17


それが、この俺からの呪い。



ナムリスの瞳の底で揺らめく、どこか奇妙な…憎しみにも似た老獪さを、夢子は見た。
老獪さ?それはおかしい。だって、この男は、まだ青年の頃にいるのに。
しかし夢子はナムリスの瞳に捕えられたかのように動く事ができなかった。背筋が冷え、まるでちょろちょろと小さな火が揺れる薪の傍で、大婆さまから聞いた恐ろしい話に出てくる悪魔が、その百年にも渡る恐ろしい企みをちらつかせたような気がした。怖い、と思った。この男の前でわたしという存在は取るに足らない砂粒のように心もとないものに思えた。しかし、夢子はナムリスから目を逸らさなかった。それは山で獣と対峙した時に似ていた。目を逸らしてはいけない。恐れてはいけない。


―――わたしがこの男を食らうんだ!心を盗まれてはいけない!!


「あなたに与えられる自由などいらない。わたしは、自分の力でここを出て行く」

その言葉にナムリスは我が意を得た、と言わんばかりの満足気な笑みを浮かべた。
念話の力ではなく、ナムリス自身の持つ恐ろしさやおぞましさによって、夢子の無防備な心の底が覗き込まれようとしていた。百年余生きた男にとって、精神教育を受けることなく、野にあるまま育った娘の心を握り潰し、支配することなど容易かった。容易いと侮っていた。だが、今、その夢子が、ナムリスが支配し掛けた心を閉ざし、侵しがたいものとした事に驚きと悦びを持ってナムリスは受け入れた。


―――すぐに潰れてしまってはつまらないではないか。
まだ永遠の時間が横たわっているのだから。


「それでこそ我が仮初の妻だ。さぁ、おまえの自由ならざる栄光のために。」

ナムリスに渡された細竹で作られた吸酒管を受け取り、口に含むとまだ竹の青い匂いが残り、夢子は迷わず酒をぐびり、と一口大きく吸い上げた。すると途端に燃えるように熱く、痛みを覚えるほどアルコール度数の高い蒸留酒で、夢子は思わず息が詰まるような思いをしながら、けれど必死にそれを隠して一口飲みほし、それでもまだ舌に、喉に、胃に残る炎に顔をしかめてナムリスに吸酒管を突き返し、ナムリスは声を上げてその様子に笑ったが、夢子としては堪ったものじゃなかった。
まるで燃料のような酒だった。


夢子の知らない酒だ。
一年のほとんどを寒さの中で過ごす夢子達は、身体を温め、そして代謝をよくして体に熱を持たせるために酒をよく口にした。しかし、常に人買い達に怯え、山の気候を読んで暮らす夢子達は定住せず、常に移動をして暮らしていた。その為、山裾の村々でそうするように、甕(かめ)の中で酒を発酵蒸留させる時間を掛ける事は困難であったし、重たい甕を痩せた家畜たちに背負わせる事はできなかった。それ故、酒を飲む時は、わずかに得た穀物を発酵させたものを一掴みゴブレットへと入れて、熱い湯を注ぐ。そして穀物からじわりじわりと発酵液が染みだして酒となったものを舐めるように飲み、何度も何度も湯を注いでは仲間と回し飲みをする、酸味のある茶のような酒が親しいものだった。その酒はそう度数が高いものではないため、ある程度年長になった子供たちや、月経中の体温の低くなった娘や、病のある者も身体を温め治癒をするためによく口にした。

衣食住の全てを、自分の一族のことしか知らない夢子にとって、酒とはそういうものであったが、ナムリスの飲む娯楽の為の強烈な蒸留酒に堪らず、目の前の皿に盛られたナツメヤシの砂糖漬けに手を伸ばし、今度はその甘さに目を丸めた。こんなに甘い物など村にはなかった。甘さ、といえば穀物や果実を噛みしめた時に僅かに感じるものだった。その様子をナムリスは目を細めて見やり、「お前には毎日新鮮な驚きがあるんだろうな」と笑った。それは、ナムリスが百年前に失ったものだった。夢子には目の前の男が一瞬、まるで「老人」のような目をした事が不思議だった。


―――この男は、時々奇妙に老いて見える。


ナムリスの得体の知れない「魔」を見るような恐ろしさの一端がこの男の「揺らぎ」にあると夢子は言葉に出来ずとも直感していた。
なにか…当たり前の人間でないものを持って居る。太陽の高さによって伸びたり縮んだりする影のように正体のない男のように感じられた。


「市街に出るならマスクをしていけ」

顔から笑みを消したナムリスは、ぐびり、ぐびりと喉を鳴らしてさして旨くもなさそうに火のような酒を飲んだ。
ナムリスがそう言うと影のように現れたアバヤの女が瘴気マスクに似たマスクを乗せた盆を持って現れ、それを夢子の隣に置くとまた音もなく部屋を覆う布の奥へと消えた。ここでの生活の中で慣れてきたとはいえ、アバヤの女たちの芝居がかっていながら音ひとつ立てぬ動きはまるで幻影の中に揺らめく影のようで、喜怒哀楽を見せて素朴に生きるルドラの民とは月と太陽ほど違うもののように感じられた。
その女が置いていった瘴気マスクを手に取ると、村で使っていた物よりもずっと立派な、それでいて軽い素材で作られていることに驚いた。

