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――――お前は、クシャトリアか。




あの人は一体何を言っていたんだろう。
夢子は一人、女たちの集まる食堂でぼんやりと思い出していた。


食堂では様々な民族の娘が様々な様式で食事をしていた。
同じサパタ族出身者だけでラグを敷いた床に車座になり、手から豆のカレーのようなものを食べる娘たちがいれば、文化圏の近いマニ族とユタ族の娘は、椅子に座り、ライ麦と小麦を発酵させて作られた酸味のあるパンを齧りながらヤギの乳を精製し、熱した乳を飲んでいる。夢子の隣ではターリアが砂漠の軽石を削って作られたスプーンを使って紫がかったスープをすすっている。これは夢子に出されているものと同じものだった。

夢子の食文化にはなかった色のため、若干の躊躇いを覚える紫のスープは、スビョークラ(ビーツの一種)由来のものだった。
スビョークラは、かつては地中海から西アジア、そしてロシアにまで広がった野菜の一種であったが高山地帯出身の夢子は初めて目にするものだった。このスープには鉄分が多く含まれ、女のホルモンバランスを整えるため、ナムリスの子供を切望される夢子の食事としてよく出された。



他の娘たちが比較的自分たちの文化や宗教由来の食事を出されているが、夢子にはそういった配慮が一切なかった。
それは、夢子が「ナムリスの為の娘」であったからだった。もちろん夢子はたった一人のルドラ族の娘であるため、たった一人の為に食事を別枠で作る手間もあったが、聖都シュワにまで秘境といわれるルドラの食文化が伝わっていないという理由もあった。おおざっぱに言えば狩猟民族である夢子の故郷の食事には、多くの肉や脂肪分の含まれた燻製肉のようなものが多い肉食であり、岩塩の取れる山があった為に塩をふんだんに使った保存食が多かったが、後宮で出される食事は、どちらかといえば草食であり薬膳じみた薄味の食事が多かった。


夢子にとっては穀物のパンなど贅沢であったが、農耕民族の娘にとっては、豪華な食事ではなかった。
ナムリスの寵愛を受けた娘の食事がどんなものだろうか、と一度貴族出身の娘が夢子の皿を覗き込んで内心で「なぁに、こんなもの」と嘲笑したようなものばかりだったが、それは目や舌を楽しませるための食事ではないからだった。夢子の食事は「子を成すための食事」である。女体の血流を良くし、体温を高め、また男子の発する性欲を受け止め、自らの生命力とするための食事。それ故夢子が食事を残すことをアバヤのお目付け役の女たちは良しとせず、どれだけ時間が掛かっても全て食べる事を強要した。


「おまえ、今日、とくに喋らない」


とっくに自分の分の食事を平らげたターリアが不満そうにそう言った。
ターリアは夢子の皿からパンをひょいっと取り上げて、自分の皿に残ったスピョークラのスープを拭い取って口に放り込んだ。ターリアまで同じ食事を取る必要はなかったが、あまりに幼い頃に後宮に入ったため、ターリアには食文化に関して自らの民族への強い愛着はなく、後宮内で食道楽を楽しみのひとつにしていた。


「外、おもしろかったか?」
「わからない」


ターリアの言うほどの「外」を夢子は見たわけではなかった。
聖都シュワの市井の様子や、町並み、人々の営みを夢子はまだ見ていない。寺院の中の狭い社会の、しかし濃密な体験をしただけだった。ターリアは夢子から言葉の続きを聞きたがったが、夢子は話さなかった。僧正アルシャッドとの会話の密度や体験を、自分の言葉で表現できないということもあったが、念話の内容や、あのナムリスの顔を持った男の話を「するべきではない」、と直感的に思っていた。聡い夢子は、それらの事を誰に口止めされるでもなく「口にするべきことではない」と分かっていた。



「ねぇ、クシャトリアというのはどういう意味か知ってる?」



そう尋ねた瞬間、ターリアがすぐに顔を顰めた。
その目が「どこでそんなものを聞いてきたの」というように咎める目をしていると分かったが、夢子は引くことはできなかった。この宮殿内で孤立する夢子にとって、「答え」をくれるのはいつもターリアだった。会話をしてくれる人が他にいない。いるとしたら、ナムリスだ。だが、ナムリスに何かを尋ねるなんて事はしたくなかった。



