05

それからターリアは夢子の知りたかった「なぜ」を沢山教えてくれた。


ここが土鬼の聖都シュワであるということ。あの男は土鬼の皇帝の兄であるということ。兄ではあるが皇帝ではない故、その権力には限りがあるということ。皇帝は女を取らぬ。僧侶たちと共に生きる超常の神だから。だから女が身を立てるには兄であるナムリスに取り入るしかないということ。ここはナムリスの為に集められた女たち…貴族や属国や奴隷などあらゆる場所からあらゆる理由(人身売買、貢物、賄賂、志願、貴族間の政略など)でかき集められた女たち…が暮らす城であるということ。夢子の世話をしているアバヤの女たちは、他国の奴隷の女たちであるが故にナムリスの為の女に仕えているということ。奴隷の身分であっても側室候補の娘たちよりも後宮での権力がよっぽどある者もいるということ。


―――そして、夢子が20年ぶりに皇兄に選ばれた女であるということ。


「20年?」
そう聞き返した夢子にターリアは当然のような顔をして頷いたが、夢子には納得ができなかった。
20年ぶりの女。しかし、あの薄気味の悪い目ばかりがついた面の下の顔は、自分よりも僅かに年上だろうか、ナムリスは奇妙に老いて見える時があったが、それでも20年前に女を抱く年ごろだったような顔ではなかった。
夢子がその事を告げてもターリアは首を縦に振って「ちがう」という。
(ターリアの部族では首を縦に振ることが否定の意味をもち、横に振ることが肯定の意味を持つらしかった)


「皇兄様、百年よりも沢山生きている。人ではない。神に近いから」


神、と言われても夢子にはますます「?」が浮かぶばかりで話にならない。
夢子たちルドラの民の意思に関わらずルドラは土鬼の属国となった。しかしその宗教を強要されるほどの支配が進んでいなかったため、ターリアの言う神が何を差しているのか、皇帝という存在が宗教としての神のメタファーなのかも理解ができず、ナムリスのことになると話を進めることができなかった。もしかしたらターリアの神と夢子の神とナムリスの神が違う神であるせいかもしれず、それらがこの、後宮という混沌とした民族の坩堝にあって宗教教育のもとない娘たちの曖昧な口述伝承が伝わるうちに伝言ゲームのように混乱した神が生まれているのかもしれなかった。ターリアもナムリスを差して「神」と言ったがその意味を理解しているわけでもなく、ただ曖昧に納得している様子でもあった。そもそもナムリスの寝所に上がることを許されていないターリアにとってナムリスについて得ている情報は、女たちが囁く噂や曖昧な政治情報からのみに過ぎなかった。



「でもオレ、皇兄さまと話したことある。ターリアという名前、皇兄さまがくれた」



ターリアが生まれたのは、拡大を続ける土鬼に取り込まれた小さな国だった。
土鬼諸侯国の北の果てにあり、百年前は内海を挟んだ大国トルメキアの一部だったというほど辺境の地にあったが国家として国力的な自立を果たしていたのは、その秘術にあった。村の男たちは、腐海に潜り、タリア川の底から宝石を取り加工する術を持っていた。タリア川の石は、家畜や金よりもよっぽど価値があり、その石は土鬼のみならずトルメキアでも珍重されていた。


腐海の深層部へ入り、一滴飲めば即死する猛毒の川の底より石を拾う。これは一族の門外不出の秘法である。
重瘴気マスクをしていても肺に潜り込む腐海の瘴気のために一族の男は短命であったが、国は富んでいた。しかし男が短命であるために軍事力に欠けており、女まで借り出して軍隊という形を取ってはいたが他国と戦争をするほどの力はなく、常にどこか大国の庇護の下、タリア川の石から得る国力を差し出し、守られるという事実上の属国となっていた。その為に、トルメキアとの秘密貿易目を瞑られていた。単純に取引相手が倍になればそれだけ国は豊になり、その分搾取できる税収が増えるからだった。

この二つの大国に挟まれ、どちらとも交易をしていた国は独自の文化や慣習が進み、どちらの国の言葉も分かるが、どちらとも中途半端に混ざり合った言葉が公用語となっていた。ターリアも後宮に来てから随分土鬼の公用語を理解できるようになったが、まだ話すことは不慣れだと言った。それは少数民族出身の夢子にもよく分かった。早口に喋られると聞き取れないことがままあったからだ。



