06


リヴァイと名乗った男の言葉はもちろん分からなかったけれど、何か重要なことを言われたような気がした。

それでも自分の今の立場で拒否権はないような気がして、頷いた。
男はとりあえず現状満足したように頷き、立ち読みするにはあまりに重いファッション誌を片手で持ってぱらぱらとページを捲っていく。コンビニでこれを買ったとき、こんなことになるなんて誰が想像したのか。家に帰って、先月号から楽しみにしていたお気に入りのブランドの付録のポーチを触って、アイス食べながら雑誌読んで、録画していたドラマを見ようと思っていた。そろそろ夏物の服がほしかったし、雑誌でも読みながら流行とか、新商品とかチェックしようと思っていた。それだけだった。たったそれだけの、他愛もない日常。

リヴァイさんの手の中にある雑誌は、オシャレなカフェでのロケだった。
ももちゃんが行く麻布ロケなんて書かれている。
ももちゃんの笑顔と彼の不機嫌そうな顔のバランスがおかしい。重たい沈黙だった。何かしゃべってくれたら良いのに、リヴァイさん…いや、言葉が通じないんだし、リヴァイでいっか。下手に敬称つけても意味を分かってもらえないんじゃ、意味がないばかりか混乱させそうだし。リヴァイ、はいつの間にか椅子に座り、黙ったまま真剣なまなざしでファッション誌を捲っていく。きっと何かの情報としては、ファッション誌よりも隣にある参考書の方がはるかに質が高いはずだけど、言葉が通じないんじゃゼミの教授が書いた論文そのもののような字ばかりの本では情報量に乏しいのだろう。ファッション誌の中の東京やパリの街並み。最先端のヒールや、化粧品、新しいサプリの広告、そういったもの、来年になればなんの価値もなくなるような情報なのに、ページの隅々までしっかりと眺めていく。わたしは緊張したまま大人しくその様子を見守る。


この人は、わたしをどうする気だろう?
わたしの立場ってどうなったんだろう?

外へ出たい。何か情報がほしい。知りたい。この国がどこなのか、今がどの時代なのか、なんでも良いから知りたい。
知りたくてたまらない!


「壁の外から来たってのは!?」

どたばたと走ってくるような音が近づいてきたかと思えば、リヴァイが盛大に溜息を洩らしたのとドアが乱暴に開けられたのは同時だった。そして部屋に飛び込んできた長身の女の人が目を輝かせながら大きな声を上げ、部屋に突っ立っていたわたしを見つけて「東洋人だ!!すごい!本物の東洋人!!!」と声を上げてわたしに近寄り、その両手でわたしの顔を抑えてじっくりまじまじとわたしの顔を確認する。

「すごいすごい!禁書に書いてあった通りだ!低い鼻!黒い目!黒い髪!頭蓋骨の形がもう違うんだね!私たちに比べて随分丸い骨をしてる!それに顎のあたりが未発達なのかな?額から眼孔に掛けてのラインが随分浅いんだね!農耕民族ってやつ!?それに案外落ち着いてるじゃん!子供じゃなさそう?これで成体?それともまだ発展途中?うわぁ、文献にあった通り骨格が子供みたいだね!できれば男も見てみたいんだけど、男はいないの!?男の成体の骨格も見てみたいんだけど!!」


何を言っているのかは当然ちっとも分からないけれど、興奮した声で早口に喋りながら、わたしの顔や顎、首、二の腕、そして腰なんかの体付きを確かめるように触っていくこの人にまるで珍妙な動物にでもなったような気分になる。…いや、実際そうなのかも。女の人は遠慮なくわたしの骨格を確かめるように遠慮なくどんどん体を触っていく。

『り、リヴァイ、リヴァイ!たすけて!この人をちょっとなんとかして!』

名前を呼んだから何を言っているのか通じたのか、リヴァイは舌打ちをして、「ハンジ」とたしなめるように言った。
やめろ、って意味かと思ってリヴァイと同じように「ハンジ」と言えば、女の人がぴたりと動きを止めて、そしてますます目を輝かせてわたしを見下ろし、わたしの両手を握りしめる。もう一度「ハンジ」と繰り返してみる。あれ?通じてない?

