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「朝が来るまで俺のベッドの使用を許可しよう」

うつ伏せになったままナムリスを無視した夢子に、ナムリスが「可愛い娘だ」と皮肉るような笑みひとつ残し、日課の薬液の入った浴槽での沐浴をするために、床下を開いて現れた透明な卵型ポットに乗って消えた時、ようやく夢子は耐えていた声を上げ、枕に突っ伏して泣いた。



こんなものは、特別なことじゃない。
こんなものは、千年も万年も昔から行われていること。
わたしだけが耐えられない道理はない。


皮肉なことではあったが、ナムリスの言葉に縋るように何度も何度も心の中で叫んだ。
殴られることはなかった。それどころか、まるで初夜の妻にでもするような、身体の秘密を丁寧に、丁寧に、暴いていくようなものだった。夢子自身さえしらない肉体の秘密を、ナムリスは知っていた。その秘密を、ナムリスは夢子にゆっくりと突き付けた。けれどその方がよっぽど苦しかった。もっとズタズタに殴ってくれれば良い。もっと暴力的で、もっと悲惨なものだったなら良い。けれど拘束されているわけでもないのに、夢子には抵抗することができなかった。自分の身体をナムリスとの取引の道具にしたからだ。抵抗もしないまま、ナムリスの指に、身体に、言葉に翻弄されて弄ばれた自分の心の弱さが苦しかった。


こんなものは、特別なことじゃない。
こんなものは、千年も万年も昔から行われていること。
わたしだけが耐えられない道理はない。こんなものは、特別じゃない。ちっとも特別な行為じゃない。当たり前のこと。家畜だって蟲だって鳥だってするようなこと。こんなものにわたしの誇りは傷つけられない。あんな男にわたしを穢すことなんてできない。こんなものは特別じゃない。大丈夫。なんでもない。千年も万年も昔から行われていること。



――――――わたしだけが耐えられない道理はない













夢子がまた褒美を受けるらしい。
夢子が殺されることもなく、折檻を受けることもなく、また皇兄様の寵愛を受けて褒美を得る、という話は瞬く間に後宮中へと広まった。もちろん夢子自身が言いふらしたのではなく、閨の後始末をしたアバヤの女たちが、それぞれの贔屓にしている有力者の娘へと洩らし、娘がまた女友達へと洩らし、女友達が今度は下女へと洩らしてあっという間に広まったのだった。


その日一日、夢子は決して誰とも会おうともせずに部屋に閉じこもったが、多くの女たちが夢子の部屋へと運ばれる「閨の代償」である宝石と絹の山を見た。夢子が一族の弔いを受ける為に拒否したものだったが、「あって困るものでもなし。娘にくれてやれ」とナムリスが贈ったものだった。ナムリスとしては珍しい情けの気持ちからだったが、根底では、部屋に並べられた褒美の品を見て、その品が意味するところを思って娘が苦々しい顔を浮かべる様を思い描いて愉しみたかっただけかもしれない。


あの食堂での一件以来、夢子への女たちの意見は二分した。
夢子と同じように、さまざまな理由から無理矢理後宮に納められた庶民の女たちからは、同情と憐憫の声が上がったが、クシャトリアなどの高位の家柄から自らの出世欲の意思を持って後宮へとやってきた女たちからの非難は激しかった。「皇兄さまに選ばれ、寵愛を賜ったのにあの態度は一体どういう事だ」という意味の事を、美しい女言葉のヴェールを被せて容赦なく糾弾した。


後宮にいる高位の娘たちは、次女、三女、四女…と家庭内での地位が低い娘が多かった。
長女である姉は婿を取り一族を納める立場につくが、次女三女の娘たちは、他家へと嫁いで故郷に戻る事のない一生を送ったり、権力者の側室となったり、出家をしたりする者が多かった。側室はともかく、家から尼を出したがる背景には土鬼帝国の政教一致があった。宗教が国家を納め、それは国家の中枢に携わる幹部から地方の一部族に至るまで、族長を僧侶が務める国家にあって、出家とは出世の為の必須条件であった。それは女も例外ではなく、一族から尼僧を出した、という「実績」が男子の出世にも影響するからだった。


