13
―――夢子、お前になら皇兄様を諌(いさ)められるかもしれない。
目の前に差し出されていた父の手。
その手を掴もうと顔を上げたとき、父の顔がゆっくりと霧のように歪み、僧正アルシャッドの顔が浮かんだ。
はっ、と息を呑み、これが「現実」ではなく、アルシャッドの見せる「夢」なのだと夢子は気がついた。彼は微笑み、周囲の景色は一変した。夢子の見たことのない、巨大な都市、聖都シュワの町並みだった。乾燥地帯にある土鬼の家々の多くは、木を軸とし、その軸に泥を塗りつけて作られた泥の帝国であった。まれに土鬼に流れ着いてきた商人らが、それぞれの氏族のやり方で立てた木や石づくりの家が建ち、混沌としている。その混沌とした町の中を、ぎゅうぎゅうになって人々が生きていた。混雑しきった往来で家畜が身動き取れずに立ち止まり抗議めいた声を上げる傍を、乞食の子供が水の入った羊の革袋を盗んで走り、追いかける商人の隣を裕福な既婚女性が銀刺繍のされたブルカを被り、トルメキアの元軍人奴隷を護衛として連れて歩き、その足元で腐海に故郷を追われたユタ族の老婆が行き倒れている頭上を、若い僧侶らが足早に寺院へと歩いていった。
それが、聖都シュワであった。
「夢子、お前の中には怯えと怒りが渦を巻いているね。とても強い怒りだ。この老躯に突き刺さるようだ」
「お坊さま、でもわたしはこの怒りをどうすればいいのか分からないのです。一族の弔いをしたいのです。お坊さま、どうかわたしの一族のためにお経を読んではくれませんか」
「私の経ではお前の一族の受けた悲しみを弔うことはできないよ。それはお前の神と、私の神が違うからだ。私の経文はお前の一族にとっては風の音に等しい」
「それは悪い事なのでしょうか。わたし達が辺境の民だからいけないのでしょうか」
「それは違う。真理はいつも変わる。この土地では夏至になれば家々の壁に水を撒く。そうしなければ南からの熱風で泥の家は砂に戻ってしまう。だがお前の土地でそのような事をすれば、お前たちの獣の皮で張ったテントは腐り落ちるだろう。神はそのようなもの。それぞれの心の土壌によって真理は変わる。万物に正しいわけではない。だからお前はお前のやり方で、一族の弔いをしなくてはならない」
「では、わたしはどうしたら良いのでしょうか」
「お前はお前自身で、お前の内に巣食う怒りと悲しみを食べてしまうしかない。食べたものは、消えはしない。おまえの血となり肉となる」
―――――そして、おまえはおまえになるのだよ。
ゆっくりと目を開けた夢子の視界に、天井いっぱいに広がる土鬼の女神が見えた。
単眼を持ち、異形の姿をした裸体の女神を中心とした曼荼羅(まんだら)となっている。ナムリスの部屋だ、とはっとして身を起こそうとした時、身体中を支配するひどい気だるさに、起こしかけた身体を持ち上げられずに、そのままトリウマの雛から取った柔らかで高価な羽毛の積もったクッションへと身を沈めた。
「お前は本当にじゃじゃ馬らしいな」
声をした方に頭を向けると、ヘルメットを外したナムリスがこちらを見てにたにたとした笑みを浮かべながら酒を煽っていた。傍らには大量の本や書類らしい紙が散乱している。博士たちからの報告による重要な門外不出の書類ばかりだったが、読み書きのできぬ夢子の前であるのでナムリスも報告書を読む事に憚(はばか)りがなかった。骨がまるで鉛でできたかのように重く、自由にならない。
夢子はナムリスが隣に腰掛けたのを見てそっぽを向いた。ナムリスは夢子のそんな子供じみた仕草に笑い声を立てて、夢子が身体の自由が利かぬことを良い事にその髪に手を差し入れ、ひとすくい掬った髪に鼻先を埋めて女の肌の匂いを楽しんだ。
「小賢しい坊主どもに、その腹の中を覗き込まれたのだろう」
はっとして息を呑んだ夢子の無垢な反応にナムリスは喉で笑った。
弟である神聖皇帝ミラルパのような超常の力を持たぬナムリスとて、その「気配」を読むことはできた。ナムリスは、夢子を守るように付きまとっているものが何者かまでをはっきりと「見る」ことはできなかったが、それが僧正である事は推測できていた。だが、こちらに影響を与えるほどの力がないことも分かっていた。
「どうだ、坊主はお前に救いを与えたか?」
黙ったままの夢子に、ナムリスはふっと笑ってその髪から手を離して身を引いた。
夢子相手に口に出すわけもなかったが、やるべき事は山積みだった。ここ百年、暇と享楽を持て余す事ができる日など一日足りともなかった。弟、ミラルパが土鬼帝国を納めることになった日から、ナムリスに降り注ぐものは弟の政策の後押しと後始末ばかりだ。ミラルパがその超常の力と、強制した宗教への信仰で民を「精神」から支配するのだとしたら、ナムリスはその「武力」で支配するばかりだった。それは王家の血筋ながらも帝位がないばかりに、自ら前線への参戦を余儀なくされ、その度にナムリスの持つ気性の荒さと酷薄さから、容赦ない弾圧と制圧を繰り返した結果だった。ナムリスの一方的な制圧は、他国はもちろんとして自国民の心にさえ恐怖を植え付けていた。そんなナムリスへの民衆の反発こそがミラルパへの依存に繋がっていた。
