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あ、…ここ、気持ち悪い。


夢子は一歩を踏むことができなかった。カーテンが背に当たり、一行が足を止めた。
夢子の御簾に大きな堂いっぱいにあつまった僧侶らの目が突き刺さった。頭の中は真っ白だった。胃の中から何かが込み上げてくるような感覚に思わず両手で口を押えた。何かが腹の中をいじくりまわしているような気がした。それは、緊張のせいではなかった。夢子の中を、念話のできる僧侶らが覗いていたのだ。



夢子は皇兄からの使者。


今日の宴で最も重要な来賓のひとりだったが、現れたのは皇兄が宮殿で飼っている地位ある僧侶や長老らではなく、ただの人間の小娘。この小娘が一体海のものなのか、山のものなのかを確かめるため、僧侶らは夢子の深層に潜り込み、夢子の本質を探った。ナムリスであれば僧侶に心を読ませぬために、心に封をすることなど容易かったが、念話の存在すら知らぬ夢子の水のように透明で無防備な心の中に、僧侶らは意図もたやすく潜り込んだ。


―――そして夢子の底に渦巻く恐ろしい記憶に触れた。虐殺の記憶。


その記憶に触れられた事は分からなかったが、夢子は嫌な場所を探られた、と直感的に恐れを覚えた。
文字通り腹の中を探られるおぞましさと、嗅ぎ慣れぬ香、極彩色の装飾、鳴りやまぬ僧兵らの演舞、スパイスの突き刺す匂い、突き刺さる僧侶らの視線。それらすべてを一心に受けて、口を押えたままぎゅっと目を閉じた夢子の額に脂汗が浮かんだ。じくじくと膿んで腐り、血を流し続け、何重にも巻いた布で隠しておいたそれを、僧侶らの置いた手が一枚一枚布を剥いぎ、腐臭を放つそれを露出させていく。夢子はますます身を固くし、口元まで込み上げる酸い胃液をぎゅぅと飲み込んで息を止めた。汗が止まらなかった。



『恐れなくていい』



はっと顔を上げると、5メルテ(1m=1メルテ)ほど先に坐する老人と面布越しに目が合ったような気がした。
息を呑んで、自分を取り囲む絹ごしに老人を見つめると、その人が穏やかに微笑んだような気がし、また頭の中に声が響いた。


『彼らの無礼を許しておくれ』


念話だった。
老人の声が頭の中に伝わった瞬間、それまで身体中を覆っていた邪なものがぱっと散り、まるで冷たく、清潔な空気の泡の中に閉じ込められたかのように、「恐怖」が膜の向こうへと遠ざかった。たしかにそこにあるのに、意識の中から消えていった。さっぱりとしたすがすがしい山の空気を胸いっぱいに吸い込んだような爽やかなものが自分を取り囲んでいた。そして、突如聞こえた声を、「怖い」とは思わなかった。胸の中にじわじわと熱いものが込み上げて、奇妙に鼓動は落ち着き払い、夢子はぱっと胸を張り、誇り高いルドラの矜持を見せるように一歩歩きだした。


「土と水と火のもとに」


上座に座する僧侶らの前で、夢子自身も気がつかぬほど完璧な土鬼の公用語の発音で挨拶を述べ、高位の僧侶に女人が挨拶をするための参拝の型をとった。天に両手をつき出し、一度ひれ伏した後、右ひざをつき、顔を右へとやってから再度立ち上がり、また天に両手をつきだしてひれ伏し、左ひざをついて顔をそむけ、再度立ち上がり今度は両膝を屈して上半身でひれ伏し、僧侶から「テーヴィー(女神)」と呼びかけがあるのを待った。これは古代インドのヨーガや五体投地が形を変えて息づいているものだった。
土鬼においてこれらの型は性別や妊婦、初経前の娘などで型が変わった。


