03


ハイドニクについて地下街の雑踏を歩いてどれくらいになったか分からない。


慣れないことの連続で、体も精神的にもそろそろ参ってきているのが自分で分かった。
ハイドニクが着せたローブから覗く自分の足元を見て、ミュールやヒールなんて履いてなくてよかった、と思った。大学の広いキャンパスを移動するのに、ヒールじゃ大変だってことを早々に実感してから、大学にはかかとの低いパンプスで通うようにしていた。こんな時だっていうのに、こんな場所だっていうのに、同じゼミにいた男の子のことを思い出す。背が高くて、穏やかで、色んなことを知っていて話しやすくて、大好きだった。すごく、すごく好きだった。女の子らしい女の子が好きだって言っていたから、わたしはヒールなんて履いて大学に通った。毎朝20分早く起きて、ヘアセットも、メイクも頑張った。仲が良かった。授業はいつもペアだった。図書館の裏でよく一緒にアイスを食べた。一番仲が良いなんて思って浮かれている間に、彼はバイト先の年下の女の子と付き合ってしまった。わたしとはちっとも違う女の子。そんなこと、今思い出さなくったって、良いのに。そんなこと、なんの助けにもならないのに。



俯いて歩いていたせいで、前から来た誰かに右肩を持っていかれるほど強くぶつかり、顔を上げる。
その誰かは舌打ちひとつ残してさっさと雑踏に紛れた。くそ、と思いながら、ふと目をやると、なんの肉か分からない肉が売られた露店だ。その奥に広がる壁に描かれた落書きに目を奪われる。露店から漏れる明かりに浮かぶ壁には、壁いっぱいに大きな落書きがされている。



―――――巨人が、人間を食べている。


壁いっぱいにそんな悪趣味な落書きがされている。
しかも妙に生々しいタッチで描かれている。巨人に下半身を食べられている男の絵と目が合い、顎を引いて息を呑む。なんか、いやな絵。思わず立ち止まって絵を睨んでいれば、急に腕を掴まれて驚いて目をやる。ハイドニクだった。ハイドニクが目を見開いて、大きな声で、早口で何かをまくし立てるようにしゃべった。わたしの手首をつかむハイドニクの手の力が強くで、思わず息を呑む。男の力だ、と思った。『ご、ごめんなさい』と通じないと分かっていても謝ったわたしに、ハイドニクが唇を噛んで、わたしの手首を掴んだまま歩き出した。さっきまでと様子が変わってしまった。わたしが後ろをついていない事に怒ったの?

『ハイドニク!痛い!痛いよ、ハイドニク!歩くから、ちゃんと歩くから手を離して!ハイドニク!』

名前は通じているはずなのに、ハイドニクは黙ってどんどん歩いていく。手首を掴む力がどんどん強くなり、怖くなる。でも、どうしてだかわたしの手首を掴むハイドニクの手が震えている。なんで?や、やめてよ。わたしはあんたを信用しようと思っているのに、なに?なんなの?怖い。ハイドニク、怖い。手を離して。ちゃんと歩くから。ちゃんと歩けるし、ちゃんと付いていくから!

でもそんなわたしの声は通じないばかりか、ハイドニクが足を速めて、どんどん走るような速さでわたしを引っ張っていく。何度も色んな人にぶつかり、何か荒い言葉を投げられてもハイドニクは構わず走り出す。そして街の端らしい場所まで来たかと思うと、階段を上りだした。石畳の狭い階段を上り、松明の明かりが煌々と燃える通路をずんずんと進んでいく。通路にはしゃがみ込んだ浮浪者のような人々や、地面に布を引き、何に使うのかわたしにはさっぱり分からない石や穀物のようなものを売っているらしい男たちがいた。

気味が悪い。


ハイドニク、とすがるようにもう一度声を出したわたしに、ハイドニクがようやく足を止めて振り返った。
松明の炎に照らされたその顔は、今朝、わたしにオートミールを勧めたときのような穏やかな顔じゃなかった。彫の深い顔には影ができ、ただ目だけが炎に濡れたように光っている。ハイドニク、ともう一度呟いたわたしに、ハイドニクが荒い息を呑み込み、ようやく落ち着いたように頷いた。


