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このボロ小屋が自分の生活拠点となって、自分の好きにしていい場所なんだと気付いたとき、わたしは自分の身体の底がざわざわとするような興奮で思わず息を呑んだ。好きにしていい場所。自分の場所。自分との因果がまるで何もない真っ新な場所で、自分の力で生きていくことへの子供のような好奇心と、冒険心。そして、ようやく安心して眠れる場所を得たという素朴な安堵。



小屋は、まるで子供が積み木で作ったような、簡素な作りだった。
玄関兼居間兼台所の六畳ほどの部屋の隣には、一面が棚になった三畳ほどの貯蔵庫、そして四畳ほどの寝室。
風呂なし。トイレは小屋の外の更に小さな小屋の中に壺がある。どうやら溜まった汚物は自分でどこかへ捨てるらしい。汲み取り式でもない。詳しくはないけれど、農業の歴史の授業でやったことがある。中世では溜まった汚物を窓から投げ捨て、川へと直接捨て、その為に川が汚染されペストなどの病原菌が流行ったのだ、と。日本やアジア諸国のように、糞尿を田畑にまくことを毛嫌いした。アジアではお金を出して糞尿を買い、西洋ではお金を出して処理をさせた。川に流しても汚物は汚染するばかり。でも水田に底はなく、水田の地下層を通って浄化され、分解されて肥料となる。
どうやらここは、そういう世界らしい。



この小屋で生活をするのは、わたしとダリウスとなったらしい。
ダリウスはこの世界でわたしが信頼できる人だし、心からほっとした。
ダリウスとの取り決めで、書物などの荷物が多いダリウスが棚のある貯蔵庫を私室とすることを希望し、わたしは寝室を私室都することとなった。もしかしたらダリウスの紳士さが寝室を譲ってくれたのかもしれないけれど、彼の学者気質が単純に収納を求めたのかもしれない。まだ、わたしはダリウスについてもよく分からないことばかりで、ここでの生活を通してもっと彼のことを知りたいと思ったし、良い生活を一緒に送れたら、と思った。


食料は、定期的に送られてくる、という事をぺトラが身振り手振りで教えてくれた。
そして当面の食料として、小麦粉、塩、黒砂糖、エール樽、油、焼き締めた硬い大きなパンを三つ、チーズ、燻製肉、それからわずかにジャガイモやニンジンなどの野菜を用意してくれたので、これは遠慮せずに受け取ることにする。それから生活物資のために、竈にくべる薪の山、シーツ、そしてエルヴィンとぺトラが用意してくれた衣類も手元に戻ってきた。この衣類がわたしの全財産。日本からの荷物は、まだ、手元には戻らないらしい。でも、そんな事は些末なことだって思えるくらい、何もかもを甘えなくては生きていけないことが、少し、恥ずかしい。


そうやってぺトラから食料や物資を分けてもらっていると、リヴァイが差し出してくれたものは掃除セットだった。
箒、塵取り、雑巾にするためのボロ布など。これは本当にありがたかった。その後は大掃除。
寝室のボロボロのマットレスを虫干しし、家具を一度すべて表に出して掃き掃除、拭き掃除、床板の穴はリヴァイの部下だろうか、リヴァイの仲間の人たちが板を釘打ちしてくれたので、とりあえず歩ける場所になった。



それから、ひとつ、楽しいこともあった。リヴァイの掃除っぷり。
なんだかもっと、「掃除なんかテキトーでいいんだよ」って感じの男の人かと思ったけれど、全くそうじゃなかった。上から下へ、という掃除の基本をばっちり抑えて、蜘蛛の巣を払って、落とした塵を掃き集めて、ぴかぴかに磨き上げていく。一切の妥協なく、きちんと拭き残しの一つもなく掃除をしていく姿にわたしは感嘆の声を漏らして眺めていると、ぺトラがわたしの肩をつついて「すごいでしょ?」というように悪戯っぽく目で笑ったので、わたしも頷き返した。それで十分通じたらしい。


