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まだわずかに水拭きした水と埃とカビの臭いが残る部屋で、ベッドに横になって真っ暗な天井を見上げていると、奇妙なくらいに落ち着いて、満たされたような気持ちとすぐに安眠できるような疲労感を覚えた。
家を隅々までキレイにして、水拭きをし、穴の開いた床や壁には応急処置として木の板を打ち付けた
まるでロビンソン・クルーソーや、宝島とか、子供向け冒険小説の主人公にでもなった気分がした。
小さいころは、こんな小屋を作って住んでみたいなんて思ったっけ…、と思い返すけれど、まさかこんな事になるなんて子供の想像力を持ってしても、考えたこともないことだな、と思った。



リヴァイ達は一泊することもなく、ある程度部屋を片付けるとまた元来た道を引き返していった。
ぺトラや、リヴァイたち、知っている顔がいなくなってしまって心細い。打算的な事を言うなら、護衛をしてもらいたいという気持ちもあった。リヴァイ達は、この国では兵士のようなものだろう。警察があったかは分からない。けれど、何かしらの権力がある集団には違いない。だから、そのリヴァイたちがいてくれたなら、せめて生活が落ち着くまで守ってくれたなら…と図々しいことを考えてしまう。


権力の庇護があることを、せめてこの地域の人たちに見せつけておきたい、という気持ち。
この場所にきて、わたしは自分が思っていたよりもずっとズルい人間だったという事を知った。


そして、図太い人間だってことも…。


不思議なことに、わたしは少し、わくわくしている。
明日から何が起こるんだろう、という期待。
これから自分の力で生きていくんだ、という高揚感。
明日からのスケジュールは真っ白で、自分が持っているものは自分の身体と知識だけ。やることリストは山ほどある。



必死で、できることをして、生きるだけ。













「すっかり、様変わりしたな」


エルヴィンが仮の住まいとしたアパートの一室を覗き込んだリヴァイは、その、物に溢れた部屋にため息を漏らす。
一軒家に収めていた家財をある程度は売却し、必要最低限のものだけを持ち込んだエルヴィンの部屋ではあったが、それでも貴重な書物や資料などを詰めた箱がまだまだ山積みとなっている。それらを正しく収めていた書斎も、書棚もすでになく、おそらくそのまま部屋の隅に纏めて置かれることになるだろう。


「むしろさっぱりした気分だ。どれもいずれ正しく処分したいと思っていたところだからな」
「処分ねぇ…」

部屋をぐるりと見回したリヴァイには、抱え込むほどの家財というものを持ったこともないし、その愛着だのというものもなかったけれど、それでも一族で大切に使われてきた家財を惜しげもなく売却し、書斎机とベッドと一組の食卓机と椅子だけを残したエルヴィンの覚悟を察するものではあった。


「それでも、父の書斎机だけは売れなかったんだ」
甘いだろう、とエルヴィンが苦笑しながら撫でた机は、確かに長年使い込まれた跡が見て取れた。


「必要だっただけだろ」
呟くように返したリヴァイの言葉に、エルヴィンは微笑む。
未練ではない。必要だったから手元に残しただけ。恥じることない。そこまで言ってやるほどの言葉をリヴァイは持っていなかったし、そこまで言われるほどの言葉をエルヴィンは必要としなかった。


―――エルヴィンは、その私財を投げうって夢子に賭けた。
夢子が政府の目を逃れて生きる場を確保するため、家も家財も売却し、一目に付きにくいウォール・ローゼ南区の辺鄙な村、ダウパー村に一軒家とわずかな土地を購入した。今後も夢子とダリウスに仕送りをする一方で、夢子が教育を受け意思疎通ができるようになる為、そしてその能力を発揮する為の出費を抑える気はなかった。
あの家はエルヴィンの実験施設であり、エルヴィンの夢だった。



しかし、それらを万年資金不足の調査兵団の予算から使うわけにはいかない。
資金不足だとしても、公式の金を使えば夢子というジョーカーへの足がつく。市民に向けてあれだけ大々的に、東洋人の娘を更迭したという宣伝を行ったのだから、夢子の存在は消えてもらわなくてはならない。それは、調査兵団の中からも、だ。いつどこに内通者がいるか分からない。すでに市民たちの興味関心は、別の話題に映っている。もう誰も夢子を思い出さない。ならば、エルヴィンが自らの私財を使った方が自由に、闇の中で駒を進められる。


「私は、結婚をするつもりもない。残すべき財産など元々必要なかったのだから、素晴らしい使い道を得てむしろ幸福なんだ」


そう言って微笑むエルヴィンは確かにさっぱりとした顔をしている。
その表情に、リヴァイの胸には苦々しい気持ちがこみ上げる。
エルヴィンは、壁外調査にその心臓を捧げていることなどは人類の誰もが知っていた。だが、エルヴィンほどの人材ならば、最前線を退いて後任の育成へと知力を注ぐ余生もあったはずだった。それを、この男は最初から見てはいない。誰も無駄死にをしたいものなどいない。リヴァイとてそうだ。安々と死んでやる気など毛頭ない。いずれは何かしらの形で「片が付く」と考えている自分の命。それでも、エルヴィンほどさっぱりと、無欲に、自分の生を客観視することはできない。いや、無欲?それは違う。
こいつは、誰よりも貪欲な男だ。


