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「医学的な知識もあるのかな」



リヴァイからの報告を聞き終えたハンジはそう呟いて腕組みをして黙りこくった。
今頃ハンジの頭の中ではおびただしい量の言葉と情報が飛び交って絡み合い、それが整理されて他人にも分かる言葉になるまで黙りこくっているだろうことはリヴァイにも分かった。ハンジのいつもの癖だった。だからハンジが喋りだすまでリヴァイは黙っていた。
だがエルヴィンは違った。


「医学かどうかは分からない。だが何か、植物…特に農業に関することを研究していた事は間違いないだろう」


エルヴィンの言葉にハンジからの返事はなかったが、リヴァイは頷いた。
夢子が持っていた書物には植物に関するものが多くあった。
たとえ文字は読めずとも、あの精巧すぎる絵は植物についてのものが多いとこちらにも分かったし、なにか、植物の成り立ちのようなものを説明するかのようにイラストや図解が添えられ、夢子の字で注釈があれこれと書き込まれていた。
そのすべてが「謎」なのだが、その文字は鮮やかな赤や青やオレンジなど様々で、時には印字された文字そのものに派手な色でマーキングがされていた。色、というのは高価なものだった。絵描きがつかう顔料は、土や鉱物由来のものであり、貝や昆虫から採れる顔料は更に高価なもので、特に「青」由来の色は絵描きの中でも上等の絵描きしか使用できぬほど貴重な王族のものであったが、夢子の本の中で夢子はなんでもないもののように青をふんだんに使っていた。


夢子が壁内にあって、何が貴重で、何が高価であるのか、彼女は理解していないだろう、というのは全員の一致する意見であった。
だからこそ、医学の知識を惜しげもなく使う。
医学知識とは医者の特権であり、決して洩らすことのない秘密だ。
医者が時に貴族よりもふんぞり返っていられるのはその知識があればこそだ。
だが夢子は違う。
リヴァイに対して惜しげもなく、砂糖と塩を混ぜた水の話をした。


「貧民救済病院で肺炎の患者たちにあの水を飲ませたんだ」


ぎょっとするエルヴィンとリヴァイを置いて、ハンジはその興奮を抑えるためにかえって淡々とした口調で次のことを告げた。


身寄りもなく、誰からもその生死を重要視されない人間たちを、それでも宗教者たちの道徳心によって世話をされる病院がある。それが貧民救済病院だ。地上の宗教者たちはその教えの中でも美徳とされる奉仕活動のために独自の資金で病院を運営している。社会からは時に「この食糧難で生産性のない者を食わせる食料はない」などと批判を受け、不作の時などは襲撃の対象となることもあるため、大抵は人里離れた森の中にひっそりと存在していた。
動ける物は自分たちで畑を耕し、自給自足を得るなど、病院、としてだけではなく、もはや小さな村のようなコミュニティになっている場所だったが、壁内にあって閉鎖的で排他的な社会では、その病院に出入りしている事が知れると不利益を被るような立ち位置にあった。


だがハンジはそこに赴いていった。
救済病院は、世間のイメージとは違い、かつて貴族の別荘であったという大きな屋敷だった。
だが金銭状況は芳しくないようで、屋敷は蔦が絡むままにされ、石壁は雨露で黒く汚れ、中は床板がすっかり古びていつ底が抜けるか分からず、貴族趣味の大きな窓に掛けるほどのカーテンを設える予算がないのかいくつもカーテンのない窓が並び、直射日光で壁紙は色落ちし、ところどころ漆喰が剥げていた。
夜になればなかなかのホラースポットであるといえるだろう。



救済病院の院長は、老婦人であった。
この屋敷は彼女の父親のものであったが、風の噂では父自身が何かしらの好ましくない病を患い、社交界のみならず世間から爪弾きにされたのを田舎の別荘に引きこもって療養するうちにこのような病院の形態ができたらしかった。彼女はついに未婚のまま、老女となっていた。
年の頃はせいぜい六十を過ぎた頃だと聞いていたが、実際の彼女はそれよりも十も老けて見える。彼女自身農作業をするのであろうか、肌は浅黒く日焼けし、顔中に大きなシミやそばかすが出来き、筋肉の流れにそって深い皺がいくつも刻まれているが、背の高く顔よりも若々しい身体はしっかりまっすぐに伸ばされハンジを迎え入れた。
色素の薄い灰色の瞳は、猛禽類を思わせるように鋭く油断ならないが、その頑なに結ばれた口元にはどこか、なにかしらのユーモアを持っていそうな雰囲気があるのをハンジは見て取った。


そこでいくつかのやり取りをし、調査兵団内で開発された治療法を試させて欲しいという本題に入った。
臨床試験である。
「それでちょーどこの前の雷雨で肺炎患者が出たんで試させてもらったんだ。どうせ死ぬだろうなぁって見放された高齢の男が4人もいたんでね」
ラッキーだったよ、とは流石に口にしないまでも、ハンジの声色からはそんな調子がただ漏れであった。


「1週間様子を見た。そしたら全員峠を越えたんだ」


この世界で、肺炎はあっさり人が死ぬ病であった。
できることは少なく、しかしとにかく汗をかかせようと重い布団を被せたり、水を飲ませたり程度の事はするが、電解質の含まれぬ水はいくら飲んでも身体から出ていく一方であった。
特に肺炎は痰や激しい汗などで水分が失われ、脱水症状に陥るものが多くいたが、そんな事は彼らが知ることではなかった。脱水症状というのがいかに深刻な事態に陥るかという事が知れるようになるのは、壁内では今少しの医学の発達が必要だった。


