03

もう泣く気力もなかったのに、涙だけは絶えずに流れ続けた。


目を覚ました夢子は悲鳴にもならない声をひとつあげて、指一本自由にならないまま柔らかすぎるクッションの中に沈んだ。
腕は縛られたまま鬱血し、無理矢理開かれた身体は血と精液でパリパリに乾いて引きつっていた。嗚咽をかみ殺そうと胸を震わせながら震える息を吐き出すと、顔の半分を覆う黒く固まった鼻血でバリバリと顔が引きつり、髪に絡んだ自らの吐しゃ物の臭いが鼻を刺した。自分の肌から訳のわからない悪臭がする。部屋のそこら中に見える単眼が冷たく夢子を見下ろしている。監視している。全てあの男の目のようで、叩きつけられた暴力の恐ろしさに夢子は身震いした。ナムリスの姿はとっくになかったが、おぞましさに唇を噛んで目を閉じる。切れた口の中が早くも膿んで酷く痛んだ。


気絶するように眠りと放心の間を浮かんだり沈んだりしていた頃、アバヤ(イスラム圏の女性が身に着ける全身を覆おう黒い布)を身にまとった女たちが部屋に現れた。


女たちは夢子の故郷の女たちとは違う匂いのする女たちで、爪は赤く塗られ、高価な宝石の指輪や腕輪をはめ、何やら濃厚な花のような匂いがむっと香り、黒いアバヤを着こんでいても分かるその派手な装いはただの下女ではないような様子だったが、目だけを出した服装のせいではきりとした年齢は分からなかった。


女たちはもう声を上げる気力もない夢子の無残な姿を前に動じた様子もなく、夢子の身体を介抱し、二人掛かりで運んできた湯の張られた盥に浸した布で夢子の肌を清めていく。白い肌に、青紫色の痣がいくつも浮かび、それはまるで芍薬の花のように大柄な模様となって体中のそこかしこに浮かんでいる。それでも骨が折れた様子がないのは、ナムリスなりに加減をした結果かもしれなかったが、そんな事はなんの慰めにもならなかった。


熱い湯に浸した布で肌が清められていくのを感じて、凍り付いていた血が流れ始めるのを感じたが、でもその布が夢子の身体を清めていく行為は、撫でていく肌の先は、夢子が知らずに持っている性への喜びをもう一度丁寧に壊していき、夢子だけが知っている筈の身体の全てを再び他人に晒し、抵抗することもできないまま、残酷に暴かれていく行為となって、夢子の心に再び静かな痛みを負わせた。
女たちは、白い肌にはっきりと暴力の痕が浮かぶ身体を清潔なシーツでくるむと、控えていた大女が夢子をいとも簡単に抱き上げた。夢子はもう何もしたくなかった。どこにも行きたくなかったし、なにも喋りたく、抵抗する力もなく、そのまま女たちと一緒に卵型のポットに乗り込んで下層階へと降りた。


そこは、どこをどう歩いても体中をすっぽりと布で覆った女ばかりと出くわし、壁には薄気味悪い単眼が光っている。
女しか入ることのできぬナムリスの後宮だった。女たちはみな夢子の事を知っていた。黒いアバヤから覗く瞳は、夢子がどのような女なのかを見極めようとするかの如く遠慮なく夢子へと注がれ、単眼の光る廊下は沈黙していたが息苦しいほどの女たちの好奇心、羨望、憐れみ、妬みが思念体のようにうごめいた。


一族を滅ぼされはしたが、皇兄様の情けを受けた娘。
皇兄様の単眼を着る唯一の娘。


小さな部屋に入れられた。
部屋に取り付けられた浴槽にはすでに熱い湯が沸かされており、そこに放り込まれ、上等の石鹸とたっぷりの湯で全ての汚れを落とされ、鬱血した肌には薬草を練り込んだオイルが塗られ、オイルが乾かぬようガーゼを当ててしっかりと包帯が巻かれた。そして足首にまで裾のある胸元に大きな単眼の刺繍が施された白地のワンピースを着せられたが、身体に合っていないサイズの襟回りからは胸に巻かれた包帯がはっきりと見えた。そのままベッドに寝かされ、何かの薬草の匂いのする渋い茶を飲まされると、殴られ、滅茶苦茶に頬の肉を噛んだせいで傷だらけになり、酷い口内炎になり始めている口内が痛んだけれど、茶を飲み干すまで解放される様子はなかったので痛みに耐えながら、舐めるように飲んだ。