一族の為になるならば、と自己犠牲にも似た責任感を持って親の言うままに出家する娘ならともかく、後宮に入る娘の多くはもっと自己顕示欲の強い、エリート思想の娘が多かった。
世界が腐海に飲み込まれる以前であれば、そんな娘たちも自分の人生に張り合いや希望を見出す事もできただろうが、火の七日間を経て生き残った人類は、男女の仕事がきっぱりと分かれた社会へと退化していた。男は外で仕事をする。女は子を産み育てる。常に戦争と絶滅の危機を前に、人々の暮らしはそれぞれの原始的な身体的特徴のみを生かしたものへと時代をさかのぼってしまった。


ゆえに上昇志向を持った娘が出世を求めるのならば、「賭け」に出るしかなかった。――皇兄の妻となる、と。
土鬼帝国の最高権力者である皇帝ミラルパは僧侶であり女体を受け付けない。その臣下たちも僧侶であるので当然妻を求めない。だが、兄であるナムリスは違う。ナムリスは純粋な戦士だ。僧侶ではない。たとえ民衆から恐れられ、疎まれる男であっても、豪商の妻に収まるよりももっと多くの者を得られる。寵愛を与えた娘の親族を多少、目こぼしする位のことをしてくれるだろう。娘が自ら「後宮へ入りたい」と言いだした時、大抵の親族は娘を手放す事を受け入れた。


そういった背景と確固たる意志を持って自ら後宮へと入ってきた娘にとって、夢子は目の上のたん瘤であった。
疎ましい。妬ましい。憎くて、憎くて堪らない、と。
皇兄の生命が長寿であっても、自らの若さには限りがある。まさかこのまま、一対一での目通りも叶わぬまま、この若さと美しさの絶頂を摘み取られることもなく老いさらばえていくのか、実家からの便りでは末の妹が戦士の子を孕んだと書いてある。皇兄さまに取り入るのはまだか、と急かす手紙ばかりが届く。今更実家には帰れない。かといって皇兄さまに選ばれるのはいつのことだ。また若い娘が入ってきた。明日には盛りを過ぎた女が後宮を追い出されるだろう。


――――選ばれたい。見初められたい。この肌が衰える前に!早く!!


激しい焦りを覚えている中で、夢子の存在は許しがたかった。
喉から手が出るほど、羨ましかった。




後宮に、幸福な娘などいなかった。















「サパタ遠征のための装束を整えておけ、との皇兄さまのお達しです」


夜になり、夢子はもう泣いてはいなかった。
部屋にやってきたアバヤの女の言葉に頷いた瞳には、静かな怒りと決意が満ちていた。
街に行き、戦場に行く為の装束の採寸や、瘴気マスクの採寸などを測るようにという言葉にも頷き、供を選べとの言葉にも、僧正に会いに行った時の女中頭を推薦されたが、市井に詳しいターリアの名前を冷静に出した。ナムリスからの支度金を拒絶することなく受け取り、外出のための誓約書に指印を押した。


全ての準備が整った。――――あとは、入れ墨だけだった。
後宮に入り五年を迎えた女たちの手首には、「皇兄の財産」の証として刺青が淹れられる。
ちょうど手首に華奢な腕輪でもしたかのような刺青にはそれぞれ意味があった。ただ五年を迎えた娘には草の文様。更に役職についた娘には、最初の五年に入れられた刺青に幾何学的な花文様が加わるなど、それぞれに細かい意味があり、後宮内での地位を明らかにするとともに、役目を終えて後宮を出た後、その刺青によって得られる余生が変わるなどの意味があったが、大きな理由のひとつに、逃亡防止があった。
比較的自由に外界に出る女たちの中には、自由を求めて出奔する者も少なくなかった。そんな時、ナムリスの臣下たちが市井の人買いに娘の特徴と刺青の文様を伝えて、国中の女の中から女を見つけ出した。人買いたちは人探しのプロだった。逃亡などできるものではなかった。


「では、施術に入ります」
「はい」


夢子に覚悟はできていた。
針を刺す痛みなんて、今の夢子にとっては重要なことではなかった。
唇を噛みしめ、額に汗を浮かべながら、刺青技術を持ったアバヤの女が自分の右手首に文様を落としていく瞬間を、決して見逃すまいとするようにじっと見つめた。夢子にとって、運命を受け入れるための儀式だった。




夢子の手首には、後宮内の最上の地位である、抽象化された生命の木に囲まれる皇兄の単眼が彫られた。
ナムリスの目は、永遠に、夢子とその運命を見つめ続けることとなった。