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寝かされていた客間を出た夢子は、僧正アルシャッドに「見せられた」通りに廊下を渡り、中庭を抜け、いくつもの部屋を通り過ぎ、やがて青く塗られた扉の前で立ち止まった。人で溢れていた寺院だったのに、ここに来るまで誰とも出会うことがなかったが、それは「そういうものだろう」とどこか納得していた。

夢子にとって、これは夢の続きのようでもあったし、導かれるままの定めのような気もした。
ここに来たのは道理である。理である。そのような気さえした。
そして戸惑うことなく入った部屋で待ち構えるように座していた青年を見つけても驚きはしなかった。



「ナムリス」


その青年は、見れば見るほどナムリスによく似ていた。だが、ナムリスとは何もかもが違う。
僧衣に身を包んでいたが、薄い布の下で若者特有の力に満ちた肉体がゆっくりと呼吸しているのが見て取れた。黒いまつ毛に縁取られた瞳は意志が強く、覗き込めば相手の真意を飲み込み支配するようでもあったが、どこか暗い憂いを帯びている。ナムリスとは違う。生命力に満ち溢れ、持て余しているようでさえあるほど、若い男。


「おまえは何者だ」


咎めるようでいて、戸惑うような言葉。
夢子は青年の前に胡座で座り、じっとその瞳を見返した。互いが互いの瞳を見つめあった。念話の力などない若者同士だったが、互いの瞳を見つめ合った時、お互いがそれぞれこの世に苦しみ、もがいていることが分かった。


夢子の瞳は草原のように穏やかでいて、それでいてその本来の瞳の美しさの中に仄暗さが現れ、夢子の娘らしい相貌に影を落としている。聡い青年にはそれでわかった。この娘は、ナムリスに人生を奪われたのだと。そしてその答えを確かめるように、夢子の手首を掴み、包帯を取った。そこに、ナムリスの所有物である単眼の刺青が彫られているのを見て、青年は眉を寄せた。夢子の顔がわずかに歪む。言葉なく、青年は夢子に起きたことを悟り、夢子もまた一人の少女として悟られたことに傷付いた。この刺青は、そういう呪いでもあった。

ただ、ナムリスが女を抱くことの「意味」を、青年は知っていた。



「ならば、私も永くあるまい」


青年がそう漏らした声は、自嘲するようでもあったが、苦渋が滲んだ。
手首を引っ込めた夢子がまた顔をあげて青年を見つめた。夢子の瞳に午後の光が入り、健康的な白目が濡れたように光った。美しい娘だ、と青年は思った。ひとつの生命として、とても美しかった。


「あなたは、だれ?」
「名前はない。私は、影だ」


聖都シュワに射す強烈な西日を受けて青年はまさに影のように揺らぎ、夢子の身体に覆い被さった。まるでタチの悪い冗談でも言うように微笑んだ青年の顔は、ナムリスなのか、青年なのか、夢子には一瞬分からなかった。


「おまえは、ナムリスの何を知っている?」


答えようとして、唇を結んだ。
夢子が知っているナムリスのことは、与えられた暴力と陵辱。
だが、その憎しみの中でふと一瞬抱いたナムリスに対する「面白い話」という好奇心が一糸紛れていたことに驚いた。神の目を纏いながら、誰とも違う神を見る男の話。額に触れたあの唇が言葉を発した時、生暖かく濡れたこと。まるで雑草でも握るように髪を掴み上げ、迷う事なくこの顔に叩き込んだ拳の硬さ。傲慢でありながらもまた、弟に支配される身であるナムリスの歪み。ナムリスの肌の奇妙な冷たさ。
森羅万象の外側に身を置き、もがく生命の全てを嘲笑いながら遠巻きに見るような、あの目。


――――ナムリス。



だが、そういった事を言葉にできるほどの語彙を夢子は持っていなかった。
ルドラの民の中に、ナムリスのような人間は一人たりともいなかった。だから、ナムリスについて思うとき、どんな言葉を使うべきなのかを知らなかった。夢子はあまりに純粋な世界に生まれたのだ。口を噤んで俯いた夢子に、青年は掴んだままだった夢子の手首から手を離した。



「おまえは、クシャトリアではなかったのだな」
「ちがう。わたしは、ルドラ族の女だ」
「聞いたことがある。清浄の地に住むと噂される伝説の民だな。グール(人食い)の噂だとばかり思っていたよ」
「わたし達は、清浄の地になんて住んでいない。伝説でもない。ただ、雲を読む。瘴気を帯びた雲が降らせる雨雪を避けて生きる。それだけだ」


夢子の瞳は真っすぐ、「影」と言った青年を見た。
夢子の瞳には嘘偽りなどなく、口さがない人々が好き勝手にルドラについて噂をするために、結局は自分ひとり残して民族が滅びたことに、静かだが激しい怒りを燃やしていた。実のところ夢子にとっても「清浄の地」などは見たこともない伝説のものだ。わたし達は、ただの人間。その身体に特別な力もない、殺せば死ぬだけの人間。そんなことも分からないのか、という怒り。

