26

夢子には、船が一体どこを飛んでいるのかまるで検討がつかなかった。
ニマはあれから夢子にオヤの編み方を手解きしていたが、夕方、酸の湖群を越え、新たに出現した地上の腐海より蟲が斥候を出したのか、大王ヤンマのその口のピンクの肉色に光る触手さえ見えるほどの至近距離を飛んだのを見、気が狂ったように騒ぎ立て、窓を抉じ開けて飛び出すのではないかと思うような狂気で暴れるニマを取り押さえていた夢子は、部屋へ飛び込んできた兵士がニマの腕に針を刺し、ニマが「グゥっ」と唸ったかと思うとぐったり崩れ落ちたのを見て、咄嗟に腰に刺した小刀を抜いて兵士に飛びかかった。


だが兵士は、若く、抜き身で飛び掛かってきた夢子の力など物ともせず、夢子の腕を取り押さえて小刀を叩き落とした。僧兵達は、女人の部屋に入る事が出来ずに面布の下でキシキシと不規則に歯を鳴らし、僧兵にだけ通じる言葉で夢子へ侮蔑の言葉を言い合った。僧兵は夢子の無知を嘲った。
若い兵士は、抵抗する夢子の頭をニマの胸に押し付けた。


「落ち着け!」
夢子は、ニマのふくよかな胸が呼吸を伴って上下に動く暖かさを感じて脱力した。
「眠らせてやっただけだ。こういう時はこれが親切ってモンなんだ」
ニマの頬に掛かる髪を退けてやり、ひきつけのように恐怖で強張っていた表情から一変、口を開けて眠り込んだニマの顔に夢子はほっと息を吐き、兵士を見上げた。


そのそばかすの浮いた肌の色は褐色で、精悍ながら妙に人好きのするような甘く垂れた瞳をしており、夢子は状況も忘れて「おや」と思った。ハマム(蒸し風呂)の女達の肌の色は実に様々だった為、ルドラ族とは違う人種を見た驚きではない。その兵士の笑みがあまりに健全だった事を意外に思った。ナムリスの連れてくる世界の中、毛色が違う存在だと感じた。兵士はポカンとした夢子に構わず、ニマをひょいと抱え、対になったベッドのひとつに寝かせてやり、野次馬をする僧兵を押し退けて部屋から出て行った。


「この鎮静剤、あんた用だったんだがね」

残した言葉の意味が分からぬ夢子ではなかった。
あの男は、女に触れられぬ僧侶の代わりにナムリスが寄越した監視役なのだ。











あれからニマはまだ眠り続けている。
船団は蟲も腐海もやり過ごしたのか、すっかり夜となっていた。
夢子はベッドに腰掛け、窓の下に広がる雲を眺めた。これから人間の殺し合いに行くとは思えないほど、静かな夜だった。
窓に自分の顔が映って見えた。



山にいた頃、精巧な鏡というものは持っていなかった。
錫(すず)で出来た赤子の握り拳ほどの小さなものをひとつ、母が持っていた。
婚礼の日に、父が母へ贈ったものだと聞いていた。山へ迷い込んだ旅人を世話してやった時に礼として受け取った物だった。金属で出来た鏡は、手の脂や布傷などで曇ってくる。そうすると父は火の側に座り、鏡面を丁寧に砥石で削り、磨いてやる。磨かれた鏡はまた銀色に光る鏡面に、うっすらと白んだ顔を映した。夢子はそうした両親の姿を見るのが好きだった。寡黙な父の、母への愛情を感じるようだったし、父の膝に頭を乗せて、じっとその手つきを眺めているのも、時折頭を撫でてもらうのも好きだった。母は言った。


おまえに夫ができる時は、この鏡をおまえにあげよう、と。
そして今度はおまえの夫が鏡を磨いてくれるのよ、と。


後宮の鏡を見た時、夢子は言葉を失った。
自分の全身どころか、天井から床までそっくりそのまま映り込むような大きな一枚鏡。
なによりその精巧さ。母の鏡では見る事のできなかった、自分の姿。
母の鏡に写る姿は、錫の銀色の中、所によっては縮んだり伸びたり、膨れたり引っ込んだり、歪んで見え、白く光る中にぼんやりと幻のような姿で写った。だが後宮の鏡はちがう。純度の高い水銀をコーティングして磨かれた上に、ガラスでもって更に精度高く姿が映り込んだ。そして男によって磨かれる必要などなかった。



ナムリスの後宮で、夢子は生まれて初めて、自分の姿形、瞳の色を知った。



首筋に触れてみる。
こんな場所に黒子(ほくろ)があった事など、後宮へ連れて来られるまで知らなかった。
母の鏡では見えなかったものが、姿を映す為のものでない窓でさえよく見えた。ルドラでは、自分の姿形など気にしたことなどなかった。だが後宮では、娘達はハマムの鏡の前に座って髪に櫛を入れたり、肌になにかを塗り込んだり、装束を身体に当ててはあれこれ鏡を覗き込み、自分の姿形の見え方に一喜一憂している。