ちょっと意外。そしてなんだかとても楽しい驚き。




井戸には、一応つるべ落としが付いているけれど、これもずいぶん木が腐っていつ崩壊してもおかしくなかった。
木の蓋が被せられていたけれど、端の方に大きな穴があり、そこから近くの木の枯れ葉が落ちているようだった。井戸を見下ろすと、底で揺らめく水面に枯れ葉が浮き、石で組まれた井戸の壁のところどころに蜘蛛の巣が張り、石から石の間へとトカゲが走るのが見えた。この近くに川があるかどうかはまだ分からないけれど、この井戸が当面の生活排水になるのかと思うと、くみ上げた木桶に溜まった落ち葉などを見て不安が募る。水をくみ上げ、室内にある高さ50センチばかりの水桶に貯めて生活をするらしい事をダリウスが教えてくれたけれど、この井戸水が炊事などでも使われるらしい。


また食中毒にでもなったらかなわない…。
エルヴィン達はここには住まないだろうし、助けてくれる人のいない場所での病気は本当に怖い…。



掃除用に水を一杯組み上げて室内に戻ると、リヴァイが水を待っていたように手を伸ばしてきたのでバケツを差し出した。
一応は枯れ葉を取り除いたけれど、わずかに濁る水にリヴァイが眉をしかめる。けれど何も言わずにその水に汚れた雑巾を突っ込んで、じゃぶじゃぶと洗い始めた。室内を見回すと、ぺトラと笑いあった時のような廃墟感たっぷりだった小屋がずいぶんキレイになって、人の住める場所に代わっていた。窓辺に刺繍のされたカーテンでも掛けて、居間に置かれた前の住人の残した大きな木のテーブルにカバーでも掛ければお人形か小人の家のような愛らしさがあるようにすら感じられる。
ダリウスはすっかりキレイになった貯蔵庫の棚に次から次へと古めかしい本を並べている。


「おまえも片づけしてこい」


リヴァイに何かを言われてその顔を見ると、リヴァイが顎でわたしの部屋と荷物を差した。
…ここはもういいってことかな?
荷物と自分を交互に指さして首をかしげると、リヴァイが頷いたので想像通りの解釈で合っていたと判断して、わたしはお言葉に甘えて荷ほどきに掛かった。





すっかりキレイになった床に、全財産を広げて眺める。


下着が五枚。(胸当てのついたフリーサイズのキャミソール二枚と、パンツが二枚)
シャツが四枚。(長袖二枚、半そで二枚)
ズボンが二本。
ワンピースが一枚。


とりあえずこれだけあればこの春のような季節は乗り切れるだろう。
今はとにかく、衣類やおしゃれよりも「生命維持」が大事だ。


……よし、シャツを一枚あきらめよう。













竈に残された灰の山をグンタとオルオに掻き集めて小屋の裏にでも穴掘って埋めるように指示をし、エルドの塞いだ床の穴を確認していると、視界の隅でちょろちょろと夢子が行ったり来たりするのが見えた。見るともなしに様子を見ていると、自分の部屋と外とを往復し、何かの作業をしているらしかった。荷物の整理をしろ、と作業から外したつもりだったが、あれっぽっちの荷物の整理もクソもねぇだろう事を思い出した。夢子が持って現れた荷物は、今だ調査兵団の本部内のごく一部しか出入りできぬ部屋でハンジが弄繰り回していることだろう。


外から戻らぬ夢子を追って部屋から出ようとしたとき、オルオが灰をぶちまけたのが見えた。
何も言わずに目で殺すと、ぺトラがすぐに箒を持って現れたので後は任せて外に出た。
夢子は井戸の前で何か作業をしているらしかった。


「おい」

わずかに驚いた顔をして振り返った夢子の手には、細切れとなった真新しいシャツがあった。
手元のナイフで切ったらしい。それからさっき隊のやつらが飲んでいたエールの入っていたボトル瓶。瓶の底が割られ、瓶には石が詰められている。そしてさらに目をやると、水甕にシャツを被せて紐で縛ってあるようだった。


「なんだ、これは?」


言葉が通じたのかなんなのか、夢子は笑ってボトル瓶を逆さにし、底から井戸水を注ぎ、飲み口をシャツを被せた水甕へと載せて水を落としていく。ちょろちょろと水が流れ出し、夢子が水甕に被せたシャツを外して甕を俺に見せる。
するとさっきまで濁っていた井戸水が、わずかにだが濁りが解消されていた。


「…掃除しろと言ったが、水まで掃除しろとは言ってねぇ」


漏らした言葉は夢子には意味が通じず、ただきょとんとした顔で俺を見上げていた。
この間抜けな頭の中に、何がどう詰まっているのか、ハンジでなくとも気にかかるには十分だった。