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小屋の中に通されると、その変わりざまにリヴァイは内心で驚いた。
最初に足を踏み込んだ時には、あれほど埃っぽく、どこからか入り込んだ小動物の糞が落ちていた部屋は綺麗に掃除され、塞いだ床板のあて木を隠すように小さなラグが引かれ、暖炉には火が灯り、火のあたる窓辺には緑の葉が生えたニンジンの頭がまるで観葉植物とでもいうようにずらりと並べられている。秩序がある、とリヴァイは思った。


だが部屋の家具や窓、カーテン、ラグ、全てに小さな紙が付けられている。
それは、奇妙な形をしていたが文字らしい。よく見るとそれは、夢子が持っていたあの人間が描かれた精工すぎる本などの夢子の私物に使用されていた文字のようだ、と思い至った。日常のもの全ての単語を覚えるために、夢子がそうしているのだろうと分かった。


当の夢子は、といえば、ダリウスから拝借したのだろうか、男物のズボンの裾を折って履き、白いシャツを着た姿は、どこか清潔感があった。腹を下し、弱り果て、そして調査兵団の掘立小屋からエルヴィンの家へと移送されるとき、まるで怯えた野良犬のように泣き喚いて悲壮な顔をしていたときとはまるで違っていた。まるで、今まで一度も飢えた事がないまま育った温室育ちの娘のようにすらリヴァイの目には見えた。リヴァイが育ってきた環境、あの、地下街での生活。あんな生活を味わったことがないような娘の顔をしている。さっぱりとした、夢子の顔。



突然やってきたリヴァイに驚きながらも、嬉しそうに微笑んだ。
だがリヴァイの顔をしっかりと見て、その頬が腫れ、右目のあたりが早くも痣になりかけていることや、鼻血の名残があることを見て取り、すぐに炊事場に用意された瓶から水を汲み、リヴァイに顔を洗うように「洗う、してください」と伝えて清潔そうな綿の布手渡し、もう一枚を濡らして絞り、リヴァイに顔を冷やすように身振りで伝えた。
リヴァイは大人しく夢子がさせたいように顔を洗い、冷たい水をしっかりと吸った布を、熱を帯びる患部に当てた。
夢子はテキパキと暖炉に吊られた鉄瓶を火から下し、茶を用意している。



ふいに、リヴァイの脳裏には、夢子が持っていた本が横切った。
あの本の中には、夢子くらいの年の若い娘たちが、ただただ自分を着飾り、美しく見せようとする事だけが描かれていた。
見た事もない服装の、血色のいい娘たち。自分たち“人類”とはまるで違う生活をしているような、娘たち。
ハンジが、乱暴に椅子を蹴り上げたのを、リヴァイだけが知っていた。


口には出さなかった。だが、ハンジの胸にあったのは、“怒り”だった。


この本がどんな技術で生み出されたものなのか、どこで作られたものなのかは分からない。何もわからない。
だが、分かっていることは、自分たちとはまるで違う人生を謳歌している人種がいる、ということ。


この世界のどこかに、顔にあれこれ色を塗り、スカートの組み合わせばかりを考えている人間がいる。




これだけの大発見を、エルヴィンが公表を控えたのは“それ”が理由だった。
自分たちが向かわねばならぬ地獄をまるで知らず、面白おかしく生きる人間たちがいるのを知ったうえで、死ねる人間など多くない。人類のため。人類の栄光のため。この地獄から抜け出すために。そうやって命を懸けるに相応しい強烈な使命感を持たなくては、壁外だなんて、あんな場所に行けやしないのだ。


“世の中には化粧や服装の事ばかり考えて楽しく暮らす、お前の年ほどの娘がいるが、おまえは今から巨人と戦うんだ”
ペトラの顔が脳裏を横切る。そんなこと、言えやしない。
あの本を見たのは、調査兵団の中ではエルヴィン、ハンジ、リヴァイ、ダリウス、そして人買いから夢子の荷物を押収した数人だけだった。その数人には硬く口を閉ざさせていたが、夢子と出会ってから行われた3回の出兵で皆戦死している。夢子の世話をさせたリヴァイ班の人間すら、あの本は見ていない。僅かな筆記用具と、絵のない書物だけを見せていた。
ハンジには、壁外へと赴く兵士以外から部下を見繕わせ、夢子の持ち物の解読に務めさせていた。壁外調査へ行くハンジ班の若者から解読班を見繕わせるのは、彼らの目に毒だった。士気の低下は、死でしかなかった


