07

完全回復した夢子の食事は一日三食となり、食事の内容も病人食とは変わった。
基本的にひとりで食べていたが、時々はターリアが顔を出して一緒に同じものを食べた。
夢子が生まれて初めて口にする柔らかなパンには、麦がたっぷりと使われていると一口で分かった。


夢子たちが山で食べていたものは、一族の男たちが山で仕留めた獣の干し肉や、毛皮や、角や、蟲の住処より狩り出した抜け殻や卵の欠片などを元に下界で僅かに取引をして得た小麦を、キレイな雪を溶かして沸かした水で溶いて、平たい石の上で薄く延ばし、熱い壺の内面に薄く張り付けて焼いた硬いナンだったが、後宮で出されたパンは、白くふわふわと膨らみ、惜しみなく小麦も塩もバターも使って作られていた。そして熱い野菜と肉のスープ。ダル(カレー味の豆のスープ)、ビラニ(焼き飯)、バット(白飯)、ピター(蒸しパン)、マトンなど、旧世界の南亜細亜で食べられていた食文化が根強く残っていた。

夢子にとっては、まるで夏至の祭りの夜にだけ食べられるご馳走ばかりが並び、こんなものを毎日三食規則正しく与えられたのなら、ターリアの言う「幸せ」が分からないでもないような気持ちになった。




ターリアは、土と離れ、貧しさや飢えや労働を忘れたこの鳥籠の社会を、幸せだ、と言った。



夢子は男ではないから、生まれてから山を下りたことはなかった。
移動民族だった夢子たちでは、農耕をして得られる小麦や米や野菜を手に入れることはできず、村の中から選ばれた男たちが山で得たものを手に下界へ降りて物々交換をしていた。まれに男たちは戻ってこなかった。蒸発したか、人買いに狩られたか、何かの争いに巻き込まれたかは分からなかった。しかし、女たちは帰ってきた男たちから聞く下界の様子を楽しみにしたし、夢子も他の娘と同じように、重く暗い瘴気に覆われた雲の下では一体どんな生活があるのだろうか、一度見てみたい、と夢想したけれど、それは幸福だったから見る事のできた夢だった。



腹が満たされることは、幸福だ。
でも、常に苛立ちと不安と悲しみが体の中で飲み込んだ石のようにずっしりと重く冷たく沈み込んでいることは、幸福ではない。



突如として何の別れの言葉もできぬまま略奪されたのではなく、ターリアのように家族に売られてきたのなら、ここの生活を納得できるんだろうか。いや、ターリアにだって、ターリアの悲しみがあるのだろう。一族を殺戮されることも、愛した家族に売られることも、どちらも比べて推し量ることのできるものではない。ここの女たちは、みな、幸福も不幸も受け止めているのだ。





「宮殿の外へ出して、わたしが逃げ出したらどうする?」


ラク(中東の酒)を煽るナムリスに尋ねたら、ナムリスは声を上げて笑った。
「まるでお前が俺の宝物のような言い方をする。確かにお前は美しい娘だろうが、俺の宝物ではない。だがさしあたり、お前は俺の子を産むに必要な身体だからそれは困る」
「あなたの子を産むのはわたしでなくても良いはず。ここにはあなたのために集められた娘が山ほどいる。あなたに気に入られたくて、大切な財産を崩して着飾ってあなたに与えられた名前を本当の宝物のようにしている娘がいる。その娘なら喜んであなたに仕える。わたしはあなたの“必要”ではない」
「その娘は、お前ほどに汚染されぬ肉体を持っているか?地上の女は、血に毒が含まれている」
「毒?」
「貴族でも農民でも、所詮は地を歩き、腐海の瘴気を含んだ風を肌に浴びて育った娘だ。この世に残された清浄の地、無菌のルドラを生きた娘ではない。俺が欲しいのは完全に健常であり毒を含まぬ肉体だ」


夢子には、ナムリスの言葉の本当の意味を理解することができなかった。
ナムリスが必要としているのは、「息子」ではない。「自分の肉体」だ。
その肉体に寿命が訪れると、今まではナムリスに気に入られようと差し出された貴族の息子の肉体に魂を移植していた。だが生命を無理やり引きはがされた肉体は脆く、いくら土鬼の奇跡の技の結晶である薬液や薬を常用しても、肉体が腐り始める。それは肉体に潜在的に含まれる「毒」のせいだと研究者たちは考えていた。



ナムリスが百年生きる為に、夢子の一族は滅びた。



だがナムリスの肉体の秘密を知らぬ夢子には、ナムリスの言葉の意味が理解できなかった。
夢子はナムリスが単純に王位を継ぐ「息子」を欲しているのだろうとしか考えられなかったし、語学力の問題もあった。



