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女官は持ち込んでいたオヤ(レース)編みをしながら時間をつぶしていた。
以前、夢子が僧正のところへ使いに出された時に案内の役目を与えられた縁により、こうして再び自分が夢子の世話役に選ばれたことも、ましてや戦場に連れて行かれることになったことも全て腑に落ちなかった。


女官は恐怖していた。


幼いころに後宮に入って以来、外界の貧しさや戦と無縁の日々を送っていたというのに、こうして月経も来なくなったこの年になって、前線などと言われる場所に連れて行かれるとは思ってもみなかったのだ。女官には帰国後、女官頭より特別手当が出ると聞いていたが、しかしそんなものは命あってのものだという事を、金品よりも命こそ尊いものだということを女官は後宮に入って初めて思い出していた。



女官がせっせと指を動かせば、ナス科の実より染めた糸が徐々にザクロの花や実の形になり、ひとくさりのレースのリボンが出来てくる。普段ならば後宮の女官仲間と噂話をしながら編み込むものを、ここでは一人、ただ黙々と続けるより他なく、女官はすでにザクロや青いケシの花のオヤを完成させていた。これらは後宮での女官や奴婢の暇つぶしであり、後宮内で取りまとめて市井へ売り出し、売れた分やその技術によって受け取る金額の変わる小遣い稼ぎでもあった。


世界の半分が腐海に埋まっても、人々は祝い事をする。
こうして作られたオヤは市井の母親が娘の初経や婚姻を祝って、それぞれ意味の分かれた花を買い求めては、娘のベールやスカーフに縫いとめてやるのだ。


そしてそのオヤを編みながら、女官は今脅えていた。
錆を含んだ砂に黄色く汚れた分厚い窓を見れば、自分たちの船を囲むように武装したコルベットが連なり、重いエンジン音を立てている。そっと地上を見下ろせば、女官が見た事もないほどの腐海の深部がカビのような薄もやのかかった緑の森が広がり、何か黒いものがチラチラと飛んでいるのが見える。蟲であろう。
ナムリス達の艦船は、サパタへの最短合流を目指し、聖都とサパタを隔てる腐海をかなりの高度を保ちながら突っ切っていたのだ。


指を動かすも、後宮の水場でするのとは違い、苛立ちと恐ろしさに指が震えたり、糸を手繰る指が虚空をかすめたり、糸の結び目が逃げるのを更に苛立ちながら黙々と指を動かす。内臓が冷や水を浴びたように冷たいような、煮え湯を飲んだように熱いような感覚がする。


こんな所で、何か攻撃を受ければどうなるのか。
この娘は皇兄さまのお気に入り。女官の私も娘についていけば脱出はできるだろうが、船を脱出したとして、足元は腐海ではないか。トルメキアからの攻撃でなくとも、足元の腐海から蟲の大群でも襲ってこようものならどうなるのか。皇弟さまのような神のお力のない皇兄さまの船などどんなお力が守ってくださるというのか
なぜ私が戦場になど行かなくちゃいけないのか。子分のクナファが今頃お嬢様方に取り入っているんじゃないだろうか。大体どうしてお嬢様はあたしをまた戦場になんて出すのか。この間、トルメキア人の奴隷市が立った時、ニレ族の指輪を見つけてくることができなかったことをまだ怒っているんだろうか。あれはあたしの落ち度じゃないっていうのに。ああ、あたしがいない間、あたしの知らない事が後宮で沢山起こるだろう。そうしたらあたしはクナファに遅れを取っちまうじゃないの。


あぁ、後宮のハマム(風呂)とフムス(デザート)の懐かしいこと!




「とても、きれい」


はっとして顔を上げると、夢子が自分の手元を見ていた。
娘は釘付けといっても良いような、何か憧憬を抱くような目をしている。こんな澄み切った瞳を見たのは、女官は初めてだった。まるで村里の名もなき少女のようだ、と一瞬感じてから、すぐにそうだ、と納得した。この娘は、“名もなき少女”だったのだ。


名もなき少女


そこに思い至った時、女官はふとこの娘の身に降りかかった“厄災”とはどれほどのものだったのだろうか、と感じた。辺境地の、名もなき少女が今、皇兄に寵愛され戦場まで伴をする。自分があのまま村にいて、娘を授かれば、これほどの年頃だったろうか。幼女の頃に後宮に納められて以来、四十を超える年となった今となってはもう過ぎた事だった。



