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僧正アルシャッドのもとで、ナムリスの顔を持ったあの青年と出会ってから、アデルは無意識のうちにナムリスをよく観察するようになっていた。気が付けばナムリスを目で追っている。
そしてナムリスもまた、当然アデルが自分を追っていることに気付いているので、時折振り返っては笑みを投げる。それは愛情を含んだ笑みではなく、からかいを含んだ笑みだったため、アデルはその割合行儀よく並んだ歯を見るたびに嫌悪を覚え、そのたびにほっとしていた。それは、自らがナムリスを憎んでいる、ということを確信させるために祈りにも似た切実さであった。


あの人は、わたしがナムリスを憎んでいないと言った。
でも、わたしはこうしてあの男を憎んでいる。
大丈夫。
大丈夫だ。


……大丈夫、とは?


自らの中に渦巻く憎悪のやり場を失い、アデルは困惑した。


最近、眠るのが怖かった。
この後宮に閉じ込められた日に見たように、アデルはよく故郷の夢を見た。
肌を刺すように冷たく凍った空気の中、空はかわたれ時のようにいつまでも薄青く、灰色の重たい雲の切れ目から金色の光が降りている。時折腐海からはぐれたのか、斥候(せっこう)に出た大王ヤンマが太古の話に聞く龍のように光の中を飛んでいる。アデルの手には、スプーンのように平たく楕円を描いたナイフが握られている。その手は獣の血で真っ赤に染まり、体温でにちゃにちゃと乾き始めている。男が狩ってきた獣を小分けにし、干物にするのは女たちの仕事であり、本来ならば一族の女たちが総出で歌を歌いながら切り分け、脂身を削ぎ、雪の上に広げ、幼子たちが生肉の甘い脂身を口に放り込もうとねだっているはずなのに、誰もいない。アデルはたった一人、凍り付いた大地の上で、死んだ獣の血に塗れて立っている。


顔が思い出せない。
家族の顔が


この場所での食事を繰り返すたび、アデルの中で何かが死んでいく。
腹いっぱい食ったことなどなかった娘が、三度の食事、会話の合間に出される甘味に慣れ始めている。なんの労力もなく出される食事。食べた事のない珍味。飲んだことのない酒。嗅いだことのない南国の果物。飢えてもいないのに、女たちの雑談の合間に口にする茶や菓子、砂糖漬けの果物…。


野生が死んでいく。
飢えを忘れ始めている。
生命への勘が鈍り始めている。


それを感じるとき、アデルは自分の中で燃えるような憎しみが消えかけていくのを覚える。
ハマムで裸の女たちを眺めながら、アデルは女たちのことを考える。
見たことのない肌の色をした女たち。黒曜石のような黒い肌や、クミンのように浅茶色い肌、乳のように白い肌、陽光のような金糸や、肉のように美しい赤い髪、濡れた夜のような黒い髪、透けるような青い瞳や、草食動物のように穏やかな緑の瞳…色んな民族の娘たち。


娘たちはそれぞれに楽し気に喋りこんでいるが、自らここに収まった娘よりも、奴隷として売られてきた娘や、他国から戦利品として納められた娘や、宗教儀式のありがたい処女として納められた巫女などがいる。
だが泣き暮らしている娘がいない。慣れた、のであろう。
たとえ親に売られて来ようとも、たとえ親を殺されて来ようとも、全てを甘受している。


ターリアは言った。
一族を殺されることも、売られることも、犯されることも、「よくあること」と。
よくあることならば、こうして三食の心配なく、辛い労働もなく、ナムリスの関心をかうことだけを日々考えながら生きることは容易いことなのだろうか。幸福ではなくても、幸運なのだろうか、と。


アデルは孤独だった。
自分の中の憎しみを吐き出す相手を求め、孤独だった。
ターリアには、アデルの憎しみは共感できるものではなかったし、他の女たちはアデルを避けた。アバヤの女たちは決して口を開く者ではなかったから心の内を知ることはできない。


