04
体力が戻り始めると、周りのことが見えるようになり始めた。
最初の数日に出されたものは、ルドラの山では用いられなかった香りの強い香辛料が混ぜられた粥や乾燥させた果実ばかりだった。
それが一日に五回出され、そのうち三度の食事で苦い薬汁を飲まされた。これら全ての食事や医療があの男、ナムリスによる私財から出されているのかと思えばその全てを拒絶し、誇り高いルドラの民の矜持を見せつける為に餓死をしようかとも考えたが、自分が死んだところであの男は痛くも痒くもない。それよりはいっそ、ナムリスの私財全てを食いつくし、体力をつけ、あの男の喉笛を噛み切って殺してやるほうがよっぽど復讐になるになると考え、夢子は出された食事に手を付け、されるがままに治療を受け、薬を舐めた。
日に何度か黒い覆い、アバヤを被った女たちが現れては、夢子の身体を拭き、薬液の染みたガーゼを取り替え、包帯を巻いた。
夢子には一体どんな薬草が使われているのか分からなかったが、女たちがガーゼを取り換えるたびに鬱血した患部がじわじわとした熱を持ち、よく汗を掻き、薬汁に混ぜられた導眠剤の影響もあってすぐにとろとろとした眠りへと落ちた。
その度に、誇り高い戦士たちの姿を夢に見た。
氷に覆われた山で、生きる知恵を三百年伝え続け、生きてきた民族。
男たちは実に山のことをよく知っていた。どんな雪の積もり方をすれば雪崩が起きるのか、どんな氷の下ならば家畜に食べさせる苔が生えているのか、狩りをした獣を捌く時、どうすれば上手く血抜きをして毛皮を傷つけずにいられるのか、どうすれば一冬越せる燻製が作れるのか、血を求めてやってくる人買い達をクレパスへと誘い込む方法を、そして山が南に向かって紫の光を帯びる時、それが春を告げるオーロラになることを知っていた。
一族皆が同じ血を分けた家族。ルドラの一族は、同朋以外の何者も知らない。
今はもう、自分しかいない。
目が覚めるたびに熱っぽい頭で夢なのか、現実なのかを考えようとするたび、耳の辺りで濡れた髪が頬に絡む感覚でこれがまぎれもない現実であり、悪夢であり、自分が生かされている理由のおぞましさを思い出して震えた。あの万物の王であるかのように振る舞う単眼の男、ナムリス。あいつの喉元噛み切ってやるまでは、絶対に、死ねない。
二週間が経った頃には、すっかり立って歩けるようになっていた。
肌にはまだ鬱血が残ったが、それももうすぐ消え、また元の白い肌に戻りつつあった。
ぐっと手を握りしめると、ちゃんと力が入る。人一人殺せるだけの力。でも、ナムリスは戦い馴れている。素手じゃまた返り討ちにされるだけだ。…いや、あれは戦いなんて立派なものじゃなかった。圧倒的な暴力。人間を痛めつけることになんの迷いも抵抗もなく、息をするように当たり前に行える暴力。おぞましい男。あのおぞましい男を殺すことだけを胸に回復をしたのに、あの男の顔を考えると夢子の身体は震えた。
―――――わたしに、あの男が殺せるだろうか。
「顔色、よくなった」
突然、普段は床に隠れて跡形も見えない旧世界の卵型のエレベーターに乗って現れた娘から掛けられた声に、夢子はびくりと肩を震わせた。
この国の持つ旧世界の文明は山にはなかったものばかりで、その気配のなさがいつも空恐ろしかった。娘は返事を返さず驚いた顔のまま自分を見つめる夢子にかまわずずんずんと部屋に入り込み、ベッドに座る夢子の顔を無遠慮に眺めた。
「ふん、おまえ、うまくやった」
夢子が思わず眉を寄せても、娘は動じなかった。娘は異民族の顔立ちをしていた。