そんな事を知る由もない夢子は、そっと指先を動かし、身体に力が戻るのを待った。
「一体おまえは何が気にくわんのだ。この世の中、俺の妾というのはそう悪くない“仕事”だぞ」
もっとも、させられる贅沢には限りがあるがな、と言ってナムリスは声高に笑ったが、それは自身の立ち位置への皮肉でもあった。「悪くない」仕事である。だが、兄であっても皇帝ではないナムリスの持つ財産と権限には限りがあり、それは女相手に悪戯に消耗できるものでもなかった。皇帝の長男であったにも関わらず、「浪費」という面ではトルメキアの貴族連中よりもできるものでもなかった。ナムリスのための宮殿はなく、弟の治める宮殿に間借りする形で存在し、その中の更に小さな一角に形ばかりの後宮があるばかりだった。
手を握ったり開いたりを繰り返すうちに、手から腕、腕から上半身へと熱い血が巡り始めるのを、夢子は感じ、じっと目を閉じて、時が経つのを耐えた。額にべっとりとした汗が滲んだ。
「夢子、お前の手ぬるい足掻きには反吐が出る。真っ向からこの俺を拒否する力も、意思も、強さもないくせに“わたしは可哀想な被害者です”という悲劇のヒロイン面をする。愛玩する猫が悪戯に爪を立てる程度は愛らしいが、爪ばかり立てる猫など愛玩にもならない。拗ねたり甘えたりする愚かな娘の方がよっぽど賢い」
その言葉は夢子の身体をかっと熱くした。――羞恥心だ。
ナムリスの言うことは真実だった。ナムリスを殺したい、と願っていたが、しかし、実際にその肉体を前にすると恐怖が殺意に勝った。圧倒的な強さ。人を殴る事に対してなんの躊躇いもない、ナムリスの拳。あの宴の席での惨劇を思い出す。ナムリスに向かって爆弾を投げた娘が穴に落ちた時、水袋が弾けるような音がした。あれは、あの娘の身体が砕けた音だったのではないだろうか。後宮の娘たちの誰も口にすることをしない、あの惨劇。ターリアだって、あの夜のことを喋りはしない。ナムリスの底暗い目を見ると、喉が渇いていく。気がつくと体中にべったりと重い汗を掻いてしまう。
一族を滅ぼされた恨み。
この身体を穢したものへの怒り。
その感情は決して嘘ではないのに、ナムリスを見ると身体が震えた。
ぎゅっと目を閉じて耐える夢子を見下ろし、ナムリスはふっと口許を緩めて書類を床に放った。
身を固くする夢子の上に覆いかぶさり、その小さな頭を抱えるように抱きしめ、耳元で囁いた。
「夢子、無意味な事は止せ。自由になる事などない。だがお前は、俺の子さえ産めば自由になれる」
ナムリスの言葉に夢子はぱっと目を見開いて、虚空を見つめた。
噛みしめた唇が震えた。だが、今のナムリスの言葉はそう不愉快なものではなかった。言葉の意味ではなく、そこに一瞬、ナムリスの抱えたものを感じたような気がしたからだ。ナムリスの子供。それは憎悪の結晶だ。だが、夢子にとって「権力者」に見えるナムリスの「自由になる事などない」というのはどういう意味か測り兼ねた。この男なら、万物を思い通り自由にできる男に見えた。
「伽の褒美は、なんでもお前の好きなものをやろう」
「ならば一族の弔いをしたい。宝石なんていらない。せめて、土に還したい」
氷の大地に生きる夢子達ルドラの民にとって、弔いとは土に還すことだった。
愛され、慈しまれた者の葬儀のために、村人は氷を割って、穴を掘り、そこに埋葬する労を厭わなかった。そうでなければ、遺体は腐ることもないまま、氷となって永遠の時間をそこにありつづけた。土鬼の民のような複雑な経文もなければ儀式もなかった。ただ、土に還す。原始的で愛情深い葬儀だった。
「良いだろう。近々サパタへの遠征がある。その時にお前を連れて行こう。ルドラのあるゴス山脈で兵には一時休息を取らせる。その時、お前はルドラの民の為に墓でも祠でも作れば良い」
ナムリスはゆっくりと夢子から身体を離し、その顔を見下ろした。
夢子の大きな瞳には、ここに来て初めて光が差していることを読み取った。ナムリスも不思議と人を食ったような笑みを浮かべてはいなかった。そうしていると、精悍な若者の顔立ちとなった。夢子はふいに、あの寺院で見たナムリスの顔を持った若者のことを思い出した。だが、口に出すことはしなかった。見てはいけないものだと直感していた。
「だが行先は戦場だぞ。お前一人のために貴重なコルベットを聖都に戻す訳にはいかん」
「分かっている。もし一族を弔えたのなら、わたしはどこへ行っても構わない」
「上等だ」
ナムリスはにやりと満足げな笑みを浮かべ、夢子の前髪を掻き上げた。
露出した夢子の額に唇を押し付けて「なら、覚悟はできたな」と呟いた。呟いた言葉がじんわりと湿り気を帯びて、夢子の額と心に広がったが、夢子は少し震える手でナムリスの背中に手を回した。
それが答えだった。