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―――あぁ、どうして…




僧正アルシャッドとの面会を終えた夢子は一人、力なく廊下を歩いた。
帰りは一人だった。向かうべき場所は、アルシャッドの念話のおかげでよく分かっていたが、何もかもが嘘のようで、足取りは重く、身体が震えていた。立って居られず、思わず寺の廊下でしゃがみ込み、立ち上がろうと柱に手を掛けたが力が入らなかった。夢子の大きな瞳は涙で光り、魂の底から込み上げる熱いものに、炎が揺らめくように揺れていた。身体がぶるぶると震えた。まだ、夢子の精神の中に、アルシャッドの見せた故郷ルドラの穏やかな日々の記憶が生々しく残り、手を伸ばせば、あの、父の厚い皮に覆われた暖かな手にすがることができるようであった。突如奪われたすべての財産。何者にもなれず、ただナムリスに飼い殺される日々。



永遠に失われてしまった美しい子供時代。



目の前に胸を掻きむしりたいほど懐かしく愛しい者たちを見せられ、消えてしまった。
夢子は二度、最愛のものを失ったように感じ、耐えられないほどの望郷の思いに立ち上がることもできず、
声を上げることもできずに柱に抱き付くようにしがみ付いた。夢子の知っている悲しみの言葉を全て使ったとしても、言葉にすることができぬ悲しみと怒り。


しかし、それだけではなかった。
アルシャッドから「与えられたもの」の大きさに震えていた。
故郷の山で素朴な一民族の暮らしをしていた少女の人生に突如として降りかかった大きな定め。
その荒れ狂う海を泳ぐために、アルシャッドから与えられたもの。―――わたしにそれができるのかしら。





「あっ!」

その時、背後から近づき、夢子の肩を強引に引き寄せ、口を塞いで喉元に短剣を突き付けようとした者がいた。僧侶だった。一瞬のことだった。僧侶の腕の中に引き寄せられる強い力に引っ張られるように、夢子はとっさに振り向きざまに僧侶の顔を覆う面布を掴んで剥ぎ取り、絶句した。



「……ナムリス!!」


それは、若い修行僧の恰好をしたナムリスだった。
だが、驚いたのはナムリスの方だった。夢子の肩を掴んだまま、もう一方の短剣を持った手で顔を隠し、しかし動揺を隠すことができぬまま互いに顔を睨みあって絶句した。









その一方で、使者の役目を終えた女たちやその付き人たちは、宴を始めていた。
僧侶が一度手を付けたご馳走の並ぶ部屋で女だけの宴。これらの食事は修行中の僧侶らが信者たちからの托鉢によって得た食べ物であり、一度僧侶らが半分を食べ、その残りの半分で賄われていた。ここらの文化でそうあるように、それらの食事は「残飯」ではなく「神からのおさがり」として徳の高い食べ物としてありがたがって皆口にした。毎週の決まった日に、市民に向けて開かれる集会の折にも振る舞われるものだった。

夢子と一緒に宮殿からやってきた女中頭も、異国の貴族風の装いをした若い娘の隣に腰を下ろして器用に右手だけを使ってもち米を蒸かしたものに魚の煮つけを絡めて口へと運んでいた。夢子があまりに遅いことに多少気を揉みながらも、貴族風の娘達との会話が尽きなかった。



「先週、クルトの谷が腐海に飲み込まれたらしいわね」
「そうなの。船団が腐海に降りたせいで胞子を持ち帰ったと聞いたわ」
「腐海に降りるなんて馬鹿なことを。腐海なんて全て焼き払ってしまえば良いのに」
「皇弟さまの軍がいずれトルメキアを攻略した暁には、きっとそうして下さるでしょうね」
「トルメキアといえば、今度の戦争で奴隷を10万人も捕まえたらしいわね」
「あら、いいわね。うちの洗濯婦が嫁いでしまったから2,3人買って下さるようお父様に頼もうかしら」
「きっとすぐに奴隷市が立つわ」