気が付くと、アデルはナムリスのことを考えた。
ナムリスだけは、アデルの憎しみを知っている。
ナムリスならば、アデルの憎しみに答えを与えられる。


ナムリスの乾いた手が肌を這うとき、アデルは憎しみを再確認することができた。
自分の中に生きる理由があることを見つけられた。


ナムリスだけが、アデルに焔を与えられる。
この身を燃やし尽くすための焔を。












「これを見ろ」


絹のローブを羽織ったナムリスが、背を向けたまま声を掛けたので、アデルは泥のような疲労の中でゆっくりと身を起こし、ナムリスが指さした方をぼんやりと見つめた。ナムリスの寝所の隅、大きなベッドの足元で、レンズ豆ほどの大きさの黒い蜘蛛が巣を張っている。
蜘蛛の糸は生まれたての赤子の髪よりもなお細く、巣は今朝作り始められたばかりなのか基礎しかなく、アデルが春の山で見るような上等のレースのような巣ではなかったが、部屋の中の僅かな明かりを受けて仄かに白く光っている。


「巣は今朝、俺が壊したがまた懲りもせずに同じ場所に作り始めている。昨日もそうしてやった。もう毎日そうだ」


ナムリスは、部屋に人を入れることを嫌った。
食事をする為の部屋ならば、巨木のような柱の陰に面布の僧侶たちや、アバヤの女たちが給仕の為に幾人も控えていたが、この寝所に控えることを許されているのはアデルだけだった。本来ならば皇兄の部屋に蜘蛛が巣を張っているともあれば掃除婦長の首と胴が離れてもおかしくない事だったが、ナムリスは気にした様子もなく、それどころか楽しんでいる。


「お前は、この、蜘蛛のようなものだ」


四方に目を付けた薄気味悪いヘルメットを脱いでいるナムリスの顔が、悪童のようににやりと笑みを浮かべるが、アデルはその意味を捉えかねて黙っていたが、ナムリスは気にせずまた目線を蜘蛛へと落とす。二人そろって、大きな寝台に並んで、夜伽の名残もそのままに蜘蛛を見下ろしている光景は傍目には奇妙に映るが、口を挟む者はいなかった。まるで幼い兄妹のように、二人はじっと蜘蛛を見つめる。


「お前はこの蜘蛛のようだ。殺そうと思えば、今、この瞬間にでも殺すことができる。俺はそれを躊躇わない。この蜘蛛が俺の視界の不愉快な場所に巣を張れば殺す。俺の気付かぬ場所に巣を張れば、そのまま俺は蜘蛛を忘れるだろう。だがまぁ、さしあたり不愉快でもなければ、目の届く場所にあるからそのままにしている」

アデルの胸に、じわり、と熱が染み出した。
重い熱だった。―――蜘蛛は望んで来たわけではない。


「見ていろ」

ナムリスが蜘蛛の巣の側へ指を伸ばすと、蜘蛛が慌てたように床の隙間に身を潜めた。ナムリスはその様子がいかにも面白かったらしく、食事の合間に道化師たちが機嫌を取る舞や演武を見せた時よりも機嫌よく喉を鳴らして笑った。


「こんな豆粒ほどの虫螻蛄とて、己の命が惜しいらしい。憐れなものだ。そして、尊いものだ」
アデルがナムリスの横顔を見やり、少し息をのむ。熱が冷える。どこか、慈しみのような、寂しげのような顔をしている。ナムリスのパサついた色素の薄い髪が顔に掛かり、影を落とすからそんな風に見えるのだろうか。この男にそんな可愛らしい感情があるものか、と思い直す。


「あなたはこの後宮のどの女達のことより、この蜘蛛を可愛がっているようだ」
「お前は考え違いをしている。アデル、俺はお前以外の女たちを“見た”ことがない。まぁ眺めた事はあるがな。女たちに触れたことない。どこか遠くの美女が俺を愛しているらしいと聞いたとしても、褥は暖まらん。それよりも目の前に存在し、実際に触れることができる醜女一人を可愛がるのは当然のことだ。
この蜘蛛も、お前も、とりあえずは俺の目の前にいるから可愛がってやっているだけのこと。
お前が俺のあずかり知らぬ場所で生きていたならば、どうして俺がお前を探そうか?運命とはそういうものだ。まだ見ぬ運命の女を求めて、戦士たちは異国へ向かうが、見た事のない女をどう探す?目の前に現れ、己の目で“見た”女だけがこの世に存在する女だ。
それ以外の女などは、存在せぬも同じ事」


