また地下だ。
助けられたと思った。多分、警察とか、軍人とか、そういう公の機関である存在に守られたと思ったのに、今度は囚人のようだ。なんでこんな目に合わなきゃいけないんだろう。一体わたしが何をしたっていうの?…いや、それよりここはどこ?町並みはテレビや写真で見るようなドイツのようだった。じゃあここはドイツなんだろうか?でも、ドイツのどこに?まさか過去にでもタイムスリップしたっていうんじゃ……?まだ新大陸も見つけられていなくて、日本なんて黄金の国なんて呼ばれていた頃?珍しいアジア人だから、こうして人間じゃないような扱いなのかな?あれ?でもマルコポーロっていつの時代だっけ?ああ、乏しい歴史の知識が恨めしい。まったく何も考えられない。
思考がどんどん支離滅裂になっていく。
時間がどれだけ経っているのか知るすべもなく、ただ唇を噛みしめる。
連れてこられた部屋は、また地下室だった。
頑丈な木の扉には、鉄格子がついている。申し訳程度に置かれた蝋燭からは当たりがぼんやりと浮かび上がるだけ。薄暗い地下室は湿気がこもり、足元の石畳からは冷気がこみ上げ、そして多湿すぎてカビ臭い。置かれたベッドはボロボロで、あの軍人の一団の一人が差し出してくれた毛布だけがやけに新しい。
あの人は、わたしにジャケットを被せてくれた人は、優しい人のように見えた。
まだジャケットだって返していない。あの人は、わたしを安心させるような事を何か言ってくれたと思った。あの人ならこんな場所にわたしを連れてきやしないと思ったのに。…いや、だめだ。わたしの人を見る目なんて…。
ハイドニクを信じようと思った。良い人だと思った。でもそうじゃなかった。
ハイドニクはわたしを売ろうとした。
言葉なんてなにも分からないけれど、でもそれだけは間違いないと思った。彼はわたしを売ろうとした。あのままだったら、きっと、あの中年の男に売られていたに違いなかった。男がハイドニクに握らせた袋はお金だったに違いない。優しいと思ったのに、そうじゃなかった。軽々しく、こんな場所で人を信じちゃだめだ。自分の身は、自分で守らなくっちゃ。信じられるのは、自分だけだ。
ジャケットを膝に出して、これを貸してくれた人の事や、馬に乗っていた人の事を考えた。
馬に乗っていた人の一言で、わたしは助けられたと思ったけれど、そうじゃなかったのかな。拷問とか、されるのかな。中世のヨーロッパがアジア人について優しい国だとはあんまり想像できなかった。異端とか、魔女狩りとか、そんなことが脳裏を横切る。キリスト教徒になれっていうんなら喜んでなるから、洗礼だってするから、礼拝とかそういうのだって喜んでやるから、なんでもするから、だから、だから……
膝を抱えたとき、ガチャガチャと鍵穴をいじる音で顔を上げた。誰か来た!
心臓が高鳴り、どくどくと脈打つ。きっとわたしの処遇が決まったんだ。生かすも、殺すも、その人次第なんだ!
息をするのも忘れて、ドアを見守れば、廊下の松明の明かりは部屋の蝋燭よりも明るく、入ってきた人物の顔は影となった。でも、見間違うはずがなかった。あの人だった。わたしを助けてくれた、あの人だった。
「出ろ」
何かを言ったけれど、やっぱり分からない。
でもその人は、あのジャケットの人と知り合いに違いないだろうと思い、わたしは恐る恐る立ち上がり、畳んでおいたジャケットを腕に抱えてその人に近寄り、ジャケットを差し出した。ありがとうございました、と声が震えたけれどきちんと言えた。わたしよりも少し目線が高いくらいのその人は少しだけ怪訝そうな顔をしてから、ジャケットを受け取った。
「ついてこい」
わたしに抵抗の意思がないことが分かったからか、男の人はわたしを拘束することもなくそう言って、外へと顎をしゃくった。出ろとか、そういう事だろうか、と判断して部屋を出る男について部屋を出た。部屋を出ても怒鳴られることがなかったから、その判断で合っていたみたい。『ぐ、グーテンターク?』と知っている唯一と言っても良いドイツ語で話しかけてみるけれど、反応はない。何かもう一言言ってみようかと思ったけれど、刺激するのを恐れてわたしは黙った。
大人しくついていき、階段を上り、別の部屋へと通される。
書斎を思わせるような部屋だった。壁には本が並び、机と椅子が置かれているだけのシンプルな部屋。でも窓はない。まだ地下なんだろうか。そしてその部屋の机の上に置かれた荷物を見て、思わず『あっ』と声が漏れた。
わたしの荷物だ!!
