06




ツンとした匂いのする青々とした薬草や、赤く、爪の先ほどの小さな果実がたくさん浮いた風呂へと入れられた。
すると身体の芯、骨からじんわりと暖かく熱を帯び、気に入らないことや俗世の全てを溶かすようだった。
ここでの暮らしは何かも気にくわぬことばかりだったが、たったひとつだけ好ましい出会いがあるとすれば風呂だった。資源が貴重な山ではこんなに多くの水を沸かすほどの薪はなく、湯あみの習慣のなかった夢子だったが、硬直しきった肌を暖かい湯がほぐす心地よさには思わず目を細めた。アバヤの女たちが、血がこびり付いた夢子の髪を、どこか春の果実を思わせるような甘い匂いのする油で洗い清める間、夢子はずっと目を閉じて大人しくされるがままになりながら、さきほどの惨劇を思い出していた。


―――――あの男を殺そうとする人間が、他にもいる。


ターリアはナムリスを「名目上は土鬼帝国で二番目の地位にいる」とも言っていた。
あの男がこの国を治めているわけじゃないことは分かった。何かしらのしがらみを受けてあの男の命を狙っている者がいる。
その者に知恵を借りられないか、と名案めいたものを思い浮かべたが、それはすぐに掻き消えた。まだ肌に血の臭いがこびりついている。月のものが来た時のようでもあるし、夏至の日に家畜の頸動脈を切り開いて血抜きをしたときのようでもある。人間の血を浴びたことはなかった。(狩りは女も手伝ったが、人買いをクレパスや罠に追い込んで殺すことは男の仕事だった。昔、村の女がその仕事に加わって、凌辱された歴史があるからだ)でも、家畜のものよりずっと生臭くて気味が悪い。壁にこびり付いた皮膚を思い出して、身体が内臓から凍っていく。



ナムリスを殺すために動いている人間がいたとしても、あいつを殺すことができないからあいつが生きている。



あの時なぜナムリスは、あの娘が暗殺者だと気がついたんだろう。
他の娘と、あの娘と、わたしの一体なにが違っているというのか。
もし、ナムリスの機嫌を損ねる事があれば、わたしもあの奈落へ落ちるのだろうか。
問うてみたい気もしたが、あの男の前に出ると喉に声が泥のようにへばりついてやけに涎ばかりが出る。
与えられた暴力と、あの陰惨な光景に眉ひとつ動かさずにいられる男の性根が恐ろしくて堪らない。



なぜだか分からないが、あの男からは人間ではないものの臭いがする。



湯あみを終え、女たちが夢子の身体をどこもかしこもピカピカに磨き上げ、貴重な花の蜜から作った香油を肌に塗り込み、目尻に閨の火を奪う魔を払う朱を塗り、唇には清浄な川底に住む貝を干して色を取った赤い紅を塗った。肌が透けるような、まるで空に浮かぶ雲を解いて作ったように軽く、白く美しい絹のドレス。一見して素晴らしい物だと夢子にも分かったが、その胸に金糸で単眼が縫い込まれていることが気味が悪かった。皇兄の床へ上がる娘の正装であったが、乱暴な初夜しか知らぬ夢子にその意味は分からなかったが、この恰好がナムリスに会うためのものであると察した。村の娘の婚礼の日でも、こんな贅沢な恰好はできなかった。



村にはひとつ、婚礼の衣装があった。
駄獣の毛を紡いでできたその衣装は、このナムリスの為のドレスのように白くはない。色とりどりの毛糸で編まれている。それを何人もの娘が使いまわすため、解れや虫食いや汚れた部分の糸をほどき、また新しい貴重な糸で縫い込む。婚礼のための衣装を手直しすることが花嫁となる娘の最初の仕事である。そのため年々柄が変わっていく。だがそれぞれの糸の色にそれぞれの娘の物語があった。夢子は姉貴分の赤毛の娘が、膝に隣のテントの赤子を載せて、竈の前で火の番をしながら嬉しそうに糸をほどいていくのを見つめていた。姉貴分の娘は「おまえが嫁ぐ時、きっと私が染めた糸をあげるよ。夏にしよう。春ならば山の獣の上等な毛皮が取れるからね。そうしたらひと季節で糸を紡いであげる。だから夏に嫁ぎなさい。夏ならご馳走も作れるから」と歌うように笑っていた。


でも、あの衣装を着ることはできなかった。


婚礼の祝いを控えて、普段なら山の見張りに出かける男たちも、家畜にわずかな餌を与える為に山を方々歩き回る牛飼いも、一族みんなが集まっていた、その夜、村は襲われた。ルドラの民が使う銃器よりもよっぽど進化した銃器を構えた男たちが闇の中から襲い掛かった。
あの婚礼の衣装は、どうなったのだろう。



雪が多く、村に放たれた火は燃え広がらなかった。
もしかしたら、まだあの氷土の中で凍っているのかもしれない。
山に入り込んで凍死した下界の人間の死体をよく見た。下界の人間の艶やかな服をまとった死体がいつまでも腐ることもなくその場に転がり、いつしか目印になっていた。冬が近づくと夢子達は下界のダルリスタン族特有の形をした瘴気マスクをつけた青い駄獣の毛皮をまとった男の死体を目印に山を移動した。それはそういうものであった。弔おうというものではなく、当たり前の風景の一部だった。燃え落ちることもなく、荒らされ、略奪された村も、婚礼衣装も、そのままあの氷土の中で永遠の時間凍り続けるのだろうか。弔うこともされないまま。あのダルリスタン族の男の亡骸も、弔ってやれば良かった。