「王族や武人のこと。支配する者。この国、古い階級がある。一番偉い人、お坊さま、バラモン。二番目、クシャトリア。その次、ヴァイシャ(庶民)。オレたち、異民族、階級のずっと下、シュードラの人間。ずっと下だけど、蟲使いよりもずっと上。蟲使い、人間じゃない。聖都にも、移民や奴隷が流れ込んだ。この階級、廃れてきてる。でも、年寄りや偉いやつ、まだこの階級を意識してる。でも後宮では、みんな、ただの「女」。穴を塞がれることを待っている、ただの女。だから、階級のこと、誰も言わない。思っているやつはいる。ミルラやセルは、特にそう思っている。あいつら、クシャトリア出身。いつも偉そうにしている。でもお前、シュードラなのに、皇兄さまに選ばれた。だから、偉そうにしているやつ、おまえ、嫌い」



普段はもう少し流暢に話をするターリアだったが、込み入った話になると途端に不明瞭になった。
それはこの後宮に入ってから、宗教や法律、社会的ルールについて議論するという事がなかったからだった。だが、夢子にはターリアの説明で十分だった。蟲使いのことは夢子も村の世間師から聞いている。腐海で死んだ人間の死体を暴き、金品を盗む、おぞましい一族だと。しかし自分たちもその社会的な階級に分類されているということは、村という小さなコミュニティでのみ生きてきた夢子には考えも及ばぬことだった。

後宮の中で、きらびやかな装飾を身にまとった娘たちを初めてみた。
それを「羨ましい」と思う市井の娘らしい気持ちもないほど、夢子にとては「無縁」の女たちだった。
それほど階級意識のない夢子に、あの若者は「クシャトリアか」と尋ねた。



どうして、あの人はわたしを「クシャトリアか」と尋ねたのだろう。



夢子がスプーンで紫色のスープをかき混ぜた時、装飾品を施したアバヤを着こんだ女奴隷の主が部下を引き連れて夢子の元へとやってきた。ターリアを始め、他の娘たちは食事の手を止め、おしゃべりをやめて、すぐにそれぞれの民族流の敬意を表すポーズを取ったが、何事か分からぬ夢子はそのまま少し驚いてまじまじとアバヤの女を見上げた。目元だけが露出した女だったが、その目元の皺や華美な化粧からそう若くはない女だと分かった。



「夢子様、今夜、皇兄さまがお前様の元へ来られます。すぐに身支度を始めましょう」



夢子は直感した。――今夜、ナムリスはわたしを抱くだろう、と。
その瞬間、思わず夢子は椅子を蹴るように立ち上がり、スープ皿を引っ掛けて割ってしまった事にも気付かず、顔を青ざめて戦慄いた。ターリアや他の女が何事か、と顔を上げた時、夢子は叫んだ。「いやだ!」と。
アバヤの女たちが目を丸くした瞬間、夢子はウサギのように食堂を駆け出した。夢子に押しのけられた女たちが大袈裟な悲鳴を上げ、我に返ったアバヤの女たちが夢子を追った。


ナムリスが来る!ナムリスがわたしを抱きにくる!
いつもと違う。いつもはもっと簡単にやってきた。でも今日は違う。今日は何か様子が違う。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。いやだ。いやだ!!!!!


この身体、ナムリスに触れさせはしない!!!!!


夢子の心には、ルドラの景色が、家族の顔が、父の手が生々しいほどくっきりと浮かんでいた。
僧正の見せた念話での故郷の光景が、はっきりと目の前に広がっていた。それらを全てさっぱり忘れてしまえたら、こんなひどい苦痛など感じなかっただろう。だが僧正が与えたのは「忘却」ではなかった。夢子の胸の内に、魂の光景を手に取るようにはっきりと形作って与えてしまった。僧正にその意思はなくても、二度、家族は死ぬ。目の前に差し出された父の手。それらすべてを奪った男が、わたしの身体を穢す。


―――そんな事は堪えられない!!


しかし、廊下に出た瞬間、食堂の前を警護していたアバヤの大女によって容易く夢子は取り押さえられた。
自らの四肢を引きちぎらんばかりに悲鳴を上げて暴れる夢子を、アバヤの女たちが取り押さえ、食堂から同世代の娘たちが好奇と悪意の目でその光景を野次った。ターリアだけが、眉を寄せて唇を噛みしめ、「かわいそうだ」と呟いた。まだ幼い娘たちは、鎮静剤をかがされ力を奪われた夢子を見守りながら、泣いた。


たすけて、と叫んだ夢子の声はかき消された。