「リヴァイ、夢子は、本当に、壁の外から来た人類なのかもしれないな」


微笑んだエルヴィンの瞳に笑みはなかった。















腫れあがった手に、冷たい井戸水がしみる。


一日の学習を終えたあとの私の仕事。飲料水作りだ。
簡易的ではあるけれど、瓶とシャツでろ過装置を作って、まずは目に見える泥や砂を排除してから、さらに水をフライパンに入れて沸騰させ、蒸気がたったら清潔な布巾を被せ水蒸気を吸い取らせる。その蒸気に濡れた布巾を絞って、水瓶へと集める。蒸留させる。大変な手間をかけて、ようやくコップ一杯の水が手に入る。来たばかりの頃、食中毒に苦しめられた経験から、用心深すぎると思うけれど、水の安全は確保したい。この時代の医学がどれほどのものか分からないし、リスクを減らすためには仕方がなかった。井戸水で簡単に人は死ぬ。それをわたしは、大学でよく学んでいた。
もしかしたら近隣に川でもあるかもしれない。川の水ならばろ過して煮沸消毒すればすぐに飲めるだろう。


けれど、この家に来て一週間。まだ家の敷地より先に出たことはない。




ダリウスは、なんでもわたしのやりたい様にさせてくれた。
貴重な薪をこうして毎晩消費することも許してくれて、わたしが水を蒸留させる様子を逐一メモに取っている。
もしかしたら、これは観察されているのかな、と思う。いや、たぶんそうだろう。きっと、その記録をエルヴィンが読むだろう。この家を始めとする今わたしがいる環境の全てをエルヴィンが整えてくれたのだ。「心優しいあしながおじさん」としての無償の愛情による支援だとは思えない。きっと、何か理由があってのことだと思う。

外国人の習慣調査…かな?
考えても分からないけれど、今は、「とりあえず安全」なのだから、今のうちに、自分が害のない人間であることを、そしてできれば「有能な人材」であることを、ダリウスの観察記録を通してエルヴィンにアピールしておきたいという打算があった。


もし、また危険が迫ったとき、エルヴィンがわたしを守ってくれるように…。
そして、エルヴィンに必要とされるように。


『わたしって結構図太い人間だったんだなぁ』


苦笑が漏れる。
誰の目もなくなった今、ダリウスの語学教室は苛烈さを増して、三度間違うたびに手の甲にピシャリと鞭が飛んだ。
こりゃもう体罰反対!と一度デモでもしたくなるほど、ダリウスはまるで馬や犬でも調教するように、わたしに一単語でも多く頭に詰め込ませようと躍起になっている。けれど授業をひとたび終えると、途端に優しいおじさんの顔へと戻って、わたしにパンの焼き方を教えてくれる。



男性との突然の二人暮らし。

緊張がなかったわけじゃないけれど、ダリウスはわたしに対して鞭打つくせに、とても紳士的に接する。
授業中と、私生活での態度をハッキリとさせて一定の距離を置いているような気さえする。普段のわたしはダリウスにとって、出来の悪い教え子なのに、食事になると途端に貴婦人になる。椅子を引いて座らせ、わたしが手ずからゴブレットにエールを注ぐことをさせず、甲斐甲斐しく給仕をしてくれる。


もしかしたらこの時代では、男性が食卓での権限をもち、家長によって食料の配分を管理することが習慣なのかもしれない、と納得して、無理に昔の日本女性のように「女はお酌をしなくては」なんて思わずにダリウスのしたいようにしてもらっている。




貴重な薪を組んで竈に入れて、種火の為の小枝を敷き詰め、さらに藁を一掴み入れてマッチで点火する。
うちわや火吹き竹がないので、ふうふうと息を吹きかけ、薄い木のお盆で仰いで風を送り、火を大きくする。なんて原始的なんだろう、と思う。蛇口を捻れば飲める水が出る。スイッチ一つでガスが付く。21世紀に生きるわたしには、全てのことが「労働」に感じられる。水を飲むことさえ、労働だ。


夜はすぐにやってくる。真っ暗な闇だ。だけど、テレビを見て潰すための時間も、飲み明かす店も、ない。
暗くなれば眠り、明るくなれば起きる。



竈の火が大きくなり、頬がチリチリと熱くなる。
水も、こんな手間をかけていたら時間が無限にあったって終わらない。
ここでの主な飲み物がエールのような、軽いアルコールを含んだ蒸留酒だけど、そんなに飲酒の習慣がなかったわたしには、エールは苦すぎるし、味がきつすぎる。リヴァイが教えてくれたように、酸味のあるパンに浸して食べれば、パンもエールも食べられるけれど、時折無性に「水」が飲みたくなる。何も邪魔されない、ただの水。


できたら緑茶とか、おにぎりとか、ラーメンとか、食べたい…!
だけど、そうは言っても仕方がない。食べ物のことは考えない。
でも、それは、日本での食べ物のことを考えないのであって、今、ここで日々生きるための食べ物のことを考えなきゃいけない。



安全な飲み水の確保。
そして新鮮な野菜の確保。




食べ物のこと。
それは、わたしが持っている財産のひとつ。この場所で、畑をやってみたい。
わたしが大学で学んでいたことを、生かしたい。いや、生かすべきだ。
やれることは、なんでもやる。



きっと、それはエルヴィンにとっても、役に立つことのはず。
エルヴィンの役に立ちたい。




『開墾、しよう』


エルヴィンに、わたしを売り込む。