恵まれた娘たちの身勝手で無邪気な会話だった。
それらを女中頭は訳知り顔で頷きながら、腹の中であらゆる算段をつけていた。
娘が上げた名前は女中頭にも聞き覚えのある谷だった。確か上質な毛織物を後宮にも納めていたのではなかっただろうか。ここの所行商人が顔を出さないとは思っていたが、まさか腐海に飲まれていたとは…。まだ後宮の女は誰も知らぬ。多くの女たちは、毛織物が届かぬことも知らぬまま、ルクルト地方攻略祝賀のドレスを縫うこともできんだろう。祝賀に間に合わせる為には、今の内に、また、新たな反物屋を探さなくてはならない。先日後宮に入った豪商の娘達有力者に、新たな反物屋を手配してやろう。新しい衣装を持って祝賀に出れば、他の娘を出し抜ける。見返りは父親がなんでも口利きするだろう。


後宮の外で見聞きすることはそのまま後宮に伝えられ、時には後宮内の女の政治的にも重要なこととなった。
また、女中頭は都会育ちの娘たちの垢ぬけた様子や作法と夢子を比べ、忌々し気に内心でため息を漏らした。



あの娘、僧正さまの前で無様に大恥を掻いたに違いないわ。
皇兄さまのお気に入りも形無しね。これに懲りて皇兄さまも目を覚まして高貴なお姫様方に手をつけてくださる筈。私の息の掛かっていない娘はいない。どの娘が寵姫になったとしても、私への恩を忘れる筈がないわ。

…それにしても、あの愚図な小娘の遅いこと。










「ナムリス、どうしてここに!?」


突如として、それも僧侶の恰好をして現れたナムリスに夢子は声を上げた。
だがすぐにナムリスの様子がおかしいことに、夢子は気がついた。――ナムリスから漂う禍々しさがない。
自分の肩を強い力で掴むナムリスとの距離は近い。どこが、という事をはっきりと言うことは夢子にはできなかったが、ナムリス特有のどこか薬液のような、病んだ老人のような臭いがせず、この寺院中に焚かれた香のような匂いがした。それは決して不愉快な匂いではなかった。


ナムリスはナイフを掴んだ腕で隠していた顔を、諦めたように夢子の前に晒した。
ナムリスが常に口許に浮かべている人を食ったような、にたにたとした笑みがなく、精悍な男の顔をしている。そしてナムリスの色素の薄い灰色の髪ではなく、豊かな力強さを感じるような、黒髪をしており、まっすぐに人の道を歩いてきた人間特有の真摯さと健やかさを、その強い眼光に湛えている。



このナムリスからは、生命力を感じた。―――ナムリスじゃ、ない。



「娘、なぜ神聖皇兄ナムリスの素顔を知っている?」


この人は、ナムリスではない。夢子は確信した。
男が掴む肩が痛んだ。ナムリスの名を出した時、男の目に憎悪の光が揺れるのが見えた。
何故知っているのか、それをこの男に告げる事を若い娘の夢子は躊躇った。自分がナムリスに弄ばれた身である事を他人に伝える事は堪らない苦痛だった。唇を結んで、苦しいような顔を浮かべた夢子に、肩を掴んでいた手を離し、短剣を鞘に納めた。


実のところ、男としても全てが予想外の事であった。
この国では僧侶というものは皇帝の次に最も尊い者であった。その僧侶に若い娘が触れる事もタブーであれば、僧侶の面布を剥ぐというのは極刑に値するほどの罪だった。だが、目の前の娘は僧侶の面布を剥いだ。そして剥いだ罪の重さを知らぬ様子であり、何よりこの顔の意味を知っていた。ただの参拝客ではなかったのだ。―――偶然にしては、何もかもが出来すぎているんじゃないだろうか。
男はその恐ろしさすら覚える偶然に夢子を睨んだ。計画は水の泡だ。

「娘、お前はクシャトリアか」

えっ、と夢子が聞き返した時、夢子の名を呼ぶ女中頭の声が響き、男は舌打ちひとつ残して面布を掴んで、そのまま塀を飛び越え消え去った。風のように一瞬のことだった。夢子は男が立ち去った方向を茫然と見つめ、夢子の元へやってきた女中頭の説教などはまるで耳に届かなかった。


後宮に戻っても、夢子は男のことを誰にも言わなかった。