「なんて軽いの…。獣の皮じゃないみたい…」
「そいつは獣じゃない。蟲の革だ」
「蟲?」

夢子の言葉は決して気持ち悪さから出たものではなかった。
ルドラにいた頃、下界、山の東側の裾野に広がる腐海から迷い出た大王ヤンマが山腹を飛んでいくのを見た。なんらかの理由で腐海を犯したどこかの民族の船を偵察に来たのだろう。龍のように大きな大王ヤンマが撃ち落された時、どこからともなく黒い嵐のように現れた大王ヤンマの群れが怒り狂ったように船を飲み込み、また散り散りに雲の中へと消えたとき、船の姿は跡形もなかった。恐ろしい光景だった。

―――蟲を殺してはらない。

蟲は言葉なくとも言葉を持ち、仲間を呼ぶ。
決して手を出してはいけない恐ろしい聖域。ルドラの山でも一匹のウシアブなどに出会っても、決して殺さず、そっと生息域を譲り、人間は身を引くしかなかった。
その蟲の腹を裂いただなんて!!どんなしっぺ返しが来るか分からない。ルドラ程度の村などすぐに壊滅するだろう。


「頭の良い弟とその部下たちのお蔭で、こういうものが出回るのさ」


夢子には理解ができなかった。
このマスクを覆う皮のように傷をつけずに蟲を殺す方法なんて夢子には思い浮かばなかった。
家畜を潰すときと、野生の獣を得るときは違う。ルドラの民は家畜の血を一滴も無駄にすることなくその命を頂く術を持っていたが、野生の獣は別だった。たとえ物々交換のための大切な資源になると分かっていても、皮に傷をつけてしまうことは当たり前の事だった。それが蟲ともなれば話の次元はもっと違う。蟲を得ることなど不可能だ。

だが真実は夢子の想像とはまるで違っていた。
皇帝ミラルパのおぞましい研究室。培養液の中で生まれる蟲の失敗作を潰して素材にすることなど考えも及ばないことだった。土鬼諸侯国帝国の闇。そんなものを、野山で育ったあるがままの美しい生命を持った娘の考えることではなかった。


「でも市街に出るのにマスクなんて必要ないわ」
「ああ、お前でなければな。だがおまえは、その清浄な身体のままでいてもらわねば困る。この聖都だって完璧に美しい街じゃねぇのさ」

それはナムリスの言う通りだった。
西からの偏西風に含まれる砂粒には腐海の瘴気がわずかに混ざっている。
その砂が百年の時間を掛けてゆっくりと積もり、人々の肺へと入り込む。腐海からこれほど離れているのに町に病持ちが多いのはそのせいだった。


「可笑しな話さ。神の御子である我が弟の住む国を、なぜ親である神は清浄の地にしない?畜生とて、賤民とて、子を愛でる気持ちがあるのだろう。だが偉大なる神は己が御子を慈しむ気持ちなどありはしないのさ。神にとっては、全てが他人事さ。だがそんな事に馬鹿どもは気付かない程馬鹿であるからこの国は成り立っているのさ」


影となっているアバヤの女たちが息を呑んだ。
もしこの言葉を言ったのがナムリスでなければ、この宗教によって成り立つ国家の中、死罪は免れない罪であった。なにより女たちは、女たちの信仰する神を愛し、心の拠り所にしていた。だから女たちは、表向きはナムリス派の女たちであったが、皆どこかで超常の力を持つ皇帝ミラルパを、恐れを持って信仰していた。何かあればミラルパの耳に入るように取り計らう女たちだった。だが、その女たちですら口にすることも憚られる恐ろしい言葉だった。神を否定するだなんて、皇兄さまは堕落するに違いない。恐ろしい地獄が口を開けて待っているだろう。

そこは神による救いのない世界だ。


しかし夢子は違った。
夢子が信じている神は「自然」だった。シャーマニズムにも似た、素朴な神だ。雨にも、土にも、石にも、獣にも、すべてに神が宿っている。その神は人間の為に存在しているわけではなかった。人間が、神が生きる世界から僅かに恵みを得て、生かされているというだけの自然界の中にただあるがままに存在し、慈しむだけの素朴な信仰だった。それゆえナムリスの言葉は、意外であったが恐ろしくはなかった。それよりも、この危険な男にどこか「おや」と惹かれる「面白い話を聞いた」という気持ちがあった。ナムリスの言う事にも一理あるのではないか、という気がした。

それはこの国ではとても危ういことだった。


無教養であるがゆえに、まっさらな夢子はどんなものも真っ直ぐに見つめる目を持って居た。
そのまっさらな心は、今はとても脆く、何色に染まることもできる危うく無防備なものだった。
ナムリスも、僧正アルシャッドも、その心の無垢さに気がついていた。


成長途中のまっさらな心を、夢子は自分で守らなくてはならなかった。