浅黒い肌に、意思の強そうな切れ長の一重瞼、低い鼻筋は娘の背格好よりもずっと幼く子供のように見える。長い黒髪を夢子の一族の娘たちとは違う様式に複雑に編み上げ、耳の横で大きな輪を作り、垂らしていた。着ている服装も夢子の世話を焼いた女官たちの着ている黒いアバヤではなく、目の覚めるような赤い光沢のある布で作られたズボンと長袖のゆったりとした服を着ている。見たことのない民族の娘だ。
「うまくやった?」
「おまえ、キレイ。うまくやった。オレ、第一夫人の座、狙っていた。おまえ、オレより先に皇兄様のお手がついた。年金も家も市民権も貰える。おまえ、これからずっと働かなくていい。ずるい」
ずるい、という言葉に夢子は目の前が真っ赤になったような気がした。
ずるい?そんなことで一族を滅ぼされた自分の一体何が狡いというのか。ふざけるな。あんな男から一切何も欲しくはなかった。なんにも欲しくはない。わたしはただ一族と山で穏やかない過ごしていただけだ。それを無理矢理全て奪い滅ぼし、身勝手に与え、それのどこがうまくやったんだ。
そんなことを言いたかったけれど、夢子はあまりの怒りに言葉がうまく出せず、「一族を滅ぼされたのに」とその失ったものの大きさを娘に突き付けるように呪いを込めて吐き出したが、娘はけろりとしたものだった。
「おまえ、甘えている」
「甘えてなんかいない!」
「おまえ、甘えている。一族を殺されることはよくある。男は殺される。奴隷になる。女は犯される。売られる。よくある。どこもかしこも戦争をしている。土地、奪われる。全て奪われる。腐海に追いやられる。死ぬ。よくある。一族を失い全てを奪われ、それっきりだ。でもお前、違う。お前、一族滅ぼされた。でも、おまえ、厚遇される。お前、運が良い。タダで失っていない。見返りなく全てを失う女ばかり。一族皆犬死にばかり。でもおまえ、皇兄さまからなんでも貰える。おまえ、恵まれている。おまえ、世間知らずの馬鹿」
――――――おまえ、恵まれている。世間知らずの馬鹿。
夢子は、その通りなのかもしれない、と思った。夢子の一族は近親婚を繰り返して一族の血を保っていたほど、下界との交わりを持たず、国に属してはいるが税金も納めず、ただ下界とは一線を引いて山でのみ暮らしていた一族。この世界のことなど何も知らない。だが決して恵まれてなんかいない。恵まれているといった娘の言葉だけは受け入れられない。
だが、言い返す言葉がなかった。
「オレ、ターリア。お前の世話をする」
ターリアと名乗った娘が夢子の腕を掴んで臥所の上で立ち上がり、それに引っ張られるように夢子が前のめりになった。世話?と聞き返した夢子にターリアは大きく頷き、ぐいぐいと夢子の腕を遠慮なく引っ張った。
「ハマムへ行く。おまえ、臭い」
ターリアがハマムと呼んだ蒸し風呂では、色んな女たちが素っ裸で寛いでいた。
真っ白な肌の女。胡桃色の肌の女。黒い肌の女。赤い肌の女。青い目の女。黒い目の女。金髪の女。赤毛の女。太った女。痩せた女。老いた女。赤子の女。美しい女。醜い女。それらの女が皆素っ裸で、じんわりと熱を帯びたタイルや、腐海の深層部を切り崩して取り出した高価な石の上に座ったり寝転んだりして、それぞれがそれぞれの奴隷女や付き人からのマッサージを受けながら各々の部族の言葉でおしゃべりをし、女たちが皆異民族であることを示すように化粧や髪型や宝飾品が違っていた。夢子の見たことのない人種の女たちばかりだった。色んな女がいたが、夢子がターリアと共に蒸し風呂に入り込んだとき、それぞれの女たちの目が夢子へと注がれた。夢子の鬱血した暴力の痕が残っている肌。その痣を付けたのが誰であるのか、知らない女はいなかった。