「あんた、見たことないのかい?」
「はい。時折、誰かが輪になって作っているのは見ました。けれど、こんな近くで見たのは初めて」


夢子は、目線で触れるようにじっとその繊細なオヤを見つめて、ほうと溜息を洩らした。
女達は夢子が近寄ろうものなら額がくっつくほど顔を突き合わせ、夢子の頭の先から足の先まで眺めては「髪型が垢抜けない」だの「優美さの欠片もない身体だ」と何かにつけて話題にするのに忙しく、夢子としても女たちの輪に近づくことはできなかった。
閉じ込められた世界で閉鎖的に生きる女たちは新参者に厳しかったし、その新参者が自分たちより遥かに“恵まれた者”であるならただ敵でしかなかった。


「触ってもいいんだよ」
「ありがとう。嬉しい」
夢子が恐る恐るというように、柔らかな糸の連なりで生まれたザクロをそっと手に乗せる。親指の先ほどの小さな縫物ながら、花弁や実の豊かさを感じるような光沢のある美しさに夢子は知らず「きれい」と零した。


「あんたトコはこれを被らないのかい?」
「これは被るもの?」
「あたしはモドの生まれだけど、あそこいらの乙女は聖都の女より分別があるからね。このオヤを自分のスカーフや枕に縫い付けて亭主や男親に自分の言いたい事を伝えるのさ。アーモンドの花なら好いた男がいるとか、ヒソクサリなら家庭に不満がある。ムシゴヤシならそろそろ子供が欲しい、ヒヨス(ナス科の毒草)なら姑に苛められている、とかね。シュワの娘はすっかりこういった技法を忘れてしまっているから、後宮にいる村々からきた女達が編んでは町へ売っているのさ。なに、慣れれば手慰みになるものよ」


女官はふと自分が夢子に対して対等のような口の利き方をしていることを思い出した。
初対面のとき、寺院に夢子を連れて行った時はまだ女官としてのプライドを保っていたつもりだったが、戦場へのストレスのせいかすっかり「女官」という被り物を脱いでいた。そしてそれに対して夢子が気に留めた様子もないことが、自然に女官をひとりの女に戻していた。


――――そういえば、この娘はいつも気に留めることがない。
まるで目の前のものより、遥か遠くを見ているようだ。




「それでみんな水場や食堂でこれを編んでいたのね。ターリアはよく知らないの」
「あの娘はタリア川のほとりの部族だろ?内海のモドとは国が違うんだよ」
「そう…。わたしは、土地のことも国も、なにもしらない」
「辺境から出てきたばかりなんだから当然だろ。シュワの娘だって噂話以上の学なんてありゃしないよ」


恥じるように目を伏せてオヤから手を放し、目を伏せた夢子の、白い瞼の薄さに、女官はこの娘の弱さや幼さを見た気がして、思わず情けの言葉を掛けた。この娘は、まだとても幼いのだ。この肩の丸み、細い首、甘い頬、痩せてはいるが、てんで子供じゃないか。下界において娘に初経がくれば女親は婿選びに奔走するし、15にもなれば子を授かる娘も多い。シュワの商人や貴族の娘ならともかく、村では人は50歳にもなれば黄昏の頃だった。



「学のことだけじゃない。わたしは、わたしの目の前のことを見ていない。目に入っても、触れてはいない。“食べて”いない。わたしは、自分の目で見定めなくちゃいけない」




女官にはなんの事だかわからなかった。
だが夢子は一人、納得したように頷いた。紙のように白く青ざめていた頬に、わずかに赤みが入ったように見える。泣くだろうか、と女官は思ったが、夢子は泣かなかった。ただ白い頬にわずかに血色が灯った。そうだ。後宮で垣間見るこの娘は、いつも白い顔をしていた。女たちの声も、女たちも目に止めることなく、白い顔で唇を結び、足早に通り過ぎるばかり。そんな夢子を見て、自分たち女官は自分たちが贔屓にするお姫様方の薔薇色の頬や、まろやかな肢体の甘い女の美しさを賛美していた。



「名前をおしえて」



夢子の静かな瞳がまっすぐに自分を見ていた。
女官はなぜか自分の頬が熱くなるのを感じ、ぼうっとするように口から言葉が出ていた。



「ニマ。日曜日に生まれたから、ニマ(チベット語日曜の意)」





ニマ、と唇の中で呟いて、夢子はほほ笑んだ。
先ほどまでの少女の寄る辺のないほほ笑みではなかった。




もうニマの身体は震えてはいなかった。