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夢子達の住む後宮に、窓はなかった。

土葬の文化の夢子では感じることがなかったが、トルメキアから奴隷として連れて来られた娘たちは皆一様に、後宮での第一印象を「墓所」だと感じていた。



宗教というものが土鬼ほど濃厚ではなかったにしても、トルメキアの民衆たちの間でも宗教は存在している。
それは土鬼のように強制的に僧会の教義を押し付けられることがなかった分多岐に富んでいたが、「墓所」というのはどこも似通っていた。石櫃の墓所。土鬼が「土と泥」の文化であるなら、トルメキアは「石」の文化の国であった。
一族や村単位での死者を祀る場所は、生きるものの気配が薄く、ひんやりと沈黙している。

旧世界でビルなどと呼ばれた遺構となったかつての遺跡や地下水路に一族の亡骸を収めることもあれば、巨大な石灰岩の山を人の手で掘り進めた石室に骨を収める民族もある。だが旧世界でそうしていたように、一人の死者に対して土地を与えて個人の墓とするには、人間に残された土地はあまりに少ない。

腐海が日々拡大し続けている中、人々が耕すための土地は限られている。その為に墓所とはどこか一か所、雨風に耐える半地下、あるいは巨石群の中に作られた日の当たらぬ部屋にまとめて安置されることが多かった。





その文化に育った娘たちにとって、ナムリスの後宮というのは墓所に似て感じられた。

太陽光の入らぬ石壁の部屋には、壁一面に張られたタイル細工のせいか年中ひんやりとし、どこか湿り気を帯びた空気の中に、女が集団で暮らす時に発せられる特有の匂い(女の肌特有の、甘ったるい皮脂や頭髪の匂い、体臭をかき消す香水、少女達の乳臭さや若い汗、経血の生臭さ、乳飲み子を失った奴隷女が排水に捨てる乳と涙の匂いなど)が百年の間に石壁に染み込み、墓所で備える香油のような独特の臭いがしている。

ガス灯や真鍮製のシャンデリアが惜し気もなく後宮内を照らし続けているが、それでも常に影をまとって薄暗く、ミラルパの教義に合わせた抽象画や、ナムリスを意味する単眼が描かれたタイルたちは、修復されることなく剥がれるに任せて所々崩れ始め、大理石の床は山羊革のサンダルを履いていても、その硬さと冷たさが足裏に伝わる。





わずかに日光が入る場所といえば、中庭があった。

四方を下位の娘たちの部屋で囲まれ、外界の景色といったものは見えないが、それでも太陽の下に自然と女達は集まった。中庭には井戸場があり、先帝の頃に植えられた植物に水をやる女がいれば、どこからか持ち込まれた土を持って僅かな菜園を世話したり、侍女を持たぬ娘や老婆がそれぞれの衣類を洗濯したり、他の女たちから賃金を貰って洗濯をしたり、そもそも仕事の合間にそれぞれが僅かな菓子を持ち寄った社交の場となっている。


だが聖都といえど空気は悪い。


聖都のはるか彼方の荒涼の大地、僅かに腐海の毒を含んだ砂風が舞い、聖都の空を黄色く染め、太陽は瘴気のガスの中光を屈折させてトルメキアで見る太陽よりも大きく見えていた。この帝都の風に当たり続けることは障りがあると、トルメキアの貴族生まれの女たちは外に出たがることはなかったが、庶民の女たちは目の前の一日だけが全て。長寿のための健康などを気にする事はない。自然と後宮での階級が低い女たちの憩いの場となっている。

夢子は一度ターリアに連れられて顔を出していたが、庶民の女特有の隠すことのない物見高さや、女たちの余所余所しさや奇異の目、露骨な嘲笑、罵倒に耐えられずにすぐに引っ込んでしまい、それから顔を出してはいない。だがここに通うようになっていれば、ナムリスの命を受けた女たちが夢子を部屋に帰しただろう。

夢子の価値はその清浄な肉体神話にあり、それが全てだった。






高位の女たちが夢子を憎むのは、夢子が皇兄の寵愛を受けているからだ。
だが庶民の女たちが夢子を憎むのは、夢子がその身体を皇兄に売っているからだ。

後宮の慣習として、閨を重ねればそれだけ夢子には褒美が出た。それは絹であり、衣装であり、絨毯であり、宝石であり、香辛料であり、菓子であり、金銭であった。夢子の気持ちなどは、女たちには関係がなかった。