刺激しないようにしようと思ったことも忘れて机に駆け寄り、もう百年も懐かしいような気持ちでスマホや雑誌やポーチを次々手に取る。あった!わたしの荷物!ちゃんとある!雑誌は生協で買ったまま封を切ってなかった筈なのに開けられ、何度も中を調べられたのかすこしぼろぼろになっている。それでも何一つ欠けることなく、すべての荷物が手元に残っている。研究室の精密機械に影響が出るから、と切ったままになっていたスマホの電源を入れてみると、それはなんの間違いもなくきちんと電源が入った。もちろん、圏外だった。いつもと変わらないデスクトップ画面。時計は12:28を示している。いつもと変わらない時間。いつもと変わらない画面。涙が出そうだった。
「それはなんだ?なにをする道具だ?」
彼が低い声で何かを訪ねてきたけれど、やっぱり分からない。
抵抗するつもりがない事だけをアピールするように、わたしは息を呑んで、スマホを机の上に置いた。男はまた同じことを言った。動かないわたしに言っても無駄だと判断したのか、男はわたしのスマホに手を伸ばした。そしてわたしがやったのと同じように、画面を触る。浮かび上がるLINEの画面。最後にした他愛もないトークが浮ぶ。男がスマホの画面をわたしにつきつける。
「使ってみろ」
ん、とでも言うようにつきつけられたスマホを受け取り、男に見えるようにして操作をする。
いきなり写メとか取ったら殺されるかな?昔の日本人ってカメラに映ると魂取られるとか思ってたようだし…。少しだけ迷ったすえに、スマホの画像フォルダを見せた。フォルダに残っているピースして、歯を見せて、顔を赤くして、ビールジョッキ片手に笑っている友達やゼミの仲間たち。その中でばかな顔して笑っているわたし。この間行ったオシャレなカフェのケーキの写メ。夜景や犬の写真を次々に見せていく。もっと驚くかと思ったけれど、男はさして驚いた様子もなく、ただ冷静にわたしの手の中のスマホを食い入るように見つめる。この様子なら…と思い、音楽を流す。流行りのバンドの新曲。男は少し息を呑んだようだけど、黙っている。次にわたしはカメラアプリを起動させて、机の上に並ぶわたしの持ち物を撮った。
「どういうことだ?風景を切り取れるのか?」
今のはなんとなく分かったような気がして、頷いた。
男の手にスマホを握らせて、写真ボタンを指さす。男がそのままボタンを押せば、カシャ、という乾いた音と共に荷物の写真が撮られる。男が何かをぼそりと呟いたけれど、その意味を理解することのできないわたしはそのまま男の手からスマホを受け取り、男に見えるようにさっきの画像フォルダに移動する。フォルダに浮かぶ写メのアイコン一覧を指させば、さっきわたしたちが撮った写真がきちんと並んでいる。
『これで、写真を撮る。と、ここに移動する。これ全部写真。…わか、ります?』
飲み会の様子を指さして、ビールジョッキを掲げるようなジェスチャーをして、スマホを指さす。男は分かったのか分かっていないのか、冷静なままでじっとスマホを睨むように見つめる。うーん、なんて説明しよう。中世の人?だったら、もっと驚いたりしそうなものだけど、この人はそんな事はしない。むしろ驚いてくれた方が納得できるかもしれないけれど、男は妙に落ち着いている。電話の説明もしようかと思ったけれど、ジェスチャーだけでうまくできる気がしなかった。
音楽を聴かせても、ポーチの中を広げて、中身が女の化粧道具だと使ってみせても、大きな反応はなかった。
『えーっと、実は分かってる、とかですかね?実は通じてる?スマホとか存在してる?』
そんなわけはないだろう、と思いながらも、通じないと分かっていながらも訪ねてみると男は、ファッション誌を手に取り、どのページに何が載っているのか理解しているようにページを捲る。封は開けられていたし、もしかしたらもう中はチェック済みなのかもしれない。そして男は、人気読モのハワイ水着ロケのページを開いた。
「これはなんだ?ここはどこだ?」
何かを問いただすように、人気モデルが世界中の幸せを知っているような完璧な笑顔と白い肌、赤い水着でハワイの青い海を背に笑っているページを開いた。ページには″やっぱりハワイ!のんちゃんが行くハワイとプチぷら雑貨の旅“なんて書かれている。なにも重要なページじゃないし、そのページを見せられてもなんのコメントも出てこない。なにがそんなにこの人にとって重要なのか分からなくて『えーっと…』と首をかしげる。えーっと、中世っぽい場所だし、水着がアウトってこと?肌の露出が多いとかそういうこと?宗教的に破廉恥だとかタブーで罪?どういうことなんだろう…
「もう一度聞く。ここは、どこだ?」
男がゆっくりと言って、海を指さした。
…そうか!ドイツって内陸国だから、海がないんだ!!