「オレは運が良い。運命に勝った」



ターリアは、土鬼諸侯国戦勝記念として樽一杯の石と共にナムリスに差し出された祝いの品であった。
他にも差し出された娘は沢山いたが、ナムリスの手に届くまでに何度もある関所の番人や、それをチェックする役人や、帝国を守る軍人や、それを飼っている貴族たちの妾や奴隷として引き抜かれていった。一番美しい娘から順に引き抜かれて役人の手からその賄賂としてもう一つ上の位の役人へと横流しされ貴族の元に渡る。そういった汚職を繰り返すうちに樽一杯あった宝石は半分になり、娘はターリア一人になったのだという。ナムリスが女を重視していない事を知られている為、献上の娘の横流しが起きたのだろう。

そうして番人にも役人にも誰にも選ばれなかったターリアが結局は皇兄の後宮に入り込む事になったのだから皮肉なことだった。
先に選ばれていった美しい女たちよりもずっと良い身分につける位置に、ターリアはいた。美しかったばっかりに役人に引き抜かれていたら肥えた貴族や地方役人が数多く抱える妾の一人となって飽きられた後はその部下へと払い下げられ乾いた土を掘るばかりの辛い農業をさせられていた、とターリアは言った。



「オレ、一番痩せていた。一番小さかった。痩せた女、たくさん子供産めない。だから選ばれなかった」

ターリアはそう言ってぷいっとそっぽを向いた。まるで醜くて選ばれなかった訳ではない、というように。
確かにターリアは夢子が見たことのない民族の血の顔立ちをした娘だったが、十分に美しい、と夢子は思った。一番幼かったターリアはまだ子供の身体をしており、すぐにでも子を産めそうな適齢期の女たちが選ばれていったのだろう。それでもここの飽食にすっかり女性らしい肉付きの身体となっていた。


「皇兄様、宝飾された石よりもオレを見て言った。お前はこの石ころより価値があるだろうと言った。石を支配する者という意味を込めてターリアと名前くれた。だからオレ、親にもらった名前捨てた」

ターリアは皇兄との唯一の会話を誇るようにも、郷愁に焦がれるようにも見える笑みを浮かべた。
その顔を見て、夢子はやっぱりターリアは美しいと思った。







それからしばらくして夢子の身体はすっかり元の通りに治り、食事から薬がなくなった頃、ナムリスの帰還が後宮にも公式な情報として流れた。そして後宮に現れる、ということも。ナムリスの目通りまでに外界から蟲の繭を解いて紡いだ糸で編んだ靴が届くかとしきりに心配していたターリアの靴も無事に間に合い、他の女たちもターリアと同じように蓄えた財産を崩して身を着飾った。まるで一生に一度の婚礼のための衣装を用意するかのように、女たちは切ないほど必死になってその身を着飾った。


無理もない。ナムリスが後宮を訪れるのは、滅多にない事であった。
今度は夢子という事前に決定された娘がいないだけに、女たちの身の入れようも必死であった。
後宮、という名目を持ってはいたが、この後宮の規模は先帝達と比べていくらも小さく簡素なものであった。場所も首都シャワの巨大な王宮の中の伝統ある豪奢な後宮ではなかった。そこは皇帝である弟ミラルパのものであったが、今は無人であった。ひとつの都市のように巨大な王宮の中の忘れ去られた場所に、後宮はあった。百年前は将校たちの寝泊まりする場所であった区画が、今ではナムリスの後宮として誂えられていた。


先帝の頃には二千人いたという女たちも、今ではアバヤの奴隷の女を数えても僅かに三百人程度。
それも帝国を支配する皇帝の後宮ではなく、その兄である男の後宮ということを差し引いてもずっと小さい。うっかりすると地方貴族や小国の王族の方が女たちを囲っていたかもしれないが、それはナムリスの後宮とは成り立つ訳が少し違う。腐海が脅威の速さで広まる中、土地を追われた民族達が流浪の難民となりコミュニティを作り、土地を得よう攻撃を仕掛け、また土地を守ろうと難民を排除する世界。常にどこかしらと小競り合いや戦争状態にある中、権力や富のある男は寡婦となった女やその姉妹、母親、親族を引き取りハレムという共同体を築くことが多かった。庶民の間でハレムとは肉欲ばかりを求めるものではなく、戦争で死んだ男の残された妻や子、母親を救済するための制度である事がほとんどであったが、ナムリスの後宮は単純に、過去の王たちが得ていた一夫多妻の制度を改革されぬまま引き継いだものであった。そうして集められた妻候補の娘たちの人数が少ないのだから、ナムリスの権力に反してライバルとなる娘が少ないはずだったが、それにしてもその主が後宮に訪れないのだから立身のチャンスはない。