なにより単純にナムリスは人気がなかった。軽蔑されていたといってもよい。

言語や宗教、習慣の違う多民族国家土鬼諸侯国連合帝国では、初代の皇帝や、ミラルパの持つような超常の力を持って統一された言語や教理でまとめ上げなばならないが、兄でありながらナムリスにその力はなかった。元来長兄を重視する土鬼の文化において、兄でありながら力を持たぬナムリスはそれだけで庶民にとって無能の代名詞であったし、それに反発するように恐怖で支配しようとするナムリスの政策は暴君でしかなかった。

ナムリスに、身体を開き、金品を受け取る。

そんな夢子は庶民の娘たちにとって市井の売春婦よりも罪深い売春婦に他ならない。



民族の誇りがあるならば、褥の中でその首を掻っ切って死ねと言う女もあれば、ナムリスを蹂躙して政治に関与して庶民を助けろという女もあるし、反対に保守的な民族の娘の中には処女を奪った男ならば添い遂げるように尽くすべきだという女もいる。夢子の境遇に同情をする娘もいたが、村を焼かれる事も、暴行を受けることも、売られることも、ターリアのいう通り“よくある話”だったし、後宮の女たちはそれを経験していた。だからこそ、いつまでも悲劇のヒロインぶって態度を決めかねている夢子の煮え切らなさが腹正しかった。なにより、自分たちが失っても得られなかったものを、夢子は得ている。



ナムリスを手玉に取って女王のように振る舞うのも良い。
ナムリスの寝首を掻いて、その誇りの為に死ぬも良い。
ナムリスを嫌って、後宮の女たちに馴染むのも良い。

だが夢子はどれもしない。



ターリアという痩せた小娘ひとりを友とする以外、誰とも交わることもなく、ただいつもどこか遠い目をして黙り込んでいる。

後宮に閉じ込められ、刺激に飢えた女たちにとって、夢子は最も面白い話題になるはずだったのになんの張り合いもない様子に落胆している反動もあって、女たちは夢子の悪口を言うを最大の憂さ晴らしにするしかない。夢子がもっと野心的な悪女であれば、女たちにとっては最高に面白い娯楽になった。









「なにやらお前には人望がないらしいな」

その夜、夕餉の席に夢子を呼び出したナムリスは夢子の仏頂面を見るとすぐにそう言いだした。ナムリスも弟から与えられた職務がない限り、食事や寝床に夢子を呼び出してはその小娘の感情の動きを弄ぶことを楽しみとしていた。夢子にとっては良い迷惑だった。結果、後宮の嫌われ者同士がしょっちゅう顔を合わせることとなる。

夢子もなんと答えて良いか分からなかったので黙った。それが事実であることを知っていたし、人望が欲しいとも思っていなかった。ただ夢子にはまだ自分の世界の外を見る体力がなかった。夢子の心はいまだ、雪山に囚われている。


「おまえがわたしに触れる。女たちはわたしをお前の女だと思っている。だから憎む」
「なんだ、つまらぬ事を言うようになったな」


がっかりだ、と言わんばかりにナムリスは冷めた目で夢子を一瞥し、口に錠剤をいくつも放り込んで酒を飲んだ。燃料になるほど強い酒だったが、そんなものでなければナムリスはもはや酔うことはできない。火がつくほど度数の高い酒を煽れば、口から胃まで燃える道ができるようなキリリとした快感があった。それを何度か繰り返すとようやく気分も良くなった。



「俺はおまえが自由だから気に入っていた。だが結局女たちの中にあって“形”を与えられては孤高のルドラの末裔といえど、ただの娘だな」


夢子にはナムリスの言葉の意味が分からなかった。
夢子は自由ではない。その自由はこの男が奪い、こうして薄暗く息詰まる中に閉じ込めたのだし、自分は紛れもなくただの娘だった。形を与えられるとはなんのことだろうか?



「お前だけは自由なままでいろ。それがお前だ」



ナムリスの呼気から強い酒の匂いと、そして時折ナムリスから発せられる奇妙に乾いた老人のような匂いが混じり、ナムリスの正体を惑わせる。ナムリスの形が歪む。若者なのか、老人なのか。夢子はその蜃気楼を見定めようとするかのように、じっと黙ってナムリスの言葉の続きを待った。

そういう時、夢子は本人でも気付かないうちにナムリスの言葉に心を傾けていた。



ナムリスの話は、面白い。



ルドラの誰も考えたことがないような事を考える。それは時に火を囲んで村の大婆さまから聞く、太古の悪霊の話を聞くときの怖さと好奇心に似ている。ふいに闇夜にブータ(お化け)がいるのではないかと身をびくつかせてしまうのに、それでも聞かずにはいられない。ナムリスの言葉には、ルドラの民も、ターリアも、女たちも持っていない力があった。