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裏街道を出たとき、夢子は思わず立ちくらみをしてその場にしゃがみこんでしまった。
マスクの向こうから伝わるカオスに眩暈がした。押し合い圧し合い、足の踏み場を奪い合う人混み。山では見たことのない色の洪水。砂交じりの乾燥し停滞した重たい空気がうっそりと纏わりつき、頭をぼうっとさせ、耳に次から次へと伝わる客引きや喧噪、鳴りやまぬ音楽が悪夢のように極彩色の渦となって夢子を襲った。



氷の中、沈黙するルドラとはまるで違う世界。



呼吸とともに吐き気が競り上がり、夢子はマスクを外した。
そうすると今度は街に溢れかえる胸を悪くするような異臭(腐り始める肉と魚、その臭いを消すための香、蕩けるような女の香水、祈りの為の線香、行きかう家畜とその糞尿、男たちの酸えた汗)にいよいよ眩暈がし、驚いて背中をさするターリアの呼び掛けに答えられずに青い顔で蹲った。道の端でしゃがみ込む女二人を案ずる帝都の人間はいない。だが、夢子の高位の衣装を見て物陰で剣呑な目をした男たちが様子を伺う。


―――人買いたちだ。


男たちはゴブレットを置き、音もなくするすると酒の席を立つ。
通りに面した酒場、人買い達は通りに置かれた席で行きかう人々(特に田舎から出てきたような素人、家出小僧、守のいない子供など)を物色しながら酒を飲み、獲物を見つければそのまま金を払わず席を離れる。お代は組織へとツケとなっている。土地の人間ならその店がどういう店か言われずとも分かるが、余所者には分からぬ場所。酒盛りをする男たち、という風体は良いカモフラージュになった。


「夢子様、籠を呼びましょう」


夢子の前に膝をついたのは、土鬼の戦士に扮した王宮の僧兵だった。
人買い達の様子に気づいた彼らは夢子を取り囲み、すぐに足の遅い毛長牛の引く辻籠を呼び止めて夢子とターリアを中へと押しやり、自分たちは市井の行者を信用するわけもなく見張りについた。素早い動きだった。人買い達もその道のプロであるので、娘たちを囲んだのがただの戦士でない事などすぐに見抜き、誰に指揮されるまでもなく、また静かに人混みに身を溶かして消えた。人買いの恐ろしさである。


皇兄の印が腕に入れられた夢子は、良い品になった事だろう。
王宮に身代金を要求するも良し。敵国トルメアに人質として売りさばき、政治の道具にさせるも良し。ターリアが「馬鹿」とせせら笑った僧兵たちのお陰で商品にならずに済んだ事も気づかず、娘二人は薄汚れた籠の中で寄り添った。


夢子は、少し戻していた。



「この先、お寺ある。そこへ行って、夢子を休ませて」
幾何学模様の刺繍のされた重い幕が掛けられただけの籠から顔をだしてターリアがそう頼むと、僧兵もその「寺」がすぐに皇兄系列の寺であることを承知し、行者に行先を命じた。
寺は、僧正アルシャッドのいる、あの寺だった。


寺の小坊主は、初め市井の行者の引く草臥れた籠に乗った客を胡散臭げに眺めたが、僧兵が夢子の身分を明かしても何のことだか、どういう身分の者なのか通じず、二度三度押し問答があった末に先輩僧侶のとりなしによって、夢子達に部屋が与えられることになった。
寺では男女が完璧に分かれているので、僧兵たちは女人の区域に立ち入ることはできず、ターリアと夢子のみが寺の世話をする尼たちに手を引かれ、今は使われていない、ベッドひとつあるだけの部屋へと通された。この寺で寝起きする客人の為の部屋らしい。部屋の壁一面に抽象化された曼荼羅がタイル張りされている。夢子がベッドに横たわると、天井に、ナムリスを思わせる単眼が描かれていることに気が付き、横向きへと姿勢を変えてナムリスの目から逃げた。


その間もターリアは甲斐甲斐しく夢子の世話を焼いた。
汚してしまった夢子のアバヤを脱がせ、身体を締め付ける衣装を解き、窓を開けて空気を入れ替えた。そして、「水、もらってくる」と言い残して汚れたアバヤを抱えてターリアが部屋を出ていくと、夢子の身体にゆるゆると落ちてきたのは、途方もない疲労感だった。
意識の向こう、ずっと遠い場所から経典を唱える僧侶たちの歌のような声が響く。
中庭に植えられた大きな木を住処とする小鳥が鳴く声が心地よく部屋に落ちてくる。
ぐったりと身を横たえ、目を閉じると、眠りよりも重い疲れがゆっくりとこみあげて、夢子は目を閉じた。





―――――夢子


目を開けると、そこに座していたのは、僧正だった。
僧正と自分とを取り囲む風景は、夜空になったり、ルドラを思わせる雪山となったり、シュワの街並みになったり、どこという名のない場所となったり、変化に気づくこともないままにゆらゆらと変わり続け、そこが僧正の作り出す意識の中であることに夢子はすぐに気が付いた。
そして夢の中では自由にならない身体も、この意識の中では自由になるらしく、夢子はルドラでは敬意を持つ姿勢である胡坐座りで僧正の前に腰を下ろした。


「おまえには、また、会いたいと思っていた」


僧正が皺に埋もれた白濁した目を細めて微笑んだ。
夢子もそっと微笑み返して、目で礼を告げた。
夢子にとって、僧正アルシャッドは、得体のしれぬ念話の力を持った恐ろしい魔性の者ではなく、その身を案じてくれている一人の師であるような気がしていた。それは、アルシャッドの見せる「家族の記憶」が特にそうさせていたのだが、夢子の透明な心には家族の親愛に似た気持ちが染み出ていた。ナムリスの侵入を拒んだ夢子の心だったが、アルシャッドに対してはどこまでも無防備であった。


「夢子、“彼”に出会ったようだね」


アルシャッドの背後で雲がもやもやと人の形をかたどり、いつの間にかそこにナムリスが控えていた。
いや、ナムリスではない。ナムリスの顔を持つ、あの青年がそこに立っていた。夢子は彼の顔を見上げながら、ナムリスの顔をしていながら、ナムリスの持たぬ真っすぐな勇気、そしてどこか憂いを持った差し迫った物悲し気な目を見つめながら、頷いた。


「夢子、おまえに“彼”の心を預けたい。この若者はおまえと同じように迷いの中にある。深く、荒れた海の中で行く先も分からずもがき苦しんでいる。ちいさな弱い心。いつ狂気に呑まれるかも分からぬ、こどもの心」

アルシャッドの言葉は抽象的だったが、夢子には“彼”の孤独の片割れを自分も抱いているような気がした。
ナムリスが憎い。部屋にデザインされたナムリスの単眼ですら憎い。だが、そのナムリスの顔をもつ“彼”を憎い、とは思わなかった。
まるで生き別れた兄弟を得たような切なさを覚えた。



「目を覚ましたら、この部屋を出て進みなさい。“彼”が待っている」


そう言い残すと、アルシャッドも、青年の姿もそこにはなく、夢子はひとり、現実世界に取り残されていた。
そして夢子は部屋を出た。