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「森へ行ってきます」





ダリウスに告げると、水のろ過作業をしていたダリウスが振り返って頷いた。
何度経験しても、自分の意思を伝えることができることが嬉しいし、なにより一人で外出することを許されるようになったことが嬉しい。信頼を得たんだ、と思うとじわじわとあったかいものが胸に染み出す。


初対面の印象では、まだそう老人でもないのにどこか年寄りめいて見えたダリウスの青白い顔だったけれど、この文明と隔絶された社会で肉体労働をさせられているせいか、あのひょろりと青白い肌は日に焼け、落ちくぼんでいた神経質な目は白目が透き通り、ぼさぼさに伸びた黒髪をわたしが短く切りそろえたせいか(だってここはお風呂がないので彼のフケが気になるの…)健康な若者のように見えた。



第一印象で、若いころはハンサムだっただろうな、と思った通りに若返っていく。



なにより、ダリウスは実際そうおじさんではなかった事が分かってから、この奇妙な生活に若干の緊張感を持つようになった。数字の勉強を始めて分かったことだけど、ダリウスはまだ38歳だったのだ。
わたしが彼の若さに驚いたように、彼もわたしの年齢に驚いていた。
アジア人は西洋人より幼く見えるせいか、十代後半くらいだと思っていたらしい。


そして彼としてもわたしが「淑女」たる年齢だと分かったせいか、もう言葉を間違えた時、調教中のクマか子供のように手のひらを鞭打つことがなくなったのがやっぱり嬉しい。覚えるけれど、痛いものは痛い。
ただ、野生動物ではなく、女性の扱いをされるようになるとこの同居生活に少し緊張するのが困る。


少し、ぎこちなくなっている気がする…。





わたしは家から持ってきた米俵くらいの大きさの籠を背負って、薪になりそうな枯れ枝や種火になりやすい白樺の皮や松ぼっくりを見つけては籠に放り込みながら森を歩いていく。この辺は随分拾ってしまったせいか、なかなか枯れ枝が集まらない。



もう少し森の奥へ行ってみようか…。



森にはかつて使われていたらしい古い小道が一応存在しているけれど、通りかかる馬車はエルヴィンからの支援物資を積んだ馬車が週に一度通るかどうかという様子のせいかすぐにでも野生に帰りそうな様子をしている。少し道を逸れてしまえば迷子になりそうだ。振り返るとダリウスが使う暖炉から漏れる煙がぼんやりと空に昇っているのがまだ近くに見えている。



雪が積もれば薪は拾えない。
今日はあの煙がしばらく見えているだろうから、もう少し森の奥へ入ってみよう。



目印とするために、アリアドネの糸ではないけれど森を散策するときに持ち歩いている赤い毛糸の玉を取り出して、目につく場所に結び付けてはさみで切る。道が二股に分かれているときなどはこうして自分の歩いた道を目印にしているおかげでダリウスもわたしを追うことができたし、一度きた場所を見つけることもできたので自分の散策区域を確認できる。ヘンゼルとグレーテルにミノタウロスの迷宮。子供の頃に読んだ絵本でもなんでも大活躍。ネットで検索できない状況の今、どんなことでも知恵を絞りだすために必要で、その度にもっと勉強しておけばよかった…と後悔する。



とくに、こんなキノコを見つけた時は…。
ふっくらとした肉厚の傘にクリーム色の根。シイタケっぽいけど、シイタケってよく似た毒キノコもあるんだよね…。キノコ…キノコたっぷり使ったキノコ汁…いやいや、キノコだけはプロでも知らない山では手を出さないっていうんだから止めておく。…あ!


キノコをあきらめて顔を上げると、目線の先にある木に目が釘付けになった。
背の低い紫蘇のような葉をつけた木があった。枝の先には神社の鈴のように二つ三つ実がまとめてくっついている。す、すごい!!これはすごい!!!――――――ヘーゼルナッツだ!!!

慌てて駆け寄って木の下を見るとすでに放出された茶色いどんぐりのような色をした実がいくつも落ちている。すごいすごい!これを拾ってローストすれば最高の保存食になる!ナッツは高カロリーだし保存食にはもってこいだ!わぁ!初めての道に来てよかった!!

これはどや顔で帰宅できる!!



ふいに背後で枯葉を踏む音がした。
ダリウスが来たのかもしれない。わたしの毛糸を読んでくれたんだ。―――あっ。

でもそうじゃなかった。振り返って、“それ”を見た瞬間わたしの身体は硬直した。自分の顔から血の気が引く音さえ聞こえたような気がした。体中の細胞が機能を止めた刹那、心臓が破裂しそうなほどポンプ運動を始めて、喉の下でどんどん心臓が大きくなっていき、気道がふさがれたように息ができなくなる。



熊だ。


わ、ぁ、くまも、日本のくまとかおがちがうんだ…

本州の黒いツキノワグマとは違う。どちらかといえばアメリカのグリズリーのような茶色の毛にヒグマのように大きな体をしている。がっちりと合った目線は種族の壁を越えて言葉もなくお互いの力量差を見定めたように一瞬にして弱者と強者が分かれた。ばかなことを考えたのもこのヘーゼルナッツの木がこの熊のテリトリーだったのも一瞬のうちに理解した。そして熊が自分のテリトリーと獲物に執着することも思い出し腰にぶら下げた斧に手を伸ばすけれど、こんな枯れ枝を折るための薪わり斧で勝てるとは思えなかった。

ゆっくり、わたしはナッツの入った手提げ籠を足元に置き、ゆっくり目を合わせたまま後ずさる。
この熊が人肉の味を覚えていないことを祈りながら熊のテリトリーから出ようと後ずさる。
吐きそうだ。



熊は黒い鼻先を籠に突っ込み、籠の中のナッツやどんぐりを物色してまき散らした。
熊が、顔を上げる。立ち上がる。


あ、やば


瞬間、頭上を弾丸のような何かが強烈なスピードで飛んだかと思うと、形容しがたい声が上がった。熊の悶絶する声だった。熊の胸に矢が刺さっている。あ、れ、なんで
どこから、と思う間もなく誰かに後ろから肩を引き倒されて枯葉や小枝の道に後頭部を突っ込み天地がひっくり返り、一瞬見えた青空をかき消して茶色い塊が飛んだ。―――だれ
腐葉土に突っ込んだときそれまで止まっていた呼吸がばっと動いて突然大量に吸い込んだ空気は濡れた土と強烈な獣臭がした。え、なんか後頭部に柔らかい土を感じる。少し起き上がって後ろ髪をに触れるとべちゃっとした土が手に触れる。血でも出たかと思って手を見ると黒い土がついている。


え?臭い。猛烈に臭い。


猛烈な咆哮や人間の男たちの声の中、頭についているものが熊のマーキングうんこだと分かった。
妙に冷静になって半身を起こすとカウボーイのような男たちが熊に最後の槍を打ち込むところだった。
え、なに、え?あれ?あっ、え?わたし、頭にうんこついてる


カウボーイたちの中に子供が一人いた。手に弓矢を持っている。髪の長い子供だった。
その子がぱっと振り返った。


「よそモンがッ!」



それは、女の子だった。