あの本は混乱を招く。混乱と、虚無感。怒り。
身を掻きむしりたくなるほどの、堪らないジェラシー



今日の夢子を見ていると、そんなことを考えずにはいられなかった。
夢子が、まぎれもなく、あの本のような世界に生きていた、“あちら側”の人間なのだと感じさせられた。


ダリウスからの興奮気味の手紙を受け取ったエルヴィンだったが、先の出兵の事後処理が山ほど残っていた。
戦死者率が一番多かったハンジは、戦死した部下の遺族年金の手続きや合同国葬の手続きなどの仕事があり、持ち場を離れる事ができず、様子を視察してくるよう言われたのが、リヴァイだった。ハンジからは様子を全て報告してほしいということや、山ほどの質問すら言い渡されたのだったが、当のダリウスの姿が見えなかった。


答えが返ってくることは期待していなかったが、それでも一応夢子に行先を訪ねると夢子からは意外にも「街」と単語が返ってきたので僅かに驚いた。まるで5歳児との会話だが、それでも訳の分からぬ言葉をまき散らしていた頃よりはよっぽど人間らしさを感じた。……人間らしさ?自分の胸にかすかに感じた印象にリヴァイは内心で苦虫を噛みしめる。あの本の世界に住む夢子からすれば、自分たちの方がよほど獣のような生き物なのではないだろうか。夢子がどこから来たのかは分からない。それは、これから暴いていく。だが、夢子が自分たちよりも遥かに進んだ文明から来た事は間違いないように思われた。最初に見せられた、あの、風景を切り取るちいさな板。夢子はなんでもない事のように、机の上の風景を、あの板の中に一枚の精工な「絵」として一瞬で切り取った。

今、ハンジが選りすぐった技術屋たちが地下工房で雁首揃えながらも、一体どんな素材でできているのか、予想することすら出来ないでいる。



「お茶、あたたかいです」


夢子から出された清潔なカップからはやわらかな湯気が立っている。
一口、口に含んでみると、紅茶にはとがった渋みがなく、香りも良かった。さほど効果な茶葉のようではなかったが、それでも素直に「うまい」と呟くと意味を理解したのか夢子が嬉しそうに微笑んだ。
「水、綺麗にしました。井戸、とても汚れている。土と砂と葉を掃除します」
リヴァイに向かい合うように椅子に座り、同じように自分のカップに注いだ紅茶を一口飲んだ夢子も「うまい」と笑った。
やはり五歳児よりもたどたどしい文節だったが、それでもリヴァイは頷いた。


この小屋にやってきたとき、夢子が井戸水をろ過させているのを見ていたからだった。
そういえば、この娘は「水」にこだわっている。
食中毒でひっくり返っていたときも、水にだけはこだわりを見せた。



「なぜ水を掃除するんだ?」
夢子が学習している言葉を使う方がスムーズに会話を進められるだろうと判断し、言葉としては不自然だったがそれでもそう伝えると夢子には通じたらしかった。
「水、大事、水が悪い。…えぇっと、悪い、身体…身体悪くなる。水を、掃除する。火は、汚いもの、死ぬ。わたしは水を飲みます」
やはりたどたどしいが、それでも夢子が食中毒をしていた時、身振りでなにかを伝えようとするのをじっくりじっくりと待っていた頃に比べれば随分な進歩だった。リヴァイは内心で夢子がやはり、ある程度の教養のある人間なんだろう、と位置付けた。リヴァイは語学を学んだという経験はなかった。そもそも、人類が壁内へと閉じ込められた今、「外国人」など存在していないので、壁内の人類は地域により多少の方言や言い回し、発音の差があれど、「語学を学ぶ」という意識すら乏しかった。それでも全く違う言葉を操る娘が、自分たちの言葉を身に着けるというのは途方もない事なのだろう、と察することはできた。



リヴァイには、「想像力」があった。
それは、子供のような楽しい想像力ではない。把握能力のことだった。命のやり取りをしている。それも、自分ひとりの命ではない。多くの部下の命を左右する動きを、現場の一瞬一瞬で行わなくてはいけなかった。それには「想像力」が必要だった。リヴァイの言葉を借りるなら、“トチ狂った”奇行種が次にどんな動きをするのか、想像する必要があった。だから、リヴァイには知らず想像力があった。一の状況から十を察する力。だからこそ、夢子を察することができた。