青年は夢子の性質を見て取った。
寡黙だが、冷たい女ではない。むしろその逆で、白い肌の下で常に熱い感情が誰よりも激しく脈打っている、と。


飼いならされた娘ではない。
野生の娘だ。



「おまえは、ナムリスを、憎んではいないようだね」
「違うッ!憎んでいる!」


夢子は噛み付くように叫んで、身を引いた。
自分は、ナムリスを憎んではいない?いや、まさか。
あの男の“跡継ぎ”を産むために、わたしの家族は滅び、そしてこの肉体は穢された。
憎んでいないわけがない。誰よりも憎悪している。



「わたしは、ナムリスなんか嫌いだ」


もう一度、確かめるようにゆっくりと吐き出した夢子だったが、心は掻き乱れた。
ナムリスが、直接家族を殺したわけではないことを
土鬼の公用語に堪能ではない夢子には、いくつか考え違いをしていることがあった。
青年は、そのことに気が付いた。この娘は、ナムリスについて何も知らないのだ、と。


ナムリスは、夢子に“跡継ぎ”など産ませようとなんかしていない。



ーーーーまだ言わないでおこう。
夢子の瞳に、ナムリスに対する複雑な憎しみと奇妙な揺らぎを見て取った青年はそう決めた。
これからの話をするには、娘がまだあまりに無垢であり、ナムリスを知らなかったし、「真実」を知れば娘の気が狂うのではないか、と考えずにはいられなかった。そして、青年にとっても、夢子の全てを簡単に信じることはできなかった。





「もう出なさい。天が望むのならまた会う事もあるだろう」


ふっと青年は扉の向こうへと目をやり、時間が来た事を悟った。
夢子が青年の瞳を覗いても、青年はすでに心を閉ざしていた。
あの溢れるような若さや怒りは姿を潜め、太古の神の偶像のように「無」であった。それは、ルドラの山で出会う動物と同じだった。心を開く事のない誇り高い獣の静かな瞳だった。これ以上は泣いても縋っても、彼から話を聞く事はできないとわかり、夢子は立ち上がった。


「また会いに来る。天ではない。わたしが会いに来る」


応えはなかった。
夢子はこの青年に、不思議な印象を抱いた。
ナムリスと同じ顔をしている。だが、この青年をナムリスと関連付けずとも、奇妙な人だ、と思った。物腰は柔らかく、さっぱりとしていながら、どこか大仰な物言いをする。優しい目をしていながら、修羅を孕んでいる。まるで、僧侶と戦士が同居しているような人だと思った。


夢子は、青年から返事がないことに落胆する事もなく、部屋を出た。
青い扉を出ると、先ほどとは打って変わって寺院に人が行き交っていた。寺の小僧が突然現れた女人に「あっ」と驚いて逃げ出し、先輩分の若い僧侶が夢子の目を見ぬように慌てふためきながら早く立ち去るように声を荒げた。


夢子は振り返っても、そこに青い扉はすでにないような気がした。










後宮の自室へと帰り着くと、うず高く盛られたトリウマの羽のクッションの山に身体を預け寛いでいたナムリスを見つけて、目を細めた。
あの人よりもナムリスの方が「影」のようだ、と夢子は思った。 
どこか青ざめたナムリスの顔。突然奇声を上げて笑い出しそうに、もしくはなにか、とてもおぞましい事を言い出そうと、今か今かと待ち構えるようにムズムズと歪んだ笑みを浮かべる薄い唇。陰鬱さと狂気を孕んだ瞳。


(あの人は、日の当たる場所で生きられる人だ。
でも、ナムリスは違う。――――闇の中で生まれて、闇に帰るだろう)


ナムリスが求めるまま、夢子はナムリスの傍に腰を下ろした。
素直に求めに応じた夢子にナムリスは内心で「おや」と思いながら、その髪に手を差し込んだ。後宮にいる様々な民族の娘のように、美しく結い上げられることもなく、落ちるまま肩に延ばされている髪の柔らかさ、それはまだ子供の髪のように細くどこか濡れているように感じるほどしっとりとしている。


「わたしは、おまえを憎んでいる」
「そうだな」
「憎んでいる。だけど、どう憎んだらいいのか分からない」
ナムリスの唇が額に触れた。
おぞましいと思う。だが、憎しみの糸がどこかでほつれかけている。
ナムリスの冷たい手が頬を包む。柔らかく抱き寄せられると、薬湯のようなナムリスの匂いがした。


殴ってくれればいい。この骨を折ってくれればいい。
そうすれば、わたしはお前を憎める。
わからない。こんな感情は、村にはなかった。
この身体すら穢すがいい。
そうすれば、わたしはお前を恨める。
ただ憎しみだけを与えてくれればいい。


「夢子、おまえは真っすぐに俺を憎めばいい」



甘く囁いた言葉に、抗う事はできなかった。
混乱の中、ナムリスの腕の中が驚くほど暖かかった事に、夢子は怯えた。


自分を失いそうだった。