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ナムリスはこの出兵を単なる国境沿いの小競り合いだと言ったが、夢子にとって村の男たちとグール(人食い)の間で行われる以上の戦闘であるに違いなかったので、ナムリスの船の艦橋から整列する軍勢を見下ろしてその数に圧倒された。


ナムリス軍、数3千


それはナムリスの持つ兵力の全てではなかったが、それでも夢子にとっては世界中の男が集まっている光景のように見えた。夢子が今までに見た事があるのは、みな村の男か、自分たちを殺しにやって来るグールや人買いばかりだった。この年になるまで、夢子の世界は夢子の村で完結していた。外界とは、恐ろしいもの…しかし、どこか憧れる空想上の世界だった。



船団を見たことがあった。
僅かな草場で家畜に草を食ませ、岩塩を舐めさせているとき大きな船が轟音を立てて頭上を飛ぶのを見た。月のない夜、テントの外に立つとき、雲の切れ間をはっきり見せるほど明るい一行が星空だけが光る夜を羽虫のように群れとなって飛んでいくのを見た。自分がまだ少女だった頃、あの船に乗ってどこか遠くへ行く自分を空想したことがあった。ここではないどこか、遠くへ行って、自分の知らない自分に変わるのと空想した。全く知らない男と結婚し、知らぬ土地で見た事もないものを食べる自分。山歩きの目印となっている凍り付いた他民族の死体のように、見知らぬ衣類を着ている自分を空想した。





その空想の船の行き先は、戦場ではなかった。
そして自分を抱く男は、こんな男ではなかった。


全てがあの空想が招いた恐ろしい現実なのだろうか、と一瞬寒いものが胸を駆けた。
村を出ることを空想していた罰が下ったのだろうか
心臓がドクドクと五月蠅かった。



もうあの頃、自分がどんな楽しく、無邪気な空想をしていたのか、思い出せなかった。












振り返ると、普段の不気味な多眼のヘルメットを着用し、ゴテゴテとした戦闘装束に身を包んだナムリスが机の上に何かを広げ、幹部僧兵たちと何事かを話し込んでいる。そうする間にも荷を積み終えた輸送船がプロペラを回転させ、ゆっくりと浮上していくのを大きな一枚ガラスの窓に手を添えて、夢子は見守った。


後宮の女たちに囲まれた、華やかでいながらどこか重苦しく、息苦しい空気とは違う、男たちの活気に圧倒されていた。面布を付けた僧兵ばかりではなく、どこかの村から徴兵されてきたのか、簡単なズボンだけを履き、日焼けした逞しい身体で、蟻のように連なり、せっせと荷を運びいれる若者たちや、村なら顔役になっているだろう中年層の男たちがより固まって何事かを議論する様子。そういった活気を見せつけられ、夢子は息を呑んだ。なにより、注目されぬことで開放感を覚えていた。





土鬼にて女戦士はそう多くはない。

だが妾や巫女を戦場に連れる男もいない事はなかった。ミラルパの僧兵だけで構成された精鋭部隊ならばそうはいかなかっただろうが、僧侶ではないナムリスが指揮する軍隊では、トルメキアの貴族軍のように女連れを暗黙のうちに許される気風があった。


ナムリス自身、血に高ぶると女を欲する若者の欲求を覚えていた。
僧侶は女体を禁じたが、変わりに少年兵を慰み者にする者も少なくなかったが、ナムリスにとっては男に抱かれる生き物である女よりも、いずれ男となり戦士となる少年に手を出す方がよほど忌まわしく感じられる。そういった事もあり、市井の大店の売春宿が独自の船で軍隊の後をついてくる事さえ黙認していた。


そうした事情もあり、女の夢子はさほど注視されぬ事もあったが、何より夢子が身にまとう単眼の戦衣を見て意味を悟らぬ者はおらず、自然ナムリスの“持ち物”を直視してはらぬと夢子を視界にすら入れまいと目を逸らすのだった。



