09


「あ…太陽が…」


ひとつの都市ほどの規模を誇る宮殿内を、夢子と女官は輿に乗って外界へと移動した。
それは女の足では外界に出るまでに移動する距離が長すぎることもあったが、夢子のような身分の低い人間に宮殿の深部を見せぬ為でもあり、また帝国の幹部層の大部分を占める僧侶たちに女人を見せぬためでもあった。


そうして外に出た夢子の目に、まっさきに飛び込んだものは、黄色い太陽だった。
黄色く、いやに大きく膨張して見える太陽。それはこの聖都シュワにたちこめる土埃や、わずかに汚染物質を含んだガスが太陽の光を鈍らせ、ガスの物質の中で光が屈折し合って膨張して見えるせいだった。空気の澄んだ高山地帯では太陽は白く、強烈な光を帯びた小さな球体だったが、この街で見る太陽の、どこか不吉な色に夢子は眉を寄せた。それは、異常な自然現象に怯える本能でもあり、直感的に悟ったこの街の異質さのせいでもあった。


宮殿の門前で立ち尽くした夢子は、また押し込められるようにして、黒い羽毛の豊かなトリウマの引く外界用の車に乗せられた。
車は皇兄のものを示す単眼はもちろんなく、庶民の中流よりも少し良い生活をする程度の者が所有する車の外装となっていたが、それはナムリスへの反感を抱く民衆に備えてのものであった。しかしそんなことを知らぬ夢子にとっては初めて乗る車であったし、まるでおとぎ話に聞く神の乗る馬のようだとさえ感じられた。宮殿の豪奢さに慣れた女官はただ内心で、馬鹿にされている、と感じるほど粗末な車であったのに。


窓の外につい目がいく夢子だったが、女官の仕事はただ夢子の後ろをくっついていくわけではなかった。
寺の中での作法を教えるための教育係でもあったが、女官は夢子を(未開拓の文明から来た蛮人)と思っていた。女官は四十路を超えた程度の年齢であったが、誕生日を数える習慣のない庶民の生まれであったため自分自身でも年齢を知らなかった。この世間では年齢を知らぬ者も多かった。ともかく幼女の頃に奴隷身分として宮中に売られていったが、宮中での勤めも一目置かれるほど長くなり、貴族階級で後宮に入ってきた若い娘などよりもよっぽど宮殿内での権力と影響力を持ち、贅沢に暮らす女官の一人だった。後宮には出生の身分よりも、実際に動かせる権力がものを言う場所であり、この女官に頭の下がらぬ僧侶は多い。



「僧会は女人を禁止しています。お寺へ着いたら誰にも見られぬように衝立(ついたて)の向こうへ座ります。祝辞を述べるために僧正さまの元へ出向く時は、四方を布で覆った箱のようなものの中を歩き、ご挨拶を述べるのです。ご挨拶は『土と水と火のもとに』と述べた後、一度ひざまずき、天へと両手を突き上げたのち、右ひざをついて顔を右へと向け、また立ち上がり今度は左へと…」



この女官の夢子への印象といえば、祝宴の席で先々代より続く側室の参拝をしない無礼で野蛮な娘ということであり、一応形程度に僧侶への礼儀としきたりの作法を教えるつもりだったが、蛮人の娘にはとてもではないが僧会での高度で上品な作法は覚えられぬと思っていたため、はなっから教える気などはなく、早口で一気に複雑なルールをまくし立てた。
夢子の方ではナムリスに対しての深い憎しみを抱いていたとしても、全く関係のない僧侶の祝いの場にまで無礼をする気などなかった。読み書きのできない夢子はメモも取れず、慌てて女官にもう一度最初から教えてくれるように頼もうとしたが、もう遅かった。車は寺の裏門へと到着してしまった。



「これより先、女人は沈黙を守るのです」



そう言ったっきり女官は黙り込んだ。
車の扉を開けて、寺の小男がひとり扉の前で跪いたのを、夢子は(なんでこんな場所にしゃがみ込んだんだろう…)と困惑しながら飛び越えたが、女官は何食わぬ顔で小男の背中をブーツで踏み締めて車を降りた。小男の方でもさして屈辱的というわけでもないけろっとした顔をして、一行を寺の中へと案内するように指を差した。少数民族の出であり、村の人間は全て顔見知りであり何かしらの血縁を持つ一族に育ち、たとえそれが老いた者でも病を持った者でも同朋として手厚く敬っていた夢子にとっては、女官と小男の様子はまったく想像だにしないことだった。


困惑した夢子が見上げた寺は、宮殿ほどの規模ではなかったが、石を切り出して建てられた壁には、土鬼の神々がモチーフとなったレリーフが掘られていた。旧世界のオリエントで見られたイスラム的な用法である。空を見上げると天に突き刺さるようにミナレット(塔)がいくつも伸び、どこか遠くから土鬼の神を敬う経が音楽のように低く聞こえている。夢子の鼻には強すぎるほどの香の臭いに頭がくらくらしそうになるのを我慢しながら、沈黙を守ったまま夢子が歩き始めるのを待っていた一行について石畳を歩きだした。


