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「俺は、おまえに名前を与えなかった」




夢子が大人しく言葉の続きを待っているのを見て取り、ナムリスはにやりと笑みを浮かべて言葉を続けた。
その色素の薄い瞳が夢子をまっすぐに見つめ返す。だが双方に敵意はなかった。



「女がこの後宮に入るとき、俺は女たちに名前を与える。


お前の連れている娘はタリア川流域から来た娘だ。だからターリアと名付けた。安直だが名は生まれも、出自も、そして未来も表す。例えば俺はある娘にギュル(薔薇)と名付けた。薔薇のように美しい娘だったからだ。その娘は、その名に囚われた。自分はギュルなのだから、美しくなくてはならない、と。娘は暇さえあれば鏡を覗き込み、ハマム(蒸し風呂)で身体を磨き、美を求め続けた。そのうちに怪しい美の霊薬とやらに大枚を使うようになって死んだ。最後には薬の影響で老婆のようだったときく。だが薔薇は枯れる。最後には土色に乾いて萎れ、握ればバリバリと砕け、粉となって散る。ギュルという名は女の現在でもあり、未来でもあった。名は、その存在を縛る」



ターリアはナムリスから与えられた名を何よりも喜んだ。
ナムリスが己について、タリア川の宝石たちより価値があるのだと、石を支配する者になるだろうと名をくれたと話していた。だから、親から付けられた名は捨てたのだと笑っていた。



「名前を与えられるということは、その名の形に縛られる。名は契約となる。名は地位となる。女官長だとか、皇帝だとか、農婦だとかいうのも名の一種だ。その名を与えられる事は、その名に使われるようになること。その名の“形”にしてしまう。
神を見ろ。我が偉大なる弟が神に名を与え、神の力を民衆に知らしめた。するとどうだ?それは神の力の限界を作り、神から全能感を奪っただけではないか?愛の女神などと名を与えられれば、本来は豊作や知恵や戦、ありとあらゆる森羅万象に対して全能であった神を愛に縛り付けた。神の自由を制約しただけに過ぎない。そして弟は神の姿までも形を与えて国中の寺院に彫像を彫らせ、神の英知なる姿に限界を与えた。

神とは名を持たぬ者。神とは姿を持たぬ者。

人間の想像の及ばぬ存在だからこそ恐ろしく、また偉大なんだろう」





夢子は顔色を変えることなくナムリスのいつにない饒舌な言葉を必死で聞き取っていたが、柱の影で静物となってナムリスと夢子に給仕をしていた女たちは息を呑んだ。ナムリスのための酒淹れを持つ手が震え、女たちは心の内でミラルパの教理に乗っ取った謝罪の言葉を必死で叫び、いつミラルパが超常の力でその身を引き裂くのかと震えあがった。事実、ミラルパは心を読み、肉体を引き裂く事ができた。それは目に見えぬ神より恐ろしい現実だった。だからこそミラルパは尊敬された。ナムリスよりも偉大な存在だった。だからナムリスは皇帝にはなれない。



「俺はお前に名を与えなかった。お前には、名も、形も与えなかった。
坊主どもの中にはお前に地位を与えよという者もいる。俺が抱くに相応しい教養を与えよ、などと言う。だがお前は野生の娘だ。野生であるからこそ美しい。ハセキ(寵姫)として名を与え教育などをすれば、それはおまえの野生を殺すことになる」



―――野生を殺す。
背中にひやりとしたものが流れたような気がした。
夢子は夢を見る。故郷ルドラの雪山の夢を。そして腹いっぱい食うことで何かが満たされていく中、自分の身体から何かが滑り落ちていくのを感じていた。
それをまさにナムリスに言い当てられたようで、夢子はぎくりとした。
得体の知れない男だと思いながら、夢子はナムリスの言葉に魅かれている自分を感じずにはいられなかった。
ターリアからは得ることのできない、共感だった。




「俺はお前に名を与えない。形も与えん。
周りがおまえを“ナムリスに抱かれる女”という名を与え、おまえの魂を縛ろうとしても、おまえは縛られてはならない。何度俺に抱かれようとそれは肉体のこと。お前の魂を犯した訳じゃない。お前は、お前のままでいろ。周りの呪いを受けるな。揺らぐな。名前も役職も肉体も、お前の魂を縛るものではない。
魂に触れることは誰にもできん。念話は魂の領域までは侵せん。魂を支配する者は、魂の持ち主だけだ。女たちが与える名に縛られるな。そんな“形”になるもんじゃない。


俺は強い者が好きだ。型にハマった者などつまらぬからな」





夢子は公用語で禅問答をすることはできなかったが、“形”というものについてうっすらと分かったような気がした。
分かったような気がしたが、それと同時に自分が分からなくなっていた。自分の形とはなんだろうか。あの山にいた自分と、この場にいる自分は何が変わってしまったんだろうか。
精神教育を受けることのなかった夢子には、ナムリスの言う「神」は分からなかった。
夢子達の神は自然そのものだった。



「あなたは、この国の神を信じていないの?」
「知らん。俺は会った事がない。だが“仕組むもの”はいる。
お前がここにいるのは、天がお前に決めた運命だからじゃない。俺の子を作らせようと坊主たちが仕組んだこと。より多くの力を持たねば、仕組むものの計画に取り込まれる。おまえ達の一族は坊主より力がなかった。だから坊主の計画に巻き込まれた。そして俺は神に会った事がなく、超常の力を得られなかったから百年、坊主どもと弟にこき使われている。
だがお前は一人だ。誰よりも強い力を持たねば、これからも誰かに仕組まれ続ける。
恐れるものは何もない。何かを諦める必要もない。お前が立ち向かうべきは神ではなく、血と肉を持った、ただの人間だ」



そう言ってナムリスは自嘲するように笑った。
ナムリスと夢子では敵がまるで違っていたが、土鬼の内情など知る由もない夢子にはナムリスの皮肉げな笑みの意味は分からなかった。そんなナムリスの心を察するより、夢子の胸は不安にざわついた。



ナムリスは言った。恐れるものは何もない、と。
ただ、夢子は恐ろしかった。自分自身が、恐ろしかった。
ナムリスを憎み続ける事が難しくなっている自分が、恐ろしい。



薄々理解し始めていた。

ナムリスがルドラを虐殺することを指示したわけではないのだと。
憎むべき存在が他にいる。
なら自分はナムリスに対してどういう感情を持てば良い?
だがナムリスはこの身体を穢した。だから憎める。


憎むことは簡単な事だった。
それが一番考えずに済む事だった。






「目下、おまえには神殺しよりやってもらわねばならん事がある

――――いよいよ出兵だ」