01


世界には、毒が満ちている。

土鬼諸侯国の中央に横たわる、巨大なゴス山脈。
かつて、世界が清浄であり、高度な文明を持って人間が生命の頂点に位置していた頃、山脈には清潔な雪が積もり、千年の月日をかけて蓄えられた雪解け水が地下水となって流れ出し、山を潤し、田畑を耕し、家畜を太らせ、よく乳の出る山羊がいた。

しかし、世界が腐海に呑まれつつある現在では、山脈に積もっていた雪は気温の上昇の為に少なくなり、下界の瘴気の毒を含んだ重い雲が山の中腹にぶつかり、天候は激しく乱れ、山には灰色の雪が積もった。
だが瘴気は重く、山頂まで登ることはできず、山裾は激しい雷雨や吹雪だというのに、かえって山頂は雨の少ない、静かで閑散とした不毛の地となっていた。腐海の毒の届かぬ天空では、蟲も瘴気も姿を潜めていたが、標高の高すぎる山頂にあって作物も育たなければ、その寒さゆえ家畜さえ満足に生きられぬ不毛の地であった。

しかし、そんな土地に生きる一族がいた。―――ルドラの民。
暴風雷雨の神でありながら、安息を約束した古代の神の名を持った一族。


ルドラの民は、流浪の民だった。
定住をせず、天候の流れを読み、常に山脈を移動し続ける一族。
秋の頃は、南からの偏西風に乗ってやってきた、瘴気を含んだ雲が山脈にぶつかり、降り出す毒の雨を避けるために山脈の東へと移動する。春になれば秋の頃まで南で狩りができる。季節と共に山を流浪する一族。一族は、みな、血縁者であった。近しい血の者ばかりの近親婚を繰り返していた一族は、その血が濃く、短命であった。

瘴気に当てられることなく生きたルドラ族の血は清浄だとされた。
下界に萬栄していたグール(人食い)や、迷信深い土民たちの間ではルドラの肉体は薬となり、その肉を喰らい、血をすすり、髄液をしゃぶればルドラ族の持つ清浄な血や力を手に入れられるという迷信を大真面目に民が信じたために、ルドラ族は瘴気だけでなく、人間からも逃げるように山脈を移動し続け、戦わなくてはならなかった。


ルドラの肉体は、この汚染された世界にとって、穀物よりも貴重で高価な品物だった。




「男児は絶えたか」

土鬼諸侯国、聖都シュワの地下。
薄暗く、薬品の臭いで充満する研究室の中では、旧世界の技術を応用した薬液が培養液の中で煮え立ち、博士たちが空輸された死体を解剖するのを横目に、土鬼僧会の面をつけた僧侶たちが顔を突き合わせていた。


「滅びようとする一族の最後は、まさに鬼神の如く狂気の沙汰だったと」
「愚かなことを。土民の持つ戦力など、我が帝国の化学兵器の前では赤子のようなもの」
「しかし生け捕りにした奴隷の少なさには呆れるばかりだ。デージェ部隊め、作戦の目的は殲滅ではないのだぞ」
「愚か者め、部隊に思わぬ戦死者が出て逆上したのだろう。好きにやりおって」
「しかしこれでは移植に耐えられる者などおらんぞ」
「唯一生き残った健康な肉体が、小娘一匹とは…」


僧侶たちの黄色く濁った眼が部屋の隅に置かれた檻へと向かう。
四つん這いの獣を入れておくための背の低い檻の中では、娘が一人震えていた。
涙に濡れ、暗闇の中で白く光る瞳は憎しみと怒りでぶるぶると震えながら、射殺さんばかりの眼光で僧侶たちを睨み付けている。僧侶たちの隣で弄繰り回されている死体は、ルドラの戦士のものであり、娘の叔父にあたる肉体だった。博士たちはその肉体をつつきまわしながら、清浄な肉体の真理を得ようと躍起になっている。噛みしめた娘の口からは獣のような唸り声が溢れた。


「ははは、家畜の娘が人並みに怒りをしている。修羅を孕んでおる」
「この気性の強さ、男児であれば良かったものを」
「いくら移植に耐えたところで、女の肉体では皇帝にはなれぬからの」


僧侶たちは、土鬼の神聖皇帝の兄、皇兄ナムリスの一派の者たちであった。
超常の力を持たぬ故、第一継承者でありながら、弟であるミラルパに帝位を奪われたナムリス。所詮人間の肉体しか持たぬ彼は、永遠の命のために、人工皮膚や様々なおぞましい禁術によって、百年以上の年月を生き永らえていた。

そして、移植の時期がきた。
しかし、毒に満ちた帝国に、大切な皇兄の霊魂を移植するに相応しい肉体は少なく、ほとんどの人間が瘴気の影響で身体のどこかに病を持っていた。

――――瘴気のない天空に住む、ルドラの民を除いては。



「ならば娘に、皇兄様の男児を孕ませれば良い」

僧侶たちの長老ともいえる老僧の言葉に、僧侶たちが息を呑む。
長老の外斜視を伴った濁った眼がにたりと笑みの形に歪むのが僧衣の面の下で見える。


「皇兄さまのお命の長さからすれば、生まれた赤子が成人するまでの年月などほんの一眠りの夢のこと。そしてルドラの清浄な血と、皇兄さまの血を持った男子であれば移植するになんの問題があろうか。実の子の肉体であれば、その半分は皇兄さまのものだ。移植の抵抗も赤の他人にするものとは比較になるまい。ナムリス様にはいずれ、正式な妃を娶って頂く。御世継はその時に作れば良い」


悪魔の言葉だった。
そして、娘の一生は決まった。





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2013年11月から