02




瞬きすらできないで、ただじっと白い世界を見ていた。


夢子にはその光景が夢だと分かっていたけれど、動くことはできなかった。
夢の中で、故郷の山は真っ白な朝になろうとしていた。うっすらと青白い光が雪しかない山を照らし、宇宙から夜が遠のいていく。凍り付いたまつ毛が重たく、視界をぼうっと濡らし、緊張しきった風は張り詰め、血の気の失せた頬を舐めるように雪を含んだ硬質な風が通り過ぎていく。吐く息は吐く傍から凍っていき、家畜の毛皮で作った防寒具を濡らしていく。薄い酸素。呼吸をした分だけ肺が凍っていく。この世界のどこよりも宇宙に近い場所。雪の中に腕を差込み、這うようにしてようよう集めた枯れ枝はすっかり芯まで凍った。自分の瞳だけが爛々と光り、白く沈黙しながら恐るべき自然の驚異と残酷さを隠し、猫を被って白く沈黙する山を睨むのを、夢子は実感していた。



下界には、何があるのだろう。

一族の中に生きる世間師は下界を知っているのだという。
この凍った枯れ枝よりも、ずっと弱弱しく乾いた骨を持つ老人は、今の風貌からは想像もつかないほどの昔、世界中を旅する商人で、世間のことは何でも知っている知識人だった。その青年の頃、下界で旅をしながら商人をしていたといつも聞いた。ルドラの一族には時折、ごくまれに多民族の血が入った。この世間師も、なにかの故あってルドラの民となった男だった。一族の子供たちが集まり、火を囲んで、酒を舐める親の膝の間から聞いたいくつもの物語。



わたしはきっと、この凍った世界しか知らぬまま死んでいくのだろう。
母さんも、その母さんも、そのまた母さんも、そうだったように。


それが生きるということならば―――…





「かあさん」





目を覚ますと、夢子は薄暗い部屋に寝かされていた。涙で濡れていた頬を拭うと、夢子は部屋をじっと睨む。
気味悪い部屋…と、呟かざるを得ない。じっとりと暗い部屋は広いが、至る所に大なり小なりの土偶が置かれている。その土偶のどれもが巨大な目玉を一つ持っただけの異形の姿であり、また部屋の調度品も同じような単眼がデザインされている。夢子自身、単眼の衣を纏わされていた。それまでの山の生活では見たこともないような高価で柔らかな絹であつらえた丈の長いローブには、土鬼に伝わる皇帝の超常の力を意味する目玉があしらわれている。山育ちの夢子にその知識はなかったが、それは皇帝が自らの所有物に与える紋章だった。天蓋の張られた寝台はまるでテントのようで、ふかふかと柔らかすぎる流動物のような、海のような巨大な寝台を泳ぐように抜け出した。



「早く逃げ出さないと」



裸足を受け止めるのは、複雑な幾何学模様に編まれた絨毯や、夢子には検討もつかない獣の毛皮だった。
それらを踏み飛ばして、夢子は壁へと走りよったが、扉らしきものは見当たらない。まるで棺の中のように、ぴっちりと密閉された部屋に閉じ込められていると気づいた時、夢子は体内でひやりとするものが込み上げるのを覚えた。得体の知れない部屋には、見たことのないもので溢れている。山には決してなかったものばかりだ。まるで檻に閉じ込められた獣のように、夢子は手あたり次第に部屋の中を走り回って、壁を叩き、脱出の道を必死で探した。一歩一歩走るたび、檻に入れられ、不自由を強いられた筋肉と骨が悲鳴を上げるのにも気づかないまま、夢子は泣き出しそうな顔で壁を叩いていく。



そういえば、あの男たちは何か言っていた…。わたしを誰かに捧げるって!
でも土鬼の公用語だったから、よくは分からない。土鬼は広大な国家だって世間師が言っていた。その都の言葉と、わたし達ルドラの民のような属州なんて呼ばれる一民族の言葉は違う。似ているけれど、でも違う。分かるけれど、わたし達の使わなかった意味の言葉を使われるとすっかり分からない。分からない。分からないことばかりで、何が分からないのかも分からない。ああ、お願い!ここから出して!!