いや、女たちは最初から立身など望んではいなかった。望むのはただ、与えられる年金である。
ここで僅かでもお目こぼしを貰わなくては、老いて安穏の後宮を追い出された後の食い扶持がない。
帰る国も家も家族もない無一文の老女がどんな最後を迎えるか、考える必要もなかった。ナムリスの寵愛を一度でも受ければ、その後の年金と住まいとパンが約束される。一夜の性行為があるかないか、が人生を大きく左右するのであるから女たちは生きる執着の為に狂気のようだった。その狂気のために夢子は憎まれたが、夢子が憎むナムリスを象徴する単眼の紋章を身につけていた為手出しができなかった。皮肉の連鎖である。


「皇兄様はその超常のお力を持たぬが故に人よりも多く修行をされている。だから不浄な女には触れないの」
「いいや、憚られる事だが皇兄様は女よりも男がお好きでいらっしゃるのよ」
「勇猛果敢で知られるテグ族の戦士達はその戦力を深める為に男同士でまぐわうという」
「皇兄様は武闘派であらせられるからひ弱な女より戦士を好まれるのだ」
「そうではない。女を寄せ付けないのは皇帝のように神に近い存在だから女の肌を求める欲がないのよ」
「不死なのだから子孫を残す理由がない」

ナムリスが自らの後宮を訪れぬ理由を、女たちはさしあたり好き勝手に言い交していた。
(民衆の指示を得ぬナムリスに対して、女たちは口さがない。宦官も奴隷でありながら後宮の実権を握るアバヤの女たちもナムリスへの不忠を咎めるものはいなかった。皆、どこかでは皇弟派に飼われていたからだ。)


農民の子でも子は多ければ多いほど良い。それが皇兄の血であるなら猶更だった。
支配する地位にある男にとって、子供をなす事は政策と共に重要視されるべき仕事であったが、ナムリスの子供はまだいない。
哀れな貴族の子弟の魂を無理やり引きはがしてそこに魂を植え付ける事を繰り返し、偽りの不死を繰り返すナムリスの肉体は生きた死体であった。突如として強制的に魂を引きはがされ、死を受け入れられぬ亡者が肉体を取り戻そうとナムリスの周りを一種の思念体となってうごめている。人間ではない肉体を、人間のように振る舞って生きるナムリスの肉体。
そこには肉欲もなかったが、それは当たり前の平凡な生を受け、死を迎える女たちの想像できるところにはなかった。


土から離れ、人間の営みから外れて飼い殺される女たちは、子をなして母となるよりも、一夜の性交渉でその後の人生を貴族のように、労働からも飢えからも解放されて生きる事を望むだけであった。






その夜、皇弟に戦勝報告を済ませたナムリスを迎える宴が開かれた。
他の女たちのように財産を崩して衣装を用意することなどしていなかった夢子だったが、アバヤの女たちの手によって単眼を刺繍された露出の一切ない高価で土鬼的なドレスを着せられ、今ではナムリスの隣に無理矢理にも座らされていた。他に寵愛を受けた女がいないのだから、ナムリスの隣に座る女は夢子しかいなかったのである。土鬼では高位の者しかその熟れた稲穂のような黄色を着る事が許されていない事も知らぬ夢子は、ただ趣味の悪い服だと嫌った。


「蛮族の娘もこうして澄ましていればいっぱしの姫君のように見えるじゃないか」


それがナムリスからの最初の言葉だった。
戦勝に気を良くしていたナムリスとしては一等の言葉だったが、夢子は呪いを込めてナムリスを睨みつけ、最初にアバヤの女たちに言い含められていたようにひれ伏すこともせず、立ち上がったままチッチッチと舌を鳴らした。ルドラに伝わる忌を払う習慣である。支配する土俗の習慣を知る筈もないナムリスだったが、仮面から覗く口許にうっすらと笑みを浮かべたまま、何の迷いもなく夢子の顔に重い平手をぶつけ、夢子が食前酒の置かれた祭壇に倒れ込み、祭壇をひっくり返しても、集まった五百人の女たちは声ひとつ上げずにひれ伏し、皇兄派の僧侶達ばかりが僅かに顔を青ざめさせた。皇兄の新たな肉体を生む女を、癇癪に殺してしまいはしないか、と案じたがナムリスはひと笑いをして席に着き、それを合図とするかのように物陰から音もなく影のようなアバヤの女たちが現れて何事もなかったかのように祭壇を作りかえ、頬を腫らしてナムリスを射殺さんばかりの目で睨む夢子を無理やりにその隣に座らせた。