ターリアはそら見たことか、というような目で夢子を見た。
「みな、おまえがうらやましい。オレが言った通りだろう」
「居心地が悪い。やっぱり部屋へ帰ろう…」
「それはだめだ。おまえ、薬漬けで臭い。髪の油も落として香油を塗ってもらおう」
臭い、とこうも直球で言われると夢子としても引くことができなかったが、山の中で入浴の習慣がなかった夢子にとっては髪を洗い清め香油を塗るなんてことは習慣ではなかった。肌を見せることに戸惑いはなかったが、こうも無遠慮に目をやられると居心地が悪くてたまらなかったが、ターリアはその視線の嫉妬と憎悪を一身に受けて得意そうな心地よさそうな目をして自分の場所と決めている青いタイルの上へと寝そべり、夢子を呼んだ。
「ここでしばらく寝ると汗が出る。汗がでると垢が浮く。そしたら奴隷に削いでもらい、あとで湯を流す。極楽。村にいたらこんなことはできない。オレ、ここに来て幸せ。本当に幸せ」
心底心地よさそうに、まるで人になれた家畜が頭を撫でられたときのように目を細めて身体を伸ばすターリアの隣に同じように寝そべり、ここの女たちは皆売られて来たのだろうか、と夢子は考えた。まるで世界中の民族の女を集めたようだ。あの黒い肌は泥でも塗っているのだろうか。それともこのターリアのようにもともとの肌の色なんだろうか。一体なんの為にこんなに沢山女がいるんだろうか。
「ここは、なんのための場所?女ばかりがいる。男はいないの?」
「男?男は宦官様だけだ。アレのついている男は入れない。ここの女、全部皇兄さまのもの。皇兄さまが欲しいと思えば皇兄さまが抱く。欲しいと思われなければ老いて死ぬだけ。皇兄さま、永遠に生きる。でも女は死ぬ。だから老婆がいる。欲しがられないまま老婆になる。老婆も昔は娘だった。でも選ばれないから老婆になった。皇兄さま、あまり女選ばない。だから選ばれたお前、憎まれる」
ハーレムの知識がない夢子にはわけがわからない事ばかりだった。
男を入れずに女ばかりを集めているのでは生活が成り立たないのではないだろうか。それに、ターリアの言った「永遠に生きる」とは、どういう意味のことだろうか。権力のことだろうか。まさか幼女が老女になるまで姿変わらず生きられる人間などいるはずがない。人は王蟲のように長くは生きられない。仮面の下のナムリスの顔はまだ青年の顔をしていた。隅で何かを飲むあの老婆が娘だった頃からナムリスが生きているはずなどない。どう見たって婆と孫だ。
「皇兄さま、もうすぐ戦争から帰ってくる。お坊さまがそう言っていた。オレ、うんとめかし込んで皇兄さまに愛されるように待っている。でも新しい靴を買う金がない。オレ、ここでおまえの事を守ってやるし、ここの事を教えてやる。欲しい物、用立ててやる。なんでもツテがある。だからおまえが貰った金貨を一枚欲しい」
まるで話に聞く商人のようだ、と思ったが、夢子は迷わずに頷いていた。
このわけのわからない場所で「説明」をしてくれる存在はありがたかったし、あのアバヤを着た女たちは夢子の言葉に一切何も答えてはくれず、ターリアがいなくてはここでの事など何も分からない。ターリアが欲しがるのならなんだってあげたって良いと思っていた。ナムリスから与えられるものなど何も欲しくはなかった。ナムリスから与えられたものが、あの暴力と凌辱の代償なのだとしたらそんな汚らわしい忌むべきものなど全て捨て去りたかった。
「実はもう外の商人と話つけてある。蟲の繭を解いて作った靴を手に入れる。皇兄さま、美しいものが好き。きっとオレの靴気入ってオレを抱く」
夢子にはターリアが子供のように目を輝かせている理由がちっとも分からなかった。