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夢子は、ナムリスから与えられた蟲の皮で作られたマスクをつけ、その高価なマスクが目立たぬように後宮の女達がつけるようなアバヤを被り目だけを露出させて貴族風の装いをすることとなった。

身軽さを好む夢子には鬱陶しくてたまらなかったが、ナムリスが「付けろ」と命じたものは絶対であった。
夢子の着替えを手伝った女たちに、いくら不平を漏らしたところで無駄だということは分かっていたので、腐海でもない、ただの街のために窮屈な気分を味わうしかなかったが、やはり、ナムリスが選んだというだけあり、村で昔から作られているマスクの息苦しさや重さとはかけ離れた性能に驚いた。

腐海にいるわけではないのでそのマスクの本当の性能を知ったわけではなかったが、マスクから漏れる空気の濃度が違う。村のものは少しでも呼吸を乱し、過剰に呼吸すればマスクの持つ浄化能力はすぐに限界になり、行き場のない吐き出された二酸化炭素とマスクの外の瘴気とで苦しんだ。会話などろくに出来ない旧式のものだった。村の人たちは随分そのマスクに苦しめられ、マスクをつけたまま戦闘などになることが何より恐ろしいほどだった。


「オレ、お前と仲良くしておいてよかった」


出発のための控室で、象牙色の健康的な歯を見せ、悪びれもせずに伸びやかに笑ったターリアに夢子もつい「それはよかった」と微笑んだ。供にターリアを指名したのは全くの事後承諾であったが、夢子が話をつける前に誰かがターリアに話をつけていたらしかった。ターリアは、普段の彼女なら付けることの出来ない銀の宝飾品を与えられて上機嫌で髪や額に飾って、大きな姿見の前でくるりくるりと回って見せては自分の頭からつま先まで眺めて、ニコリ、ニコリと笑みを浮かべては大きな姿見の中の自分にうっとりするように微笑んだ。
その姿を見ていると、夢子は自然と頬が緩んだ。

「あっ、おまえ笑った。笑ったぞ。目だけでもオレ、わかる」

ほら、とターリアが夢子の頬をつつき、えっ、と驚いて自分の頬に触れると、いつもきつく噛み締めていた奥歯が緩み、頬が柔らかいことに夢子も気が付いた。懐かしい感覚。ターリアは、またくるりくるりと回って見せて、着飾った自分の美しさを心から喜んでみせた。すると夢子も微笑んだ。なんだか、懐かしい気持ちだった。


夢子は、よく笑う少女だった。
百年も昔のように感じる昔…妹分の娘、セーシェの髪に花を差してやったことを思い出した。あの花…あぁ、あの、白い花…。耳に置いた白い花が、セーシェの赤ん坊のようにふっくらと丸く、幼い頬の上で揺れていた。兄さまが狩りから戻ったら見せるんだ、と踊っていたのに、髪に刺したまま昼寝をしたら花はすっかり潰れてしまって、あの子は泣いたっけ。じじさま達が冬なら雪崩が起きそうな騒ぎじゃな、と目を丸くするほど泣き喚いて…なのにあの子ったら、兄のタッタが仕留めた鳥の青い尾羽を髪に差してやったら今度はケロリと笑ってくるりと踊って見せた。
みながそれを見て笑って…


笑って…







シュワの街には強烈な生命力で満ちていた。
雨季が近い空にはぐずぐずとした湿りが漂い、それが街の悪臭を強くし、物が腐る早さを加速させている。宮殿の外に一歩踏み出すとまるで世界中の人間をひとところに集めたかのように、様々な民族や肌の色、職業、思想を匂わせるものたちが溢れかえる。まるで土鬼帝国を取り囲む錆びた砂粒がどんどん人間へと変わり、排出され続けているような人の数に夢子は目を回しそうになり、露店に並ぶ魚や肉にたかる蠅が鬱陶しくも纏わりつくのを振り払いながら、人混みを押しのけ掻き分け、人の波の中を泳ぐように歩くターリアについていくのに必死だった。そんな2人の後ろを、夢子の護衛という名目の監視役の男達が音もなく、影のようにピッタリと付き添っている。

「アレで変装しているつもり。宮殿育ち、みんな馬鹿」

ターリアが肩越しにちらりと振り返り、土鬼の戦士の格好に扮した「影」をあざ笑った。
ターリアが嘲笑う通り、宮殿の人間だと嗅ぎ付けた聡い小悪人らが「影」から逃れるように人から人の中へと消える。夢子には、ターリアが嘲笑う通りの、市井の人間と宮殿の人間の違いがまだ分からなかったが、市井の人間達はその境界を理解しているようで、戦士たちに声を掛ける露天商たちも「影」に声を掛けることはなくそそくさと商品となっている盗品を隠している。