「塩と、砂糖を、なぜ水に入れた?」
それは、リヴァイにとっても長年の疑問だった。
なぜこの娘は、あの瀕死の状態でそれを要求したのだろうか。あの時、エルヴィンに夢子がそう要求したことを伝えると、エルヴィンはすぐに砂糖と塩入の水を作って飲んでいたが、嗜好品、とするにはあまりにお粗末な味だったし、あの状況で、自らの楽しみのためのものを要求するとは思えなかった。リヴァイが知りたかったのは、その効能、だった。
夢子は少し考えるような顔をみせてから、すぐに「あぁ」と食中毒の頃を思い出したのか苦笑した。



「病気するとき、水、消えてしまう。塩と砂糖、消えない。水はとても大切なものです。塩と砂糖、水を助けます」
夢子の言葉は規則性があり、“構文”として教え込まれた言葉はそのまま自然な一文として出てくるらしかったが、イレギュラーな会話になると途端にたどたどしくなった。だが、とりあえずは意思疎通が図れるようになったことを感じ、リヴァイは頷いた。


「なぜ水は消えるんだ?」
「それは汗や、えぇっと、これ、消えます」
単語を習っていなかったらしく、夢子は手で吐く仕草や、両手を身体の下で振り払うような仕草をして見せた。
それだけで「嘔吐」と「排泄」により水分が失われることを理解し、リヴァイは納得した。どういう効能や科学的な理由になっているかは彼には分からなかったが、それでも砂糖と塩が、身体から水分が失われることを食い止めるのだろうと理解した。


ハンジから預けられた質問もまだまだ山ほどあった。
だが、夢子の方でもリヴァイに何か聞きたげな様子で、そっとリヴァイの顔を伺い見ていたことに気づき、「なんだ?」と聞いてみると、夢子は眉を下げて自分の顔を抑えた。どうやらリヴァイの顔に出来ている、生新しい怪我が気になったらしかった。自分の顔が殴られたわけでもないのに、痛ましそうに表情をくしゃりとさせている。まるで怪我をした子供を案ずる母親の情のような目。その目を見ていることができず、リヴァイは無意識のうちに目を逸らしていた。


「仕事だ」


ぽつんとそう答えた自分の声の脆さに、内心で驚いた。
仕事。たったそれだけの言葉に秘められた、説明しきれぬ重み。


――――あぁ、この女は、何も…何も知らない場所から来たのかもしれない。





自由になる時間がそう多くないリヴァイは、ダリウスの帰宅を待つ事はできず、またトロスト区の兵団本部までとんぼ返りに馬を走らせた。壁外調査用の肝の据わった馬ではなく、内地を移動するための駿馬だったが流石にダウパー村とトロスト区の往復は疲労がたたったのか、夜更けに本部に到着する頃にはすっかり血の循環が悪くなり、急性のコズミ(筋肉疲労)が出ており、前脚の動きがおかしくなっていた。これは汗っかきな馬という生き物特有の症状で、過度な運動により失われた水分によって血液濃度を濃縮され、それが強烈な乳酸となって馬の筋肉を痛めるのだった。


壁外調査でも、よく馬はコズミを起こした。血液中の酸素が足りないのだ。
だがリヴァイ達はそのような科学的な知識は持っていなかった。
なぜ突然、馬がひきつけのようにギクシャクと動きが悪くなるのか、理由は分からなかった。
ただ、古くからの長い馬との付き合いで、そのような時はどうすれば良いのか分かっていた。


リヴァイは、馬から鞍を外してやり、普段持ち歩いている荷物の中から、笹針と呼ばれる五センチほどの笹の葉型の針を取り出し、馬の身体に手を這わせ、血が溜まり凝り固まっている肩の部分に針を差し入れた。馬は声を上げたが、暴れることはない。針は平たい笹の葉状となっているため、水が滴るように濃度の高いどす黒い血があふれ出す。チューチューとネズミが鳴くような音がする。ガスが溜まっていた証拠だった。ハミも外して楽にしてやりたい所だったが、針の刺さったまま暴れると取り押さえられぬ為、そのままにして、もう一本後ろ足の付け根に針を入れた。所謂瀉血治療だ。
滝のように流れるどす黒い血のおどろおどろしい見た目と比べて、苦痛は少ない。