「家へ帰して!!」



小さく叫んで壁を叩き、そのままずるずるとしゃがみ込んだ夢子の背後から男の押し殺すような笑い声が漏れた。
はっとして振り返った夢子の前に現れた男は、単眼の鉄帽のようなものを被った痩せた男―――神聖皇兄、ナムリスだった。



「まるで迷子みたいな事を言う」
「あ、あなた、誰?」
「俺の名はナムリス。この全人類、そしてお前の主だ」



ナムリスが乗ってきたのは旧世界ではエレベーターなどと呼ばれていたものの技術を応用した透明な卵型の箱だった。
ナムリスが箱から降りると、それは床に吸い込まれた後は跡形もなく消え去り、絨毯にはそんな仕掛けがあったことなど微塵も感じさせないほど、また沈黙した。鼻から上に掛けて君の悪い単眼の鉄帽を被ったナムリスの顔は分からなかったが、にやりと笑った口許に夢子は嫌悪を覚えた。まるで本気でそんな事を考えているような口ぶりだと思った。そして男はそれが当然であり、常識であり、常にそう振る舞ってきた人間の傲慢さで溢れていると思った。村の若者の誰一人として持っていなかった、傲慢さ。生まれて初めて出会う恐怖。夢子は知らず息を呑み、ゆっくりと立ち上がり、後ずさる。ふいに指先に土偶が触れた。



「なるほど。こりゃ礼儀知らずのじゃじゃ馬だな。自分の身に余る栄誉がどんなモンなのか知りもしない」


夢子は指先に触れた土偶の首を握りしめた。ナムリスは着こんでいた単眼のマントを脱ぎ棄て、腐海の蟲の殻より作った上部なグローブやひじ当てを外し、次々と床へと落としながら、夢子の元まで近寄った。来るな、と震える声で威嚇する夢子を無視して、そのまま壁まで追い詰めた。夢子は土偶を握りしめる手に力を込める。ナムリスが夢子の黒い髪をひとすくい持ち上げて鼻先を埋める。



「氷の国ルドラの女の肌は雪のように白いとはまことだったか」



そのまま、夢子は握りしめた土偶をナムリス目がけて振り下ろした。

その瞬間、夢子の身体は弾きとび、土で作られた土偶が派手な音を立てて割れ、飛び散った破片の中に落ちた夢子の肌を裂いた。糸のように細く伸びた血が滲むのにも気づかないまま、夢子は破片の中に倒れ込み、起き上がることもできなかった。頭の中がぐわんぐわんと震え、ぶたれた頬が燃えるように熱を持ち、噛んだ口の中いっぱいに血が溢れた。暗闇の中で茫然としたまま顔を上げた夢子に、ナムリスが唾液に光る白い歯を見せて笑った。



「なるほど。下等な土民の娘らしい決断だ」

軽い脳震盪の中、動くこともできない夢子の髪を掴んだナムリスはそのまま乱暴に夢子の頭を持ち上げ、苦痛に声の漏れる夢子の顎を抑え、ナムリスはその耳元にささやいた。



「実は、俺は女には優しい。俺の子を孕む事ができれば、お前には帝都に家と、生涯の年金、奴隷、そして自由市民としての全ての権利を与えてやろう。――――そして、お前は自由になれる」



ナムリスの肌からは薬液の匂いがした。
まるで死の淵にある老人のような、乾いた匂い。病の匂い。そして嗅ぎ慣れない薬の匂い。そのツンとした匂いに顔をしかめながら、夢子は唐突に理解した。地下室で博士たちが言っていた言葉の意味を。―――そして、自分たちが滅んだ訳を。

いまだ肌を差す土偶の破片をひとかけら握る。足を切った血で欠片はにちゃにちゃとねちゃついたが、そんなことはどうでも良かった。自分の首に鼻先を埋めて、明らかにおぞましい意図を持って鼻を摺り寄せるナムリスの背中に、迷わず欠片を突き刺した。手ごたえは、あった。