土に還ることが死ぬということ。弔うということ。


それが夢子の民族、標高の高い氷の山で生きるルドラでの宗教観であった。
一年のそのほとんどを氷で覆われている山では、遭難しては土に還ることができない。氷を割って、土に還ることができるのは、愛され、慈しまれた死を迎えた者の特権であり最高の弔いであった。
氷土の上で野ざらしにされた死体。土に還ることのできぬまま、永遠の時間を凍り続けるルドラの亡者たちのことを思った。




「今日は話でもしようや」


寝所の大きなクッションに腰を沈めて、ナムリスは乱暴にブーツを脱いだ。
まるで山で獣と対峙したときのように、張り詰めた息を殺して一定の距離を取る夢子にナムリスは笑いかけた。
宴の席のような派手な戦士の装束を解いたナムリスは、腐海に生きる美しく珍しい、旧世界の孔雀のような柄をした大きな鳥の羽を縫い込めた豪奢な衣をローブのようにして着こんでいた。ズボンははいていたが、ローブの下は裸であり、その若い男の肉体が夢子を身構えさせた。だが、どこか、青ざめている。妙な肌のハリをしていた。夏の山、氷土が溶けて、土が露出し、苔が蒸す季節、村の男たちがほとんど裸体で太陽の神を祀った踊りを一晩も二晩も踊り狂った。あの若者たちの、若木のようにしなやかで張り詰めた肌ではない。ナムリスの肌の、この、違和感はなんだろうか。引き締まった肌はその身体にふさわしい筋肉をつけ、腹筋には若者らしい腹筋が見えている。だが、どこか、奇妙にぼやけている。若者の肉体が持っている筈の楽しさや喜び、逞しさがまるで感じられない、その青ざめたナムリスの腹を見下ろしながら得体の知れないものに眉を寄せた。



この男の肉体は、何か、とても、変だ。



ナムリスが指をふっと虚空に向けて動かすと、寝所の柱の陰から僧侶がすっと影のように現れ、酒を置いて、また闇へと戻った。腐海のセラミック化した巨木の化石を切り出して、土鬼の神々の物語が掘られている。僧侶の得体の知れぬ面を付けた老躯は、まるで柱に掘られた太古の神の下僕のようだ。


その僧衣の面をつけた男が、ナムリスの高価な透明のカップに水のようなものを注いだ。
カップは腐海より王蟲の抜け殻を切り取ったセラミックを加工したゴブレットであった。ゴブレットに注がれた水のようなものに、ナムリスが手ずから傍らに置かれた水差しの水を灌ぐと、透明だった液体がぱっと白く濁った。旧世界の頃よりこの地方で飲まれているラク(獅子の乳)と呼ばれる酒だった。もはやこの世界に「獅子」など存在しないというのに、「獅子」や「馬」が「竜」や「麒麟」と等しく伝説や空想上の生き物として生きていた。もしかしたら太古の頃には「竜」や「麒麟」が存在していたのかもしれない。
それもすべて化石となった。


夢子はナムリスと一定の距離を取って、腰を下ろした。
闇から面をつけた僧侶が現れ、夢子の肩に毛織のケープを被せた。それは、もう今夜は夜伽がないことを意味していたが、そんな閨での暗黙の了解の分からぬ夢子は、僧侶の指の、まるで百年よりも沢山の日々を生きたような、ミイラのような指にただただ息を呑んだ。ナムリスと同じ、何か薬品のような臭いが僧侶の指から臭った。まるで、この薬品の臭いをかき消すように炊かれている香だと夢子は思った。


「あの女は、アラリス族の貴族の娘だ」
「アラリス族?」
「狩猟をしてきた、古い一族だ。愚かな娘め。宴の席に一族族の弔いの装束をしてきやがった」

ナムリスは喉で笑い、なにかの錠剤のようなものを数粒放り込んでラクを煽った。
アラリス族…と口の中で呟きながら、夢子はあの娘の複雑に結い上げられた髪の美しさを思い出した。
あの娘は、自分よりもよっぽど強い気持ちでこの男を殺そうとした。それほどまでに掻き立てられたものは何だったのだろうか。この男にただよう「闇」の気配は、自分やあの娘、そしてそれらにまつわる多くの亡者たちの恨みを得て淀んでいるのだろうか。だからこの男の身体からは、何か奇妙に歪んだ、自然のことではないようなものを感じるんだろうか。



「一体どれだけの仇がその身体に纏わりついているの」
「仇?それは違う。お前にしてもそうだ。お前は俺を恨んでいるだろうが、それはお門違いも甚だしい。お前は辺境の山育ちだったな。だから世間を知らん。この帝国は、お前と、お前の一族が信じてきた社会よりもよっぽど複雑で高度でくだらん。それを知らぬお前は、無邪気な憎悪を持て余し、それをぶつける先すら見誤っている、愚かな娘だ」


自然とついて出てきた夢子の言葉に、ナムリスは片頬を持ち上げて笑ったが、その笑い方は今までのニヤニヤとした悪意の籠った悪い冗談のような笑い方ではなく、まるで自らを自嘲するような皮肉のような笑みで、夢子は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。まるで夢子よりもナムリス自身に対しての言葉のようだった。


「ちょうどいい。下界に用がある。我が弟の偉大な帝国でも見てくるがいい」