ナムリスの話は、アデルには要領を得ない話だった。
実際にこの後宮にはナムリスの関心を引こうとする女たちが山ほどにいる。ナムリスが求めれば女を抱くことができるのはないだろうか。それとも何かしがらみでもあるのか。この身勝手の塊のような男が、何かに縛られているのだろうか。
だがアデルは、ここに来た当初に聞いた話を思い出した。



「後宮の女を抱いたことがあると聞いた」



アデルは二十年ぶりに選ばれた女だとターリアから聞いた。
男が精通を迎えるのが十歳前後だとしても、三十歳を迎えているはずだった。だが、ナムリスが時折奇妙に老いて見えても、その肉体や顔は、実際には青年であった。誕生日を祝う習慣のないアデルには「年齢」というのは意識しないものであったが、ナムリスが四十年も生きたようには見えなかった。特に、アデル達ルドラの民は短命であった。三十歳の男といえば、長(おさ)になってもおかしくないような歳であった。


ぽつり、と洩らした言葉だったが、アデルの顔を見たナムリスの表情にアデルは鼻白んだ。
その瞳の中で、獰猛な獣の瞳が炯々(けいけい)と光ったように見えた。
アデルは感覚で思い出していた。山で蟲に出会った時のことを。
踏み込んではいけない領域に一歩足を入れた時の、身を駆ける冷たさ。音が消え、呼吸が止まる一瞬の緊張感。
ナムリスの薄い唇がにたり、と歪む。


「懐かしい話だ」


女達か、と呟いた言葉に不穏な響きを聞き取ってアデルは身構えた。
「別に噂で聞いただけだ。あなたはここを支配している。他に女を抱いた話を聞いて何が悪い?ここは“そういう”場所なのでしょう?女を選ぶ場所なのでしょう?」
取りなすように必死になっている自分に気が付いた。
ここの女達を好きだ、と思っているわけではない。だが憎いと思っているわけでもない。
ナムリスの言葉は、不吉な色を孕んでいた。首筋がざわざわとした。
そんなアデルの必死の様子を見たのか、ナムリスから空気が変わり、いつものように茶化すように瞳を細め、アデルの肩に落ちる髪を一束掬い上げてぐしゃりと握りしめる。僅かに痛む頭皮だがアデルは苦痛に顔を歪めもせずにまっすぐにナムリスの瞳を見返す。


「お前は本当に敏い娘だ」


そして捨てるようにアデルの髪から手を放し、ナムリスはアデルを押し倒して乗っかる。
息を呑んで身構えるアデルを見下ろし、征服者だけが持つ自尊心と満足感に満ちた醜悪な笑みをうっすらと口元に浮かべ、抵抗もせずにその乳房を晒してシーツを握りしめる娘を眺める。
アデルの腹を、ナムリスがそっと撫でる。


「アデル、お前は若いな。途方もなく」


ナムリスの手は乾き、いつもひどく冷たい。
指の節々にできた肉刺はすっかり硬くなりささくれ立ち、アデルの柔らかな肌に触れるたびに僅かに痛みを与える。そんなアデルの微かな痛みも、羞恥も、快感への戸惑いも、すべてを確かめるようにゆっくりと撫でまわす。アデルの肌に立つ鳥肌さえ面白がるように冷たい手が滑っていく。


「お前は若い。身体のどこもかしこも張りつめている。
過去の事、未来の事、生きる事、全てのことに対して慎重で疑り深いくせに、どこかで期待もしている。無知ゆえの根拠のない展望や、苛立ち、恐れ、そういったもので張りつめている。細い体。潤いを含んで張りつめた肌。豊かな髪。毎日変わっていく肉体。生きることのコツも、やり過ごす為の術も知らずに右往左往する心と身体で張りつめている」



「俺は、そういうお前を抱くのが面白おかしくて仕方がないのさ」