針が入った後、馬は大人しく頭を垂れて、リヴァイに唇を向いて撫でろと、とねだる。
馬特有のビロードのような毛に手を添えると、毛の下で熱く熱を持った筋肉がブルンブルンと震えている。こうして頻繁に筋肉を動かし、まとわりつくハエを追い払う。毛はじっとりと濡れ、筋肉は硬直している。
「無茶な乗り方をした」と詫びたリヴァイに、馬は耳を振った。馬は賢く、人間の言葉が分かった。

リヴァイは時々思う。
真っ黒に濡れたような馬の大きな瞳を見ていると、この獣は人間様よりも遥かに賢く、全能なのではないか、と。
穏やかな草食動物の瞳の静かさの前に、祈る神を持たぬリヴァイだったが不思議と敬虔な気持ちになった。



馬が満足するまで撫でてやり、血が赤くなるのを待って針を抜く。
僅かに谷型になって出血を促す笹針が抜けた後、血の流れは緩やかになりやがて止まる。それから水を掛けてやり、血を洗い流してブラッシングをしてやり、一日の汚れを落としてやる。馬は時折ブルンブルンと筋肉を震えさせながらも大人しくしている。僅かに寝るように閉じられた馬の感情を伝える耳が、気持ちいい、と言っている。リヴァイのブラッシングはとても丁寧だった。まるでマッサージのように丹念に豚毛のブラシで汚れを落としてやるので、リヴァイは馬から信用され、愛される所以となっている。


大雑把な新兵などが馬を侮り、手入れを怠ると、馬は誰が横着をしたかずっと覚えている。
そうしてその新兵の命令や指示には一切従わなかったり、噛んだり、振り落としたりするようになった。それは、壁外調査では「死」に繋がる。壁外調査での危険は、巨人だけではなく、命を預ける馬との信頼関係にすらあった。

馬の手入れはすっかり深夜まで掛かり、リヴァイが馬に新鮮な飼葉と水を用意してやる頃には東の空が白み始めていた。
馬は甘いものを好む動物なので、長距離の礼とばかりに人参や高価な林檎を与えてやると、馬はリヴァイに甘えるように鼻先を擦り付けながら次から次へと「もう一口」とばかりにねだった。

ふいに、リヴァイの脳裏に夢子の言葉が思い出された。
あの砂糖と塩を混ぜた水のことだった。
馬を酷使した後、岩塩を舐めさせることがある。あの水をこいつにやってはどうか、と思い立った。
夢子が調理場でしていた分量を、馬の水桶一杯分に計算し、与えてやると甘い水を馬は喜んで飲んだ。
ハミを外してやって、その馬の柵へと連れていき、まだ名残惜しそうに余る馬の顔を撫でて立ち去った。



3時間ほどの仮眠を取り、エルヴィンの元へ報告に行く前に、厩舎に顔をだした。
リヴァイは内心で、あの馬は死んだだろう、と思っていた。
一日であの距離を往復させる為、鞭を入れ続けた。あの馬は駿馬だったが、もう年だった。壁外調査ができるほど若い馬ではなかった。内地で伝令の早馬として乗り潰される運命にあった。厩舎に戻った時には、ハミから真っ白な泡を溢れさせ、ぶるぶると震えていた。馬は人間と違って、走りながら水分補給をする事はできない。そして、全力で走り続けると脱水症状で死ぬのだ。リヴァイは昨夜、掌に触れたべったりと汗で濡れた馬の身体を思い出していた。
最後の手向けに、馬蹄に溜まったゴミまでほじくり返し、一層手入れをしてやったのだった。


あれほどの汗だ。あの馬は、死んだだろう。


だが、はたしてあの馬の柵までやってきた時、リヴァイは僅かに目を見開いた。馬は、生きていた。
疲労からか座り込んでいた馬も、リヴァイを見つけ、また甘えるように顔を摺り寄せた。
馬の顔から首に手を伸ばして撫でてやると、あれほど激しかった脈拍はひどく穏やかで、張りのある筋肉をしている。



――――――――水はとても大切なものです。

真っ黒に濡れた馬の大きな瞳がリヴァイを見つめている。
その黒の中に、驚いた顔をする自分が見えている。
リヴァイの脳裏に、夢子の声が聞こえていた。