「リヴァイ聞いた!?今この子ハンジって言ったよ!言葉通じないんじゃなかったの!?」
「大方うるさいとかやめろって意味だと思ったんだろ。言葉が分からんでも、顔を見りゃ分かる。どう見てもお前が鬱陶しいって顔だぞ」
「まさか!私にはハンジさんもっとおしゃべりしましょうって顔に見えるよ!」
「一度眼科に行け。そしてその目玉取り替えてもらえ」

リヴァイの呆れたような声を無視して、その人は自分の胸に手を置いて、「ハンジ」とゆっくり言った。あ、名前、か。
ハンジ、と言って指させば、ハンジさんはうんうんというように嬉しそうに頷き、わたしも自分の胸に手を置いて「夢子」と名乗った。「夢子…そうか、おまえ夢子っていうんだね。夢子、夢子、夢子、夢子!よし覚えた!夢子!」なんだか分からないけど嬉しそうに何度もわたしの名前を呼んではしゃぐハンジさんについ肩の力が抜ける。…ひとまず、殺される事はなさそうだと思った。



わたしの持ち物に対するハンジさんの興奮はとてつもなかった。

リヴァイの様子だと案外珍しいもんでもないのかな、とちらっと思ったけれどそれは彼が特別冷静だったからだって事はすぐに分かった。リヴァイにやってみせたようにスマホやiPodを使ってみたり、雑誌を見せたり、わたしが見せるものすべてに声を上げて大騒ぎして、自分のノートに何かをメモしていく。言葉なんて通じてないって鼻っから分かっているはずなのに、そんなこともお構いなくどんどん話しかけてくれるのが、なんだか嬉しかった。

でも、ちょっと、疲れた。
ふぅ、と息をついてスマホを握りしめる。電源の残数がもう真っ赤だ。すぐに電源が切れる!
圏外の中、あんだけいじくりまわしたせいで電源の残りがもう少ない。い、いやだ、怖い。フォルダから家族の写真を見つけ出して、じっと眺める。目に焼き付ける。お父さんとお母さんの写真。リビングでビールを飲むお風呂上りのお父さんと、テレビの右手にリモコンを持って左手でピースを作っておどけて見せるお母さん。この間帰省した時の写真。久しぶりに帰ったのに、わたしがあんまりスマホばっかりいじってるもんだからお父さんが「目が悪くなるぞ」なんて言ってきて、「へーきだもん」なんて言いながらおどけて撮った一枚。お父さんなんて少しブレちゃってるのに、でも、電車に乗ればいつでも会えるような気がする。


「夢子の両親?」

スマホの画面を横から覗き込んできたハンジさんが、なんだか優しい目をして穏やかに聞いた。
何を言っているのか分かった気がして、『おとうさん』『おかあさん』とそれぞれ指をさした。お父さん、お母さん。お父さん。お母さん。目の奥が熱くなっていき、画面がにじんでいく。だ、だめ。泣いちゃだめ。泣いたら見られない。見られなくなっちゃう!目を瞬いて、涙をぬぐおうとした瞬間、無常にもスマホの電源が切れた。

『そんな…』

ぼろぼろっとこぼれた涙がまっ黒な画面に落ち、驚いた顔でハンジさんがわたしとスマホを交互に見比べて、え?え?という顔をする。「なに?どうしちゃったの?壊れた?壊れたの?」と慌てた様子でわたしの濡れた頬に手を添えて、子供をなだめるように頭をなでる。

『もう動かない…もう動かないの…。もう、お母さんとお父さんの顔は見られないよぅ…』

うぅ、と泣き出したわたしの嗚咽で部屋が沈黙する。やばい。泣き止まないと。帰れば良いだけ。帰ったら、ちゃんと二人とも家にいるんだから。次の休みは絶対にうちに帰ろう。就職も、大した研究もしていない罪悪感から少しだけ足の遠のいていた実家。帰ったらあれこれ言われるのが少し鬱陶しくて、帰ったってすぐに地元の友達と遊び歩いた。お母さんはいつもわたしの好きなごはんを作って待っていてくれたのに、ファミレスで朝までしゃべっていた。帰ろう。帰ったらちゃんと、いつもありがとう、って言おう。

『だいじょうぶ。ごめ、ごめんなさい。大丈夫だから。ごめん。ごめんなさい』

服の袖で涙をぬぐったら、アイライナーがにじんでいたのが見えた。
ああ、今すっごくひどい顔しているんだろうな。ぶっさいくな顔しているんだろうな。さっきから黙ったままのリヴァイを恐る恐る見れば、目が合ったリヴァイが椅子から立ち上がり、そして信じられないことにわたしにハンカチを差し出した。びっくりしながらハンカチを受け取る。……えっ!?意外だ!!優しい!?

「汚ねぇ顔してやがる。一体顔に何塗ってやがったんだ?目の周りゴミ塗れじゃねぇか」
「あのねぇ、これ位の化粧はうちにもあるでしょうが。リヴァイったら良い年して女の化粧もわかんないの?」
「きたねえ面隠すつもりが余計きたねぇ顔になるだけだな」

何か言い合いを始めた二人に、わたしは思わず笑みが漏れた。



もう一度…もう一度だけ、人を信じてみたいと思った。いや、信じるしかなかった。