められた酸いパンにも、わたしの中の「若い娘」はもう何も文句や不満を覚えることはなく、与えられる生命と食事に信じられないほど、心から純粋に、感謝していた。あの街で…日本で当たり前だったものや感覚が徹底的に踏み付けられた今、自分の中から余分なものがゆっくりと削ぎ落とされて、どんどん硬く、鋭くなっていくような気がした。



もう夢は見られない。
神様にすがって祈るだけじゃ生きられない。
でも、心の支えになるような神様がいたら、と思わないこともない。けれど神様の名前なんてわからない。祈り方だってわからない。お盆帰省して、ハロウィンやって、クリスマスを祝って、除夜の鐘を鳴らして、神社で初詣するようなわたしの生活には、祈る神様なんて必要なかったから。


でも、迂闊に宗教儀式もどきをしない方が良さそうだ。
ここがわたしの知っているヨーロッパでなかったとしても、科学が発展していない場所で神様を持ち出すのは危険だ。もし歴史が間違って伝えられているだけで、ここが正しいヨーロッパだったとしたら、キリスト教と言っても細分化されたルールや様式や解釈が、時代によって戦争のきっかけとなったり、魔女狩りなんかがあっただろうから、迂闊なことはしないでおこう。


わたしは、祈ったりしない。
わたしは、目の前のことを信じる。







そうやってわたしが疑心暗鬼に、虎視眈々と、すべての事を慎重に観察して息を殺してやってきたのは広い広い農園のようなものが広がる田舎だった。まるでミレーの落穂拾いのような、どこまでも続く平野や、風景を囲むように日本とは違う種類の木々の生える緑の濃い森が広がり、家と家の距離がとても遠いような田舎だった。


そして一行が馬を止めたのは、一軒の小さな古い家だった。
馬に乗れないばっかりに、ずっと荷台に乗っていたわたしは身体が痛くて、それに痒くて痒くて仕方がなかった。振動軽減クッションなんてないもんだから、荷台のどこかで常に身体をぶつけ、常に振動続ける身体に毛細血管までがフル動員で動き回るものだから、皮膚の下で血液の流れをよぉく感じて痒い。その痒さにすら生きていることを実感しながら、荷台を降りて家を見上げる。まるで、納屋のような家だ。エルヴィンの住んでいた街中の家とはまるで様式が違う。今日はここに泊まるのかな?

「ここ、家、あなた」

えっ、と顔を上げると、ダリウスがにこにこと微笑んでいる。
周りを見回すと他の面々は、獣除けなのか私道の主張なのか、家を取り囲む杭にそれぞれの馬を繋いで馬具を外し、馬に休息をとらせる準備に入っている。


「-----!------エルヴィン--------!!--------?」


嬉しそうな顔をしてわたしに話し掛けてきてくれたペトラだったけれど、ダリウスよりも早口な言葉からは「エルヴィン」という単語しか拾えなくて、エルヴィン?と首を傾げて立ち尽くすわたしにじれったくなったのか、ペトラがわたしの腕を取って中へと引き入れた。



お、おお…!



中はまるで生きていくのに必要なものがあるだけというか、まるで博物館に再現で展示されているような、絵本に出てくるような、インテリアではなく煮炊きのための暖炉と木の椅子と机、炊事場の全てが六畳ほどの空間にひっそりと置かれている。前の住人が置いていったのか、水差しや皿が4枚ほど、備え付けの棚に取り残されたように埃をかぶって置かれている。


ひんやりと室内が涼しいのは、壁がレンガだからだろうか?それを漆喰で固めただけのような壁をよく見ると、僅かに外の明かりが漏れている。どうやら隙間風のせいらしい。足元には一応木の板が張られているけれど、それもボロボロで一歩歩くたびにギシギシと音がなる。棘も気をつけた方が良さそうだ。天井を見上げると丸出しの梁は、これまでの炊事の煙を吸ったのか、真っ黒に光っている。所々白く霞んでいるのは蜘蛛の巣らしい。ヤモリのようなものがスルスルっと影に消えたのまで見えた。


お、おぉ…これは、なかなか……


ペトラも室内を見回して言葉がないのか、何も言わずにわたしと目を合わせてから、oh…というような笑みを漏らした。今のは分かった。
もしかして、ここ、わたしの家ってこと?ーーーーーすごい。本当に



「とんだボロ屋敷だな」


そう言って荷物を持つこと部屋に入ってきたリヴァイだったが、耳にしたものは嬉しそうに部屋を探索する とそれに引っ張られるようについてまわるペトラの笑い声だった。
まるで、何処にでもいるような娘のはしゃぎ声を上げる2人に柄にもなく口を曲げる。なにやってんだ?と言いたげだ。
2人はネズミの穴を見つけては大騒ぎして笑い転げ、穴の空いた床板を覗き込んでは言葉も通じてないのにゲラゲラと笑い、穴に足を代わる代わる突っ込んでは大はしゃぎしている。まさに箸が転がるのも可笑しい年頃といったところだった。


『やばいやばい!倒壊しちゃうよ!穴やばいよ!』
「すごい!私の足一本余裕で入るくらいの穴!」
『どうしたらいいの!?ねぇ、この穴ほんとやばい!』


通じてないのに通じている2人の様子に「うるさいぞ」と言いかけてリヴァイは止めた。素面のペトラがこんなに笑い転げているのを見るのも珍しかったが、それは初めて見る光景だった。


が大口開けて笑っている。
とんだ間抜け面でひーひーと腹を抱えている。
まるでヤケのように、「楽しい」という一瞬の全てを全身で味わうかのように は笑っている。


「な、なんすか、こいつら…おかしくなっちまったんですか?」
あまりの大騒ぎの声に部屋を覗き込んだオルオの言葉にリヴァイは答えなかった。


「なんだ、こいつよく喋るじゃねぇか」