茶を飲み終え、シーツに沈んで目を閉じるとすぐに眠りがやってきた。導眠剤も混ぜられていたのかもしれない。
でも、そんなことはもうどうでもよかった。
もう、何もしたくはなかった。


ただ、死にたかった。





「下女らの報告によれば、皇兄さまの首尾も上々…」
「おぉ、新しい肉体でも射精をされましたか」
「やはり肉体の癒着は完全であったか」
「上々。上々」
「ただ娘を酷く痛めつけたらしく暫くは使用に耐えぬと」
「うむ、しかしご気性の荒いあのお方が殺しはしなかったのだから上々」


薄暗い神殿の隅で皇兄派の僧侶たちのひそひそとした声が廊下を走る鼠の立てるカサカサとした乾いた音のように静かにくぐもって聞こえていた。僧侶たちは互いの白目が濁った黄色い目を突き合わせながら、その後の皇兄の進退を決める話を始めた。頭巾の下にわずかに除く肌は枯れ、膿んだイボが浮いている。おぞましい僧侶の肌。もう百年も繰り返してきた会話。また百年先も同じ会話を繰り返すために、緻密な未来予想図に更に緻密すぎる針のような微細な修正と捕捉を繰り返していく。そこには、夢子の存在がしっかりと縫い込まれていた。



狼の夢を見た。
ルドラは厳しい冬だった。昼間だというのに空は真っ暗で、瘴気を含んだ黒い空からは毒を含んだ灰色の雪が降った。
奇妙に暗い昼間だった。時折雲の切れ間から鈍い色をした太陽の光が落ち、こんな山脈にまで届いた瘴気の塵がきらきらと光った。瘴気マスクをつけているせいか、呼吸がやけに大きく掠れて耳元に聞こえた。


夢だ。


静まり返っている。山は永遠のように沈黙している。瘴気マスクや防寒具の間から覗く肌が差すように痛い。夢だとわかっていた。でも、夢だからこそ一歩も動くことができないまま、夢子は青暗い、闇と呼ぶには奇妙にさっぱりとした雪山に立ち尽くした。


突如、狼の姿を見止めた。
もはや絶滅した筈の太古の生き物。壁に掛けられたタペストリーでしか見たことのない、狼。
銀色の毛を光らせながら、狼は一匹、二匹…と増えて夢子に走りよった。逃げなければ、と思うのに動けない。雪に埋もれた足は凍ってしまい、抵抗もままならないまま、一匹の狼が夢子の防寒具に飛びつき、刺すように冷たい雪の中に転がる。悲鳴も上げることができないまま、もがく。

狼たちの牙が肌へと喰らいついた。





夢子が目を開けると、寝台の傍らにナムリスが座っていた。
悲鳴を上げようとしたが、さっきの夢のように声は出せず、急に起き上がったせいで目の前の男による暴力の傷が痛んでうめき声を洩らして寝台へと倒れるように沈んだ。ナムリスはそんな夢子の姿を眺めながら、単眼の面の下に見える口許で笑みを浮かべていた。まるで悪戯を思いついたガキ大将だ。ガキ大将がそのまま大人になり、そして5,6人の仲間内だけであれば良いものを、この国家という組織を一部でも握っているのだからタチが悪かった。


「お前は俺の妾だ。欲しいものがあればなんでも用意させよう」
「欲しいのはお前の命だけだ」
夢子の間髪いれぬ言葉にナムリスは大声で笑って立ち上がった。



「あとで褒美を運ばせる。初夜を迎えた儀礼だ。これから褥を共にするたびに褒美を運ばせる。それがお前の財産になる。お前が子を孕み、生み落とせばお前の役目は終わりだ。もしも後宮で権力を握り、坊主どもを顎で使いたいのなら後宮に残ればいい。子供はいくらいても足りん。子を産めば生むだけ、お前の後宮での地位は約束される。だがお前はそれを望まないだろう。ならこの褒美の金や布や石を蓄えろ。年金くらいは払ってやるが、褥の代償がここを出た後のお前の資産になる。子を産め。そうすれば、お前は自由になれる」


―――お前は、自由になれる。