きっと海を初めて見たんだ、と分かってわたしは思わず何度も頷いた。わかった。わかった!海について聞いてたんだ!
『海。海、です。うみ!』
「うみ?」
どっかに地図でも乗っていないかと思って、男から雑誌を受け取ってページを捲った。あ、あった!世界地図!
それは、ハワイロケはモデルの子の連載ページだ。パリとかロンドンとかベネツィアとかソウルとか、そういう若い女の子に人気の都市での海外ロケが企画になっている。そのモデルが移動した場所を示すように、ページの隅に乗せられた10pほどの世界地図には、彼女が移動した場所が赤い点線で表示されている。あ、しまった。まだこの時代新大陸とか見つけられてないんだっけ?あれ?アメリカが発見されたのっていつ?まあいいや、今はとにかく海を伝えよう。
『この青いの全部海。わたしはこの島から来たの。日本…ジパング!ジパングから来たの。…通じてる?』
地図の中の日本を指さして、日本でも、ジャパンでもなく、ジパング、と言って伝える。日本と自分を交互に指さして、自分がこの場所から来た人間だと伝えると、男は何かを呟いた。
「こんな広い湖があるなんて、俺は知らない」
日本は島国だから、ずっと形が変わっていないけれど、ドイツやフランスは大陸だから、領土や時代によって地図の形が変わっているに違いない。でも、沿岸の形くらい、ヨーロッパの形くらい通じるんじゃないか、という期待をこめて、男を指さす。
『あなたは、ドイツ人?あなたは、ここにいるの?わたし達はここ?』
男と地図の中のドイツの当たりを交互に指さして首をかしげると、男には通じたらしい。でも、男は首を振る。そして部屋に置かれた机を漁り、地図を取り出してわたしに見せた。それは人工的に作られた事を証明するような、妙に丸い領土だった。城郭?
「お前がいるのはここだ。その地図には載っていない。おまえは今、この、ウォール・ローゼの中の調査兵団の一区画にいる。」
城の見取り図かな?昔のヨーロッパって、城下町に壁を作っていたらしい。
万里の長城ほどじゃなくても、壁で城下を囲う。そういうことかな?それで、さっき通り過ぎた街は城下町?でもお城の中に入った記憶はない。確かに要塞のような、少し大きな建物には入ったけれど。うーん、お城なんて聞いてもあんまりぱっと思い浮かばない。城じゃなくて、ここは村?街?この地図は一体どれくらいの尺度なんだろう?
「まあいい。こういった事は俺より得意なやつがいるからな」
男はわたしには通じていないと分かっているのに、ひとりごとのようにつぶやいた。
もどかしい。なにか、単語でも良いから知れたら良かったのに。わけのわからない状況。せめて言葉だけでも分かればもっと、もっと情報収集ができるのに。せめて今が何世紀なのかくらいは知りたい。王様の名前とか聞いたら分かるかな?うーん、わたしが知っているヨーロッパの王様なんてたかが知れているしな…。っていうかドイツの歴史なんて詳しくないし…でも西暦ってキリスト教のもの、だよね?大体の時代くらいはわからないかな。日本は戦国時代?室町?いや、そもそもここは過去なの?からかわれてるだけ、とか。壮大などっきり、とか。どんどん甘くなっていく考えに心臓がぎゅぅっと痛くなる。
そんな筈はない。あの地下街も、街も、確かにそこに存在しているもののようだった。
生きている世界だった。
「夢子」
はっとして顔をあげると、男と目が合った。
男がその強い光を帯びた目でまっすぐにわたしを見ている。「確か、夢子、だったな?」という言葉の意味は分からなかったけれど、名前を呼ばれたことが嬉しくて、嬉しくて、たまらなくて、何度も何度も頷いた。
「リヴァイだ」
何を言ったのか分からず、それでも自分に投げられた言葉をもう一度聞き取ろうと思って男をまっすぐに見る。
男が小さく舌打ちをして、自分を親指で差し、もう一度、ゆっくりと、「リヴァイ」と言った。名前…名前だ。この人の名前だ。り、りばい…と繰り返すと男は頷き、何度か名前を呼ばせた。ヴぁ、の発音がうまくできるようになるとリヴァイさんは頷いた。
「面倒だが今日からお前の監視役だ」