だから4人の高齢者が命を取り留めたのは、全くの驚きのことだった。




「お前は、俺からの話を聞く前にそんな事をしてやがったのか」
「まぁね。別に薬の類じゃないし、塩と砂糖くらいのことなら試してみようかなって」
夢子から「なぜそのようにしたのか」の理由を聞き出す前に臨床実験をしてくるというハンジの探求心や執着にリヴァイは半ば呆れも感心もする思いだったが相変わらず不機嫌そうな表情をするばかりだった。エルヴィンはハンジからの報告を聞き終え、目を細めて少し笑った。だが好ましさからくる笑みではなかった。


「ハンジ、その人体実験の見返りに何を要求された?」
「あちゃー」


てへへ、と頭を掻くように笑うハンジにリヴァイは溜息を洩らした。
貧民救済病院のことは、地下街でも多少知れていることだった。それが決してポジティブな意味だけではなく、逆の意味でも知れていた。地下街の人間が医者に掛かれる機会は少ない。子を持つ親であれば貧者を助けてくれるというなら駆け込みたいような病院の話だったが、そうしないには理由があった。

医者にかかった見返りの要求が大きいのだ。

金が払えないことは分かり切っている。だから変わりに「労働」で返すように契約書にサインをさせられるのだ。時には開拓地送りの民が嫌がるようなトンネル掘りであったり、炭鉱での仕事や都市部での汚水システムの処理であったりする。それは治療の結果にはかかわらず、本人や家族に契約させる仕事で、人権運動家などからは「体(てい)の良い奴隷契約ではないか」と批判されることもある。慈善活動の皮を被っているが、それだけではないのが実情だった。
その貧民救済病院が、調査兵団からの臨床試験に4人もの身体を貸し出したのだ。
タダ、というわけにはいかないだろう。



「今すぐに支払う、って訳じゃないんだ。あの婆さんは調査兵団に“借り”を作っておきたかったらしい」
「ハンジ…それこそ何よりも高く付くじゃないか…」
呆れたように溜息を洩らしたエルヴィンに、ハンジが「まぁ命までは払わないさ」と肩をすくめた。



「それに、いつか夢子をそこに送ろうかと思うんだ」


この言葉にはエルヴィンもリヴァイも息をのんだ。
あの悪名高い貧民救済病院に夢子を?
夢子は今のところエルヴィンの用意したダウパー村傍の森で静かに暮らしている。完璧に手中に収め、管理下にあると言っていい。世間の目から隠し、今何もかもを調べている最中だ。それを何故病院へ?夢子の体調に何かあれば調査兵団お抱えの医師がいる。わざわざ民間の、それも怪しげなところへ送る理由がない。



「言っただろ?―――病院は独自の農園を持っているって。
私は夢子の知識がどれだけのものか試したい。本当に農業知識があるなら、食物自給率の改善は人類にとって役立つ。何より夢子には室内に閉じ込めてお姫様みたいに暮らさせるよりも、労働の中での彼女の選択によって、その思想や思考が分かると思うんだ。
実際、夢子は村に入ってからメキメキと語学力を伸ばして、その“個性”を出している。エルヴィンの屋敷に置いて給仕された何不自由ない生活のままだったら、水をろ過させたり、畑を耕したり、そういう知恵を知ることができない。
過酷な場所に放り込むことによって、人間は知恵を絞る。私は夢子の限界が知りたい」



マッドサイエンティストだな、とリヴァイは思ったが、確かにハンジの主張は理に適っているとも思った。
エルヴィンの屋敷で何不自由なく生活させ、食事を与えられるよりも、自らの力で生み出す方が脳みそを使う。今、夢子はその肉体と知識以外何の財産も持っていない状況だった。それならばその財産を使うことでしか夢子が生きる術はない。そして夢子ならば、もっと我々を驚かす知恵を持っているのではないか、と僅かに期待する気持ちがちらつくのをリヴァイは感じた。
夢子は異質だ。異質な存在だからこそ、秘められたものを持っている。


夢子の持っていた本。
女たちが見たこともない構造の建築物や人込みの中で、見たこともない服装や化粧で笑っている、信じれらないほど精巧な絵。着飾ることばかり描かれたあの本の世界。そして田畑や植物についてばかり描かれた字の多い本たち。
そのどちらも「夢子の世界」だというならば、着飾らせる世界よりも、土に触れる世界で彼女の思考を探る方が人類にとって好ましいものだろう。


「わかった」


しばらくの沈黙のあと、エルヴィンが頷いた。
エルヴィンも腹の中であらゆる算段が付いたのだろう、とリヴァイは思った。
夢子の知恵の実験で負った借金を、夢子自らの知恵で清算させるとはなんという皮肉だろうか。


「だが夢子は我々の切り札だ。送り込むに相応しい場所なのか、他の政府機関の息が掛かっていないか、調査は怠るな。お前が見つけてきた選択肢だ。ハンジ、やってくれるな?」
もちろん、と頷いたハンジは、自分の案がエルヴィンにとりあえずは採用されたという安堵と誇らしさで頬が上気していた。リヴァイとエルヴィンの視線が交差した。エルヴィンの目の意思を組んで、リヴァイも頷いた。ハンジの持っていないルート、地下での人脈を使え、という事だとそれだけでリヴァイは理解した。


―――――夢子から得られるものは全て得る。
エルヴィンの目が強く燃えていた。