「家畜でも餌を貰えば飼い主を覚える。お前は一体何度その腹を満たしてやれば主を覚えるんだ?」


喉の底で引きつるように笑うナムリスの言葉に夢子の身体は火がついたように熱くなったかと思うと、今度は氷を掛けられたように冷えた。一日五度出される食事のことを思い出した。そしてそれを食った自分の卑しさを恥じた。空腹を満たした食事のたどり着く先はナムリスだった。この男を憎んでいても、その男の手から与えられた物を食って、生きた。それを揶揄されれば羞恥のあまり言葉が出てこなかった。自分が食事の度にしていた浅ましい言い訳や、切ないほど本能的に、無意識に求める「生」を全て見抜かれていた事が恐ろしくもあった。


それから夢子は宴の間中、一滴の酒も、ひとかけらのパンも口にしなかったし、ナムリスも夢子に声を掛けることはしなかった。
まるで夢子など取るに足らぬ奴隷か置物であるかのように、次から次へと訪れる祝いの口上を述べる役人や僧侶や戦士たちの相手をし、肉を喰らうばかりであった。いや、ナムリスにとっては最初から取るに足らぬ者であり、次の肉体のためと僧侶に言い含められて無理矢理に処女を奪っただけの女。機嫌を取ってやったり足蹴にしたりするほどの理由もない、ただフォークやナイフと同じ、さしあたり必要だからそこにある、というだけの無機物と同じだった。夢子にはそれがまた憎くて仕方がなかった。
頭の中で百回想像したナムリスへの惨殺方法も、今では霧のように散ってしまったように心もとなく、今朝見た夢を思い出そうとするかのように断片的で、思考の中で散っていき、どうすることもできなかった。


「おい、お前、もう四歩前へ歩け」

南の部族出身らしい、目の大きく眉の太く美しい娘に向かって、ナムリスがそう声を掛けたとき、その場で踊り、歌い、しなをつくってナムリスに向かって微笑み、全身で媚びを売っていた女たちに緊張が走った。声を掛けられた娘は、赤面するよりもむしろ青ざめるような顔色をして、踊りを止め、言われた通りに四歩進んだ。


クルー族の娘がその奇妙に独特の抑揚のついた、しかし美しい声で古い土鬼の神を湛える詩を歌っている声が続いている。
女たちは嫉妬を隠そうともせず娘をねめつけ、肌は自分の方が白く美しいと自らの自尊心を慰め、夢子が羽を広げた蝶を作るように華美に編み込んだ娘の髪がどうなっているのだろうか、と内心で感嘆した時、娘がスリットの入ったスカートに手を入れて何かを投げるよりも早く、娘の足元がぱっくりと口を開いて悲鳴ひとつ残して奈落へと落ち、パシャリと水袋が破裂するような音を立てて娘の悲鳴が止み、娘の投げた物がナムリスに向かって飛ぶのをそうはさせまいとするかのように腹に抱きかかえるようにして僧侶が飛込み、女たちの群れに転がり込んで女たちを伴って爆発した。


―――あとは恐慌であった。



凄まじい悲鳴を上げて、気絶した他の女を踏みつけ押しのけ、女たちが門外へ出ようとタガが外れた洪水のように狂気し、閉ざされた後宮の門に向かって押し寄せその鉄の扉を悲鳴にもならぬ獣のような声を上げながら爪がはがれるのもかまわず扉を引っ掻き回した頃、夢子は一歩動くことも、声を上げることもできずにただ僧侶が爆発した跡から目が離せなかった。腕を飛ばされ口の隅に血の泡を吹いて悶える女がいる。女の真っ白な足が落ちている。壁一面に冗談のように赤い血しぶきがぶちまけられ、血の霧となったかのように硝煙に交じって赤黒く漂った。だが土鬼帝国千年の技術を用いて作られた壁にはヒビひとつなく、焦げた布きれのようなものがへばりついている。女たちの衣装と皮と毛髪だった。
夢子も、ナムリスも、血煙で真っ赤だった。


「声ひとつ上げぬ、か。なかなか豪胆じゃないか」


血に濡れ、視界を奪われた単眼の面を脱いだナムリスが心底愉快そうににたにたと笑って身動きひとつできない夢子を直視した。
面をつけていた肌と血を浴びた肌が顔を真横に切ったようにさっぱりと色が分かれ、なにかおぞましい化粧をしているかのようで、薄暗い寝所で見た顔よりも、ずっと幼いような気もしたし、ずっと年寄な気もする奇妙な顔だった。少年の皮についた老獪な瞳。今に何か恐ろしい事を吐き出そうとムズムズするかのように、ニタニタと笑みを浮かべる薄い唇とは裏腹に、冷酷な光を帯びた三白眼が愉悦に歪んだ。


「狂ってる」
「だから皇兄をしている」


人は本当の恐怖に直面した時、震えることすらできないのだと夢子は悟った。
一歩も動けず、気絶すらできずに鉄のように硬直した夢子の唇にナムリスが短く唇を合わせた。