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その晩、夢子は再びナムリスの部屋へと呼び出された。


アバヤの女たちが閨のための入念な準備をしなかったので、夢子としても心を落ち着けてナムリスと対峙することができた。
着せられた服も、臥所を共にするための服ではなく、手織りの亜麻布に赤糸刺繍によって幾何学模様の唐草模様が縁どられ、胸の辺りに「花壺」と呼ばれる四角形に収められた幾何学模様の花模様が贅沢な手縫いで誂えられていた。夢子にとってはいつもお仕着せられている単眼を模した悪趣味な服でなかったことがなにより嬉しかったが、右手首に巻かれた包帯の下に掘られた消えない刺青を思い出して表情を硬くした。


「なんだ、贈ってやった宝石のひとつも身に着けてこなかったのか?」


部屋に現れた夢子を上から下まで眺めて、ナムリスは呆れたような声を出した。
確かに女たちは夢子の髪や、腰や、首や、指に多くの装飾品をつけさせようとしたが、夢子は全てを拒絶した。
装飾品にはただ身体を着飾らせるという思惑よりも、そのひとつひとつに意味があった。魚を模したネックレスは多産と子孫繁栄を。護符の意味が強い赤と青の石や銀で象られた小さな手型がたくさん連なった腰帯は邪視を払うためなど、装飾品のすべてに意味があり、全ての宝飾品は魔を払う力が高いとされる純度の高い銀で作られており、ナムリス自身も多くの装飾品を身に着けていた。また、土鬼の銀の製錬技術は高く、その硬貨はトルメキアでも信頼されているほど混じり気のない美しい銀であったが、夢子の心を打つものではなかった。

邪を払うための銀でも、それ自体が邪なものであるように感じられたからだった。


だがそんな気持ちのあり様を漏らさない夢子に、ナムリスは「本当に可愛い娘だよ、お前は」と皮肉を洩らして隣に用意された席に座るように顎で指した。床に何重にもラグを重ね、柔らかなクッションをいくつも置いて背もたれとして、なかば寝転がるような涅槃(ねはん)の姿勢からナムリスは、2メルテ(2m)ほどもある特殊な細竹で作られた吸酒管(ストローのようなもの)を使って壺に入った酒から酒をあおった。

夢子が指定された場所に置かれた一人用の座布団のようなラグの上に腰を下ろすと、隣からぬっと伸びたナムリスの手が、夢子の包帯を巻いた右手首を掴んだ。夢子がナムリスを睨みつけ、それでも黙っているとナムリスが身体を起こして夢子に近づき、その手首に巻かれた包帯を無遠慮に解いた。
そして、まだ真っ赤に腫れて熱を帯びる手首に刻まれた単眼を見て笑みを浮かべた。


女を自分の所有物にした男だけが浮かべる、雄臭い笑みだった。


「この文様の意味するところを知っているか」
「……あなたの監視下にある、という意味でしょ」
「それは刺青を入れさせる理由だ。俺が言っているのは、文様のことだ」

ナムリスに掴まれた手首を振りほどこうとしたが、それよりも強くナムリスが力を込める。
その不快感に露骨に嫌な顔を浮かべる夢子の目元に、泣きはらした痕を見止めたがナムリスは揶揄しなかった。ただ内心で、気丈な娘だ、と歓迎した。すぐに光を失われては、つまらない。ナムリスにとって夢子は「目新しい玩具」だった。この百年、自分の周りに存在していたものは、弟に心酔する僧侶達や、説教ごとしか言わぬ長老院の爺どもや、単眼を前にびくびくと顔色を伺う者たち、色目を使って媚びへつらいながらも背後にその親族の男たちの意図が見え隠れする娘たちなど、多くの目的ある者たちがべったりと張り付き、もうナムリスは全ての人間に飽き飽きしていた。


だが、夢子は違う。
もしも夢子が本気で自分を謀殺に来たのならば容赦なく殺しただろうが、しかしこの小娘程度の反抗や生意気な態度のどれもが新鮮であり自分を愉しませてくれる。誰の手垢もついていない、まっさらな小娘の一喜一憂とその足掻きが、ナムリスには面白可笑しくて仕方がなかった。


「ここの哀れな女たちに入れられた刺青は、全て家畜に押す焼印と同じ程度の意味しかない。しかし、お前のものは違う。夢子、お前は選ばれた。そして、お前は甘受した。お前の、この腕に彫られた、この単眼が意味するところは、すなわち呪いだ」


怪しく光るナムリスの目に、夢子は息を呑んだ。―――呪い。


清浄な地で生きるルドラ族の肉体は、万能薬になる。
ルドラの伝説には尾ひれがついて広まり、外界にはびこる呪術師や魔法使い、グール(人食い)、人買い達の間で、ルドラ族の人間は高値の商品だった。幾度も人買いの襲来を受けて戦った戦士たち。村へと物々交換に行った老人たちは、帰ってこなかった。女達は泣く暇もなくテントを畳み、僅かな家畜を急き立てて山を移動した。人買いはいつまでもいつまでも、山に残る足跡を求めて執念深く追ってきた。村人はいつ来るか分からない人買いのために、テントを張る余裕もなく、氷の岩陰に身を寄せ合って朝が来るのを待ったこともあった。
そして、そんなくだらない伝説の為に、ついに一族は滅ぼされ、自分はナムリスに差し出された。

だから夢子にとって、魔法や呪術は恐ろしくて堪らないものだった。


さっと顔色を青ざめた夢子の手首の、腫れた刺青にナムリスは唇を落とした。
度数の高い酒を煽っていたせいで、ナムリスの唇は燃えるような熱を帯びていて、ちくちくと痛む肌に刺すような刺激となって夢子はびくりと肩を震わせ、そんな様子にナムリスはますます気を良くした。


「―――――おまえが深淵を覗き込む時、深淵もまたおまえを見ている。
古い言葉だ。見るものは見られるものになる。
目は邪を呼ぶ。目にした物に無意識に良くも悪くも呪いを込める。邪を持った他人の目が、見られたその者にいつか害を与える。妬みの目がいつか毒となる。お前が邪視を抱く時、お前もまた、邪視に見入られる。この目はその呪いを跳ね返すための“護符”だ。特に、お前は多くの女の邪視を背負うだろうからな」


ヒヒ、と不吉な笑みを漏らしたナムリスに、いよいよ夢子はその手を振りほどいてナムリスを睨みつけた。
ナムリスはもう何もしないさ、と意味するように肩をすくめて、また吸酒管に口をつけて酒をあおった。

しかしナムリスの言葉は全てではなかった。
ナムリスの単眼とミラルパの纏う沢山の目。それは、聖都シュワに存在する旧世界の墓所の目。だがこの読み書きもままならない人間の小娘にそのような話をしても理解できるものではなかったし、墓所の主のことは皇帝を始め一部の僧侶と科学者しか知り得ぬ秘密であった。土鬼の目は、墓所から世界を取り替える朝を待つ、墓所の主たる新世界の人類たちの目であった。


その朝が来るまで、毒を孕む人類の様を見届けるため。



「だが夢子、おまえは、この手首に永遠に刻まれた単眼を、この俺の目だと思え。
おまえが何処で、誰と何をしていようとも、俺はおまえを見ている。おまえの髪の毛一本足りとも残らず、全て、このナムリスのものだ。

――――おまえは、永遠に、自由になどなれぬ。



それが、この俺からの呪いだ