ここでの夢子の型は「未婚の娘」の型であった。




夢子はナムリスからの使者。


決して性的搾取者でもなければ、ナムリスの妻でもない。
夢子の複雑な立ち位置から僧侶らは夢子を「ナムリスからの使者」という、ただ一点に置き、法律に乗っ取り「未婚」としたのだ。これは人民を愛することを建前としている僧会において、夢子の身の上に降りかかった恐ろしい不幸を肯定し、ナムリス派の僧兵の行為を認めぬという意思表示でもあった。僧会は虐殺も性的搾取も認めてはいない。同じナムリス派であっても、宮殿内でナムリスにもっとも近い場所にいる僧侶らと、こうして外界で民衆に門徒を開いている僧侶らではその意思に隔たりがあった。夢子に「未婚の娘」の型を取らせたことはすぐにナムリスの耳に届くだろうが、それは僧侶からの戒めである。


ナムリスも狡猾であったが、僧侶らも老獪であった。


しかしこの型にそれほどの思惑があるなどは知らぬ夢子は、静かな水面に一滴、一滴、雫が零れ落ちるように静かに伝わる僧侶からの言葉に従い、落ち着き払って作法にのっとった完璧な型を取った。



『ルドラ…困難な土地で生きる気高い古の一族だ』


土下座の姿勢から顔を上げた夢子の中に、僧侶の言葉が響いた。
さきほどから夢子に語り掛けていた僧侶は、今日の宴の主役であり、この寺で最高位の僧侶、アルシャッドの声であった。アルシャッドは、幼児の頃に寺の小間使いとして売られ、僧侶らの中で下働きをするうちに経文を覚え、掃除の合間に耳にする僧侶らの押し問答を耳にしながら悟りを得、その聡明さから正式に門徒として受け入れられるとたちまち頭角を現し、いつしか念話の力すら持つようになった者だった。そのことから「アルシャッド」、「最も正しく導かれた者」という名をナムリスより与えられ僧正(高位の僧侶)の地位を得た者だった。


そのアルシャッドが、夢子の心の中を覗き込んだ。
それは、さきほどの下位の僧侶らがしたような強引で魍魎めいたものではなかった。
しかし、アルシャッドの目は彼らよりもよっぽど深く夢子の持つ夢子の「真理」に触れ、夢子は息を呑んで目を見開いた。




夢子とアルシャッドの精神が、ルドラの空に浮かんだ。




真っ白だった。

冬の訪れが近いルドラは、氷となった雪に覆われ、天から降り注ぐ太陽光が反射し、どこもかしこも真っ白に強烈な光を帯びていた。
氷点下十度になろうかという日だったが、風のない山ではじんわりと暖かいほどで、露出した顔周りの肌ばかりが毛穴もきゅっと閉じたように硬質で冷たい空気に緊張していた。心地よい緊張だった。村一番の銃の使い手であるヤーラーが仕留めた、旧世界の鹿に似た大きな獣の死体を嬉しそうに仲間らと引きずりながら村へと帰ってきた。完全な冬になり全てが雪に覆われる前に、貴重なビタミン源にするため、岩肌に生えた苔の一種を集めていた娘らがそれを見て歓声を上げて、ヤーラー達狩人を囲んだ。ヤーラーは四十路を超えた男だった。ルドラの民の寿命は短い。五十才を超えれば老人だった。それを考えるとヤーラーは長寿の気配のする男だった。狩りが上手く、年長であり、公正で人望のあるヤーラーは村で一目置かれた男だった。下界の村での物々交換に使うため、毛皮に傷をつけぬように、ヤーラーがナイフを獣に突き立てた。12歳のククルが鉄桶で氷点下の中で湯気の立つ鮮やかな鮮血を受け止めた。これでブラッドソーセージを作るのだ。毛皮を剥ぐと女たちの仕事だった。雪の上に血と脂に塗れた毛皮を置いて、切っ先が扇形となった三味線のバチのようなナイフで皮の間に残った真っ白な脂肪をこそげ落としていく。時折女たちの腕の間から子供たちが顔をだして脂肪を口に放り込んだ。新鮮な脂肪は、甘かった。



鹿の角をくりぬいてゴブレットを作ろう。
ゴブレットと村の果実酒を交換しよう。今度、アダダの婚姻で振る舞おう
毛皮は村へと売りに行こう。エルトの息子が成人したから、父親はエルトの冬着を作りたがっていた。
娘たち、肉を屋根に掛けておきなさい。今夜は雪が降るだろう。肉が締まって冬のご馳走になるだろう。




さぁ、夢子、お前もこっちへおいで




村人たちに囲まれていたヤーラーが振り返って、手を差し伸べた。大きな手。





―――父だった。