ハイドニクはわたしの手首を掴む力を抜き、手を離した。
その手が震えているのを見逃さなかった。
夢子、とハイドニクが言い、わたしは頷いた。ハイドニクがなにかを決心したように頷き、何かをぽつりと喋った。つられてわたしも頷いた。頷かなくっちゃいけないような気がした。またハイドニクが前を向いて歩き出した。わたしは大人しく付いていった。やがて風が足元を通っていき、地下の生臭さが少しずつ半減されていくのを感じた。

そして、闇の先に光が見えた。地上だった。




光が刺さった。
思わず強く閉じた瞼からは、瞼の裏の血潮が真っ赤に透けるほどの強い光を見た。

ローブから出た僅かな肌に暖かい光が差す。こんなに日の光が暖かいものだとは思わなかった。外の新鮮な空気を深く肺まで吸い込んで、恐る恐る目を開ける。どうか、知っている町並みでありますように。外国だってかまわないから。どこだっていいから。でも、英語の看板や、電光掲示板や、カフェや、高いビルが並ぶ街でありますように。どうか、言葉の通じる世界でありますように。


―――お願いだから!一生のお願いだから!神様!!


目を開け、強い光がゆっくりと引いていくにつれて、浮かび上がっていく景色にわたしは目を見開いた。


わたしの願いは通じなかった。ちっとも、これっぽっちも、通じなかった。
まるでテレビで見るドイツの町並みだった。おとぎ話の世界のような、ドールハウスのような家々。漆喰だろうか、レンガだろうか、そんな壁には木の板が打ち付けられて補強されている。石畳の街。レンガの家。エプロンドレスを着た女の人たち。絵本の中の木こりみたいな恰好をした男の人。シルクハットをかぶった紳士。荷馬車。……なに、これ?おとぎ話?


「夢子、XXXX」とわたしの目を見て、ハイドニクが言った。


その顔がなぜだか怯えたような、泣き出しそうな顔をしていたことが気になって、え、なんて?と聞き返す間もなくハイドニクが歩き出した。ハイドニク、と名前を呼んだけれどハイドニクはちっとも振り返ってはくれない。ずんずんと歩き出す。地下街よりもいくらか健全そうな匂いのする街だったけれど、それでも陽気とは言いがたかった。振り返ると、地下街への階段は路地裏にぽっかりと空き、闇を覗かせている。アウトローな世界だったのかもしれない。そして、そんな世界の入り口が健全だとも思えなかった。まだいくらか闇の匂いを残す路地裏には、路地裏らしい住人たちがまた足早に過ぎていく。見上げた空は広くて、街中のように電線やビルで切り取られたような空じゃなかった。ハイドニク、と声を掛けたけれど、ハイドニクはもう振り返らなかった。また走るように、人々の間をぬっていく。怖かった。なんで振り返ってくれないの?名前は通じているはずなのに…。

なんで笑ってくれないの?なにをそんなに急いでいるの?


さっき、なんて言ったの?




やがてハイドニクは一件の家の前にやってきた。
当たりを伺うようにきょろきょろと回りを見まわし、ノックをする。コンコン、コン、コンコン、コン、コン、とまるで何かの合図のようなノックをしたことに不安がこみ上げる。警戒しきって、そして合図のようなノックをした。友達や、自分の家に行くのにこんなことするの?なんだかスパイ映画みたい。どこへ行くの?この家はなんなの。息を呑んで唇をかみしめれば、中から男が現れた。中年の男。もちろん白人だ。黒髪は随分と後退し、顔に刻み込まれた皺と、でっぷりとした体、そして何よりその目つきに怯える。どう見ても、親切で優しいおじさんとは思えない。ハイドニク、なんなの、この人?