ならば自分たちは…、自分は彼らには、どう見えるのだろうか、と思った。
金持ちに飼われる愛玩犬にでも見えるんだろうか。


わたしは、人からどう見られる存在になったのだろうか。


肌を汚された痛み、華美に着飾る装い、それら全てが山での自分の持つ全ての良いものを殺したように感じられた。
人々が全てを見抜き、自分を軽蔑ているのではないか、と思った。



マスクをつけているせいで、自分の呼吸音がよく聞こえ、生まれてから見たことのないほどの人間のカオスの中に放り込まれたというのに奇妙に静かな気持ちだった。マスクを外した世界に溢れかえる「匂い」が遮断されているせいか、視覚と嗅覚が一致せず、まるで夢の中を歩いているような現実感のなさに戸惑った。


ターリアが目もくれずに通り過ぎる店々に並んだ品々はどれもが見たことのないものばかりで、山育ちの夢子にはこの世界に存在する全てがこの街に集まっているかのようにすら思えてならない。見たことのない形や色をした野菜や、鮮やかな色とりどりの布や、調理された食物、あらゆる家畜のあらゆる部位の肉が無造作にバケツに入れられ店先に置かれ、そこに蝿が集るのも構わず店番の老女は、“含み煙草”をクチャクチャと口の中で弄んでは吐き捨てた。


この国のものは、全て幻のように実態がない。そんな気がした。


やがてターリアは路地裏に面した一軒の食堂へ入り、客のいないがらんとした部屋を勝手に通り抜け、食堂の調理場の隅に座る、寡婦の証のヴェールで髪を隠した中年の女の手にコインを握らせ、食堂の裏口からまた別の通りへと出た。夢子が寡婦にチラリと目をやっても寡婦は何も言わずにただ虚空を見ていた。


二人が扉一枚抜けて、新たな通りに面した時、夢子は息を飲んだ。
通りはさきほどまでの表通りとは打って変わり、どこか猥雑で享楽的な雰囲気で溢れている。
ほとんど裸の女が透き通る布をその身体に巻いて、宝飾品に着飾り露出している。でっぷりと太った商人の男が剣をぶら下げた戦士たちを相手に何かを囁いている。シャンシャンシャンシャン、と細い金属質な鈴の音がリズムを作って鳴り響く音がどこからか聞こえる。目の上を真っ青に塗った女たちが男たちを呼び止めて行く。



「ここは?」
「ここ、なんでもある。オレたち今から武器商人のとこへ行く。あそこの商人の剣、一番良い。でもトルメキアの剣。戦争で死体から分捕ったもの。だから表通りでは売れない。でもトルメキアの剣、良い。みんな買いにくる」


ケロリとして言ったターリアに夢子は少し鼻白んだ。
だが、夢子は何も言わなかった。死体から物を取る。それはルドラでも珍しいものではなかった。雪山に入り込んで死んでいた死体から若者たちは宝石や剣や携帯食を奪った。そしそれを代金として死体を埋葬した。テントで待つ娘たちは、若者たちが持って帰った異国の布を裂いてスカートを縫った。
腐海の広がる世界、物資は乏しく、世の中とはそういうものだった。



やがてターリアが案内した店で、夢子は一振りの剣を選んだ。
店の主人は夢子たちの装いを見て、部屋に飾るための宝飾品のついた美しい剣や、主人や息子たちが「トルメキアの騎士を殺した証だ」と経歴に泊をつける為に貴族の母親や妻たちが買い求める、わざと刃こぼれさせられたトルメキアの剣を勧めたが、夢子が選んだものは最も土着した、ありふれた古い剣だった。


辺境地方で作られた剣であり、山岳民族の戦士たちが使うものだった。
コピスと呼ばれる小降りの軽い剣は女の夢子にも扱いやすかったし、何かあれば家畜を屠ってその身を剥がすのにも使えるものであり、古代から民と共にあるものであった。柄には何かの文字が彫られていたが、教育のない夢子には読むことができなかったし、すっかり使い込まれた剣の古びた柄は文字も装飾も日々の使用によって削れていた。
おそらくこの剣の持ち主や所属が彫られていたのだろう。そして、持ち主はすでに死んでいるだろう。戦士が剣を手放すのは、そういうとき、だった。武器がなくては、身を守れない。


貧しい農民であってもわずかな武器を売ることはない。
種もみは売ってしまってもまた手に入れられる。だが武器がなければ、自分が人買いたちの商品になるだけのことだった。だから人は武器を決して手放さない。女も、子供も。


夢子は、そっと柄を撫でた。


(土鬼領の戦士…。この剣の持ち主が死んだのは、帝国内でのことかしら。それとも、ナムリスの戦のせい?民族同士の争い?トルメキアとの戦い?…わからない。世界は、戦いばかりだ。)


ーーーーーナムリス、おまえが戦場を望むのか


包帯を巻いた右手首の下に掘られた、あの単眼が自分を見て笑っているような気がした。