ターリアのように、土鬼とトルメキアの言葉が入り混じった言葉が母国語ではなく、一応は土鬼帝国領地にあって、土鬼の言葉を話すが、それでも帝国の端、辺境地にあるちいさな民族の生まれである夢子は、ナムリスの話す完璧な土鬼帝国の公用語を聞き捕え、自分の意見を言うことは大変なことであった。


本当はもっとぶつけてやりたい、炎のような憎しみの言葉を腹の底に抱いていたが、それを吐き出そうとすると煙のようにもどかしいものになる。ナムリスも、その辺の事情を理解して同情をして、「皇兄」に対して「対等」であるかのような言葉になる夢子に寛容になっているわけではなかった。ただ、自分に対してある意味で「素直」である夢子の言葉がナムリスにとっては「新鮮な快感」に感じられるので、そのままにしているところだった。トルメキアの王などは道化の小男を飼って、その媚びにまみれていない、生身の毒や批判を孕んだ言葉をぶつけられる事を楽しんでいる。その程度のことであり、夢子が行き過ぎた言動をするようであればナムリスは迷わず殺しただろう。夢子にも本能的にそれが分かっていた。
この男との距離感の中で、超えてはいけない一線があることに気が付いていたから、いつも慎重に言葉を選んだ。


殺してやりたい。
けれど、怖い。一歩を踏み込むことができない。




「ターリア、といったか」


はっと顔を上げると、ナムリスが肉の薄い酷薄な唇で笑みを浮かべた。
その一言がどういう意味を持って居るのか、敏い夢子は理解した。








後宮の女たちは一生を後宮で過ごすわけではなかった。


後宮に収められてから五年が過ぎた女は、申告さえすれば外界に出る事が可能だった。
旧世界の皇帝たちの後宮ほど、ナムリスが女たちに依存しているわけではなかったので、後宮に収められているといっても全くが駕籠の鳥というわけでもなかった。女たちは所用あらば外界に出ることは可能だった。
後宮に収められた女たちのうち半分は貴族階級の娘であり、その娘ならば一族の行事があれば手続きさえ踏めば帰宅することもあったし、残りの半分である帰る故郷や身内のない庶民の娘であっても、これまた手続きさえ踏めば市井に出ることは可能だった。ターリアなどはそういった外出制度を利用し、市井の商人との間で話をつけては、自らを飾る衣装を手に入れていた。



女たちが外界に出る理由のひとつには、医者の問題もあった。
後宮内に女たちの為の医療施設はなく、皇弟ミラルパ派の医者がいたとしてもそれらは皆、皇弟の超常の力を助ける為に墓所より這い出てきた亡者であったし、多少の医学の心得がある者も多くが女体を禁じた僧侶であった。土鬼という宗教国家の帝国を支える支配階級が僧侶であることからも、宮殿を行き来するものは僧侶ばかりであった。ただの女が医者を必要とする場合、貴族階級の娘は親からの支援などで医者を後宮に招くことができたが、庶民の娘は後宮の外に出て、自ら医者へ行くほかない。医者にかかれぬまま衰弱すれば、アバヤの奴隷女たちの手によって川へ投げ込まれるだけだった。


女を必要としない皇帝の世にあっては、女を閉じ込めておくための施設や制度を充実させるより、女自身でその不足を補わせることが常であった。こういった虐げられた女にとっては不便な理由から、しかし後宮に生きる女が外界に出ることは容易く、重要な娯楽と気晴らしになっていた。



皇兄ナムリスは、女たちの姦通には寛容だったが、出奔することに関しては冷酷だった。
夢子にはまだ入れられてなかったが、五年を後宮で過ごした娘は正式に「皇兄の財産」となった証として、土鬼特有の抽象的に簡略化された植物が細い蔦状となった刺青が手首を一周するようにぐるりと入れられる。
「皇兄の財産」となることは娘たちに僅かな褒美が与えられ、後宮内での階級がひとつ繰り上がり、外出の自由や式典での座席がひとつ上座になる事や一人部屋などの特権が与えられるため、後宮に入った娘たちが待ち焦がれるものであった。
出奔した女たちはこの手首の入れ墨を目印に僧兵らが血眼で探し出し、その後は死よりも深い闇へと葬られた。


安息な死とは程遠い、残酷な生の話は隠されることなく後宮中に伝わり、宦官を出し抜こうという娘などなかった。



「お前はあまりに無知だ。まことの見識こそが、俺への畏敬の念に変わるだろう」