母の最上の宝物だった鏡
それがとても稚拙なものだったのではないかと考えてしまう。
わたし達一族は、女たちが言うように、無知で野蛮な種族なのではないかと考える。
揺らいでいく。
夢子の心に写る自分は、母のあの鏡を覗いたときの、鈍い光の中で揺らめく夢幻のような頼りない姿だ。




本当の自分は、何者なのか



ナムリスの元へ連れて来られて初めて知ったものばかりだ。
世界のことはもとより、自分のことさえ知らなかったことばかり。
自分がこんなに臆病だということも、首筋のほくろも、母より父に似た瞳の色も、そして、女の身体のこと。
夢子の知らない夢子の体を、ナムリスは知っている。
あの冷えた手が触れるたび、心を裏切っていく。そうするたびに、夢子は追い詰められていく。
そしてとうとう、こんな場所にまで来てしまった。



ガラスに映る自分の顔は、娘のようにも見えたし、老いて見えるような気もする。
昼間の青年を「健全」だと思った。当たり前の若さを持っていた。それがナムリスが与える世界に生きる住人らしからぬ様子だったことに意外な気持ちがあった。後宮の鬱屈さも、僧侶やアバヤの女達の奇妙で澱んだ視線もない、当たり前の青年の顔。
それを思うと、ガラスに映る自分がすっかりその「当たり前」を失っていることに気が付いた。



――――わたしは、あたらしい「形」になってしまったんだ。




ナムリスはわたしに、「名前」を与えなかった。
ナムリスの与える「名前」。「名前」は水のようにナムリスの与える「形」の中へ流れ込み、凍りついて「形」となるんだ。そうして魂を支配するんだ。わたしはナムリスから「名前」を与えられなかった。
それなのにわたしは、自分から溶けて、流れ落ちて、形の中に入り込んで、凍ってしまった。



わたしは、わたし自身で、わたしの内に巣食う怒りと悲しみを食べなくちゃいけない。
そしてわたしは、「わたし」になる。






「皇兄陛下がお呼びです」
その時突如扉の外から声を掛けられ、息を飲んだ。
夢子はすぐには返事をしなかった。
が、窓に映る自分の姿をじっと見つめ、扉へ手を掛けた。











船内のナムリスの私室へは、初めて入った。
薄暗い部屋には、読めはしなかったがそれでも夢子とニマの部屋にはない、何かの文字が壁も天井も床も構わず書き描かれている。夢子はかろうじてこの複雑な文様が「文字」だという事だけ分かったが、恐らくニマなどは読めるのだろうとその異様な装飾に半ば気圧されながら考えた。ところかそれはニマどころか僧兵にも読めぬ失われた文字だ。火の七日間以前、いやそれよりも古い、太古の文字。サンスクリットが途方も無い年月の中、あらゆる民族や土地を経由して変形してはいたが、それは呪詛を弾くまじないの言葉だった。

超常の力を持たぬナムリスを守る呪詛の壁。


その部屋へ一歩足を踏み入れると、足元は獣の毛皮を幾十にも重ねた敷物が引かれ、突如足元がふかふかとする。部屋の中は、なにかの薬のような、お香のような草の匂いがする。時折ナムリスの肌から香る奇妙な匂いだ。部屋の中央には、得体の知れぬ巨大な壺のようなものがあり、どうやらそこから匂いがしているのだと夢子は気が付いた。


単眼装飾された天井が見下ろす大きな窓の前に、ナムリスは夢子に背を向け、立っていた。
夢子はナムリスだけを睨むように油断なく見つめながら、部屋へと足を進める。
それでも部屋の隅に寝所があるのを観察し、手を握りしめ、身構える。



「昼間の蟲を見たか」


ナムリスは夢子に背を向けたまま、月明かりの中、編隊を組む船艦たちの薄青い光りを見ているようで、夢子の肯定の言葉にも「ヒヒ」と喉で笑う。
「随分豪胆な女傑だと聞いてお前に付けたが、やはり聖都奥深くで保護されてきた女だったな。後宮で女や坊主相手に謀が出来ても、蟲には気狂いになるか」
「ニマは怯えていた。ニマは望んでこんな場所へ来たんじゃない」
「そう。俺とおまえに仕組まれて″連れて来られたのさ」


――――誰よりも強い力を持たねば、誰かに仕組まれ続ける。
それはナムリスがかつて寝所で語った言葉だったことに、夢子は唇を結んだ。
夢子がナムリスと「契約」をした。だからニマは連れて来られた。





「予定より瘴気の濃度が高く、高度を上げる事になった。破裂しそうなエンジンを一度休める事になった。進路変更だ。ルドラへは帰路で向かってやる」
ナムリスがそう淡々と話した後、一言呟いた。
聞き違えだろうか、と夢子は鼻白んだ。



「話は終わりだ。とっとと寝ろ」


ナムリスは結局振り返らなかった。
夢子も何も言わずに出口へ向かった。
部屋を出る一瞬、僅かに振り返って見たナムリスは、月明かりに白く光る中、ぼんやりと揺らめいて幻のように見えた。
ナムリスの形が、わからない。







―――――悪いな


あれは、幻聴だったのだろうか