「おい」



男たちの群像劇を飽きる事なく眺めながら物思いにふけっていた夢子に、突然ナムリスから声が掛けられた。
ナムリスを見やると、ナムリスは机上から目を離さぬまま口を開いた。



「一時間もすれば船は経つ。おまえにできることはない。目障りだ。部屋に帰っていろ」



その言葉を合図に、夢子の世話をする為だけに付き添わされた女官が音もなく陰から現れ、その黒装束からぬっと白い腕を出して夢子の手を掴み、皇兄に女形の最敬礼をした後に夢子を引っ張って艦橋を出た。女官は男の前で声を発してはいけなかった。故にそうするのだが、女の真っ赤に染められた長い爪が手首を強く掴み上げ、女が歩くたびにその身に装飾されている金銀の装身具がガチャガチャと鳴る音を聞きながら、夢子は眉を寄せて胸を押さえた。



いつまでこんな事が続くんだろうか
いつまでこんな日々を過ごすんだろうか
ルドラへ還りたい。

一族の埋葬をしたら、いっそそこで死んでしまいたい。全て終わりにしたい。



あの頃憧れた外界は、美しい世界ではなかった。
楽しいものなどなにもなかった。


帝都の街は混沌だった。奴隷と貧困に溢れていた。婆様のおとぎ話に聞く美しい文明の楽園なんてなかった。
これが世界だというのなら、もう充分にわたしは見た。これ以上魂を穢すことのないうちに、もう全て終わりにしたい。





”お前は、お前自身で、お前の内に巣食う怒りと悲しみを食べてしまうしかない。
食べたものは、消えはしない。おまえの血となり、肉となる”



ふいにアルシャッドの言葉が脳裏を過ぎり、夢子は女に腕を引かれながらぎゅっと目を閉じた。激しい動悸に眩暈がした。
艦橋にいた頃から、なにか妙な予感にずっと寒気がしていた。



“お前は、お前のやり方で、一族の弔いをしなくてはならない”



途端に、自分がこの身と引き換えにナムリスに対してなにかとんでもない取引をしたのではないか、という気がした。
一族は、この埋葬を歓迎するのだろうか。


母は、娘が身体を売った引き換えに土に還る事を喜ぶのだろうか。





わたしは、最も卑しい道を選んだのではないだろうか









女官が投げるように夢子を狭い部屋へと放り込んだ。

一応は士官室となっている部屋だが、4畳ほどの部屋の両脇に狭い簡易ベッドとトイレが置かれただけの独房のような部屋であった。夢子は荒い目の絨毯に乱暴に転がるように身を打ち付けたまま、摩擦で火傷のように熱を帯び始めた腕や膝の熱を感じながら、ようやく女二人となって口を開いた女官の悪態を浴びた。



「ったくなんでアタシがあんたにくっ付いて戦場に行かなきゃなんないんだい?ええ?皇兄様から恩賞が出るとはいえサパタなんて辺境まで連れて行かれるだなんて割りに合わないのさ。あんたもアタシがどれだけの危険を冒して奉仕してやろうってのか分かったら少しは皇兄様に働きかけておくれよ。アタシは自分のお嬢様方に頭を下げて来てやったんだ。お嬢様方はアタシがいないと靴下一つ用意できないんだよ。後宮に戻った時にゃ格下のクナファに仕事を取られちゃいないかと気が気じゃないよ」



だが夢子の耳に女官の言葉は届いていなかった。
後宮の倦怠した空気の中、霞がかったように思考を覆っていた毒の霧が晴れていくのを感じ、すると自分が選んだ道の全てが恐ろしくなった。





本当に、ナムリスの子を孕んだら、自分はどうなるのだろうか



“お前は、自由になれる”



ナムリスの囁く声が耳に蘇える。
そうして得た自由の中、自分は幸福になれるのだろうか。いや、幸福という気持ちを再び感じる日が来るのだろうか。一族の弔い。自分は一番、簡単な道を選んだのではないだろうか。

この身を売った代償の葬儀
この身を穢した男の、子を孕んで得る自由


ルドラを穢したのは、自分だったのだ。


ナムリスは、その全てを見透かしているのではないだろうか