寺の裏口から入るのは、女人とその付き人ばかりであった。
女たちはそれぞれが信者であったり、聖職を助ける女であったり、貴族であったり、夢子のように主人の使いで来ている女だったりと理由は様々であったが、女ばかりを待たせる信者の部屋に通された夢子は、後宮の女たちとはまた違う女たちの装束や様子に大きな目をきょろきょろと動かしながら辺りを伺った。
そして、正面の壁を見上げたとき、「あっ」と声を洩らしてしまった。



モザイク画となったタイル張りの壁には、ナムリスの単眼が描かれていた。



単眼には金箔が貼られ、部屋に差し込む光を受けてギラギラと反射して光り、まるでナムリスの目そのもののように見えた。それが絵だと分かっても、あの男に監視され、支配されているような薄気味悪さに夢子は単眼を睨み上げた。巨大な単眼のタイルは、簡素な部屋の中で一番目立ち、高価な装飾であり、部屋のどこにいても見下されているような圧迫感を与え、夢子は忌々しさに舌を鳴らした。


―――あなたはここの女の人までも支配する者だというの。まるで神にでもなったようにどこまでも傲慢な男。



だがナムリスへの怒りは、女官の手によって遮られた。
女官は夢子の口を塞いで近くの石に座らせると、唇だけで「だまれ」と言った。目は怒りと羞恥に震えている。プライドの高い女官は、貴族の女たちもいる場で「沈黙を守る」という最低限の決まりすら守れぬ、程度の低い主に使えていると周囲の女に思われることが堪らなかった。その女官の目に気圧され、夢子は謝罪するように目礼をし、他の女に習って目を閉じて沈黙した。
そうすると室内には沢山の女たちの気配がするというのに、奇妙なほど静かで、遠くから聞こえる経を読む声や祝いの楽器の音が百年も遠い場所から嘘の記憶のように細く聞こえていた。女たちは、一人、またひとり、若い僧により名前を呼ばれて部屋を出て行ったっきり、戻ってはこなかった。


(ここの挨拶をどうするのか分からない…)


どうしようか、と隣に座る女官を見ても、彼女は形の良い鼻を誇るようにツンと剥けたまま目を閉じて沈黙している。交易をしに村へと行く男ではないため、外界との交流がなく、他民族との挨拶を夢子は知らなかった。また知っていたとしても、地方の少数民族間のやりとりと僧侶に対する女の挨拶は違ったのだけれど。
夢子の心には不安が溢れ始めた。
たとえ違う神に仕える者であっても、侮辱するつもりなどは毛頭ない。ここでの礼儀があるのならばその礼儀に則りたいと思っているが、さきほどの女官の早口な言葉では理解できなかった。しかしこの部屋で喋るわけにもいかない。夢子はスカートの裾を握りしめてそわそわと落ち着かなかった。


「使者夢子」


はっと顔を上げると、女官がすくっと立ち上がり頷いた。
目で先を促す女官に追い立てられるように名前を呼んだ若い僧侶の前まで歩いていくと、そこではL字型の棒に白い絹織のカーテンを付けた衝立(ついたて)を担いだ少年の僧が二人立ち、カーテンの中へと入るように促した。恐る恐る中へと入ると、ふたつのL字型のカーテンが組み合わさり、上下の開いた個室のようになった。女官は入って来なかった。夢子一人が畳一畳ほどの布の個室に閉じ込められ、女官は何も言わずにまた控えの間へと帰った。絹織のカーテンは透けているため、外の気配を伺うことも歩くことも簡単ではあったが、一人になった事で夢子の緊張は増した。


「テテミ参る」


声変わりもしていない少年の号令で、一行はゆっくり歩き始め、夢子は個室が移動するに合わせてゆっくり、ゆっくり一歩ずつ歩いた。ここでは古からのしきたりが社会の基盤を作っており、僧侶となるべく修行の身である少年たちにも何故このような号令をするのかは分からなかった。分からなかったがここでは「理由」などもはや無いに等しいものばかりだった。「そういうもの」と言われれば「そういうもの」であった。



やがて大きな鉄製の扉の前へとやってきた。
僧兵らの勇ましい音楽が鳴り響き、香の匂いと、僧侶のための食べ物のスパイシーな匂いが強くなり、夢子の緊張と恐れはピークであった。「開門、開聞」とまた少年らが声を上げ、控えていた僧侶らが重い鉄扉を観音開きに開けると、音楽と匂いがより強くなり、個室の動くままに一歩中へ入ると、薄い絹の向こうで坐する老人が見えた。