ハイドニクが媚びるような笑みを浮かべて、わたしに被らせていたローブを無理やりまくり上げて、わたしの顔を男に見せた。ゆるい抵抗さえできず体を硬直させているわたしを、男が目を見開き、見下ろし、そして満足そうに頷いた。男がその薄い唇でにやりと笑った。唾液で濡れた黄色い歯が見えた。ハイドニクが男に手を差し出した。男がハイドニクに小さな麻袋を握らせた。ハイドニクが泣き出しそうな顔で笑った。


あ、だめだ。


男の太い指がいやにゆっくりと自分に伸びてくるのを認識するよりも早く、わたしは走り出していた。
ハイドニクが「夢子」と叫ぶ声が聞こえたけれどもう振り返らなかった。振り返っちゃいけなかった。ただ逃げなくっちゃいけないことだけは分かった。まるで水の中を歩くように、手足が重たくて、もがくようだと思った。もっと、もっと早く走れたはず。わたしはもっと足が速かったはず。たすけて、と声を出そうと思ったのに息が喉に張り付いて言葉にならない。向かいを歩く人を突き飛ばして、走って、走って、どんどん走る。路地裏からどんどん大通りに出ていくことが分かった。すぐ背後で男たちが何かを叫びながら追いかけてくるのが分かった。捕まる。捕まっちゃう!捕まったらだめだ!絶対にだめだ!きっと、もう、戻れなくなる!!


たすけて!だれか、たすけて!


たすけて、と叫びながら大通りの人ごみをかき分けながら走り、誰かの腕を掴むけれど、その誰かはわたしを振り払って何か言葉を投げた。助けてはくれない。通じてない。誰にも通じていない。男たちが何かを叫びながらわたしを指さした。周りの目がわたしに向き、腕がのばされる。その腕をすり抜けて、爆発しそうな心臓を抱いて走る。誰か、誰か…ッ!?だれか助けて!!まるでパレードでも見学するように立ち止まる人々の間を押しのけて、飛び出した。

途端に回りから人が消え、自分が何かの行列の真ん前に飛び出したのだと分かった。
馬を率いた行列。馬がいななき、前足を上げる。馬に乗っていた黒髪の男がいななく馬の手綱を引いた瞬間、男と目が合った。射抜くような目をした男。軍服のような服を着た男。警察かもしれない!

『たすけて…たすけて!!たすけて!!』

馬にまたがった男にしがみつけば、男がわたしの肩を掴んで、わたしの顔を上げさせた。
そしてわたしの顔を見て少し目を見開いた。なぜだか涙が溢れた。今までちっとも涙なんて出てこなかったのに、ぼろっと一滴こぼれたかと思えば、ぼろぼろと大きな涙がこぼれた。馬に乗った軍人の仲間らしい人たちが何かを言いながらわたしに腕を伸ばしたとき、あの男たちが雑踏をかき分けて現れ、へりくだるような笑みを浮かべながら、頭を掻いて軍人に何かを言いながら、わたしを指さす。へらへらとした笑顔を浮かべているけれど、目が笑っていない。違う。きっと違うことを言っている!

『うそ!うそよ!この人たちの言葉なんか信じないで!きっとわたしを売る気だ!お願い!信じないで!たすけて、わたしを助けて!』

そう話すわたしの言葉にまわりの人たちが息を呑み、口々に何かを言う。
この雑踏の中でだって、日本語が通じる人が誰もいないのだと気づく。男の一人がまるで、ね?困ったやつでしょう?とでも言うように笑って、わたしの肩に手を伸ばした。わたしは目の前の軍人の足にしがみ付いて、軍人を見上げて、たすけて、と声を振り絞った。軍人の細く、冷たい目がわたしを見下ろす。


たすけて
おねがい、たすけて…!


軍人が何かを言った途端、男たちがさっと表情を変えた。

そして軍人の仲間らしい人たちが馬から降りて、困惑し、逃げようとする男たちを素早く取り押さえた。
一瞬のことだった。地面に取り押さえられた男が何かを叫び、その言葉に群集からは動揺したような声が上がり、人々の注目がわたしに集まった。その表情には困惑が浮かび、まるで恐ろしい異物でも見るような目でわたしを見ている。馬上の軍人を見上げると、その男だけは、さっきまでと何ら変わらない、冷たい目でわたしを見下ろしていた。たすかった、と思った。この人が、助けてくれた。そう思った瞬間、がくがくと膝が震えて、体が崩れ落ちそうになった。しゃがみ込もうと落ちるわたしの二の腕を男が掴んだ。


わたしの腕を掴み上げ、強い眼光で射抜く男の手は、大きかった。