「望み通りにしよう」




ナムリスが夢子の髪から手を離すと、重力に従って夢子の頭は鈍い音を立てて絨毯に落ちた。

鈍い痛みに思わず顔をしかめた夢子の視界の中で、ナムリスが立ち上がり、その足元だけが見えていた。確かに、皮膚を突き刺す感覚を覚えたのに…。夢子が破片を握りしめていた手を軽く握るも、その手の中に破片はなかった。ただ、強く握りすぎたせいで切れた手のひらが熱を持ち、早くも凝固し始める血でにちゃにちゃと嫌な音を立てた。ナムリスの足を睨みながら、夢子の頭に「?」が浮かんだ瞬間、夢子の身体はまるでボールでも蹴飛ばすように簡単に宙に浮き、そして壁に叩きつけられた。スローモーションに落ちていく中、ナムリスの踵が見えた。そしてぎゅうっと内臓が委縮し、悲鳴を上げたかと思えば空の胃から溢れた酸い臭いの胃液と唾液が混ざったものを吐き出し、海老のように身体を折り曲げてげぇげぇと吐いた。きゅうきゅうと締まる喉は引きつり、呼吸ができずにパニックになる。


そんな夢子の髪を、またナムリスは掴み上げ、無理矢理頭を持ち上げた。
そして涙と鼻水、唾液を洩らして茫然とする夢子の幼さを残した顔に向かって、拳を叩きつけた。頭の中でぶちぶちと髪が抜ける音がうるさく響いて、そして呼吸ができなくなった。溺れていると思った。口の中に溢れた水に、夢子は湖に落ちた時の事を思い出した。酸素を求めて呑み込んだ器官に水が溢れた。窒息すると思った。でもそれが水でないことはすぐに分った。大量の鼻血だった。髪を離され、床にひれ伏し、咳き込んだ口から大量の血を吐き出した。初めて受ける圧倒的な暴力だった。その暴力にわななき、なすすべもない夢子の脱力しきった腕を掴み、ナムリスは寝所まで引きずり、乱暴に臥所へと放り投げた。新雪のようにふかふかと柔らかく、実態のないクッションの中に沈んだ夢子は、朦朧とする頭でナムリスを見上げた。ぶるぶると内臓が震えている。


ナムリスがその鉄帽へと手を掛け、乱暴に脱いだ。現れた顔は、老人とも、青年とも、少年とも違っているように夢子には思われた。



大きな三白眼の瞳が笑みを浮かべた。
夢子が今まで、決して見たことのない残酷な顔をした人間の男だった。



頭に酸素が回らず、朦朧としたままの夢子の萎えた両腕を掴み、自らのベルトで手首を縛りあげる。

その手際は驚くほど鮮やかで、一瞬の抵抗も許さない確固たる意志があった。ナムリスの挙動には迷いが微塵もなかった。ここで夢子を殺すのだとしても、迷いや躊躇いなど一瞬たりとも感じさせない傲慢さだった。そして縛り上げた夢子の腕の中に自らの首を突っ込んだ。それはまるで、若い恋人が男の首に腕を回し、甘えているかのようなかたちだった。夢子の顔は血まみれで、髪は乱れ、意識すらはっきりしていなかったというのに。
そしてそのまま、ナムリスは夢子のスカートの裾をたくし上げ、乱暴にその太ももを愛撫した。



「これはお前が選んだ結果だ」



ナムリスの奇妙に冷たい手の平がショーツに触れるのが分かった瞬間、夢子は子供のようなか細い悲鳴をあげてもがいたが、きつく縛られた腕はナムリスを引き寄せ、より強く抱きしめただけだった。情熱的じゃねぇか、とナムリスは軽口を叩いて、夢子の髪に顔を埋め、女の肌の匂いを堪能する。夢子がもがけばもがくほど強く密着し、固いものが太ももに押し付けられ、夢子はパニックになりながら悲鳴にもならない悲鳴を上げた。



「お前は妻ではない。この俺の、神聖皇帝の新たな肉体の為の借り腹だ」



ナムリスが夢子の首を舐めた。