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迷子になったら最初の場所にいるのよ


それはお母さんの言葉だったっけ。
職場のある都市部からマンションのあるベッドタウンへ帰る満員電車に揺られながら、外の景色を眺めているとどうでも良い事ばかりを思い出してしまう。耳元では流行りの男性グループの曲が永遠の愛を歌っているのに、そんなことはもうずっと遠い場所のように聞こえる。日の長くなってきた春先、夕暮れの空は薄ピンクとも群青とも紫ともつかないような色で輝き、さっきまでの都会の喧騒や地下鉄や電光掲示板がウソのように遠くなり、背の低い住宅地の空を覆っている。


明日になればまたいろんな人に頭を下げる毎日だ。
学生の頃は、ううん、子供の頃は、自分には何か素晴らしい未来が待っていると思っていたし、世界はすべて思うまま、望むままだと思っていたけれど。でも、これはこれで満足している。自分ひとりで生きていくことのできる人生。学校から飛び出して、自分の力で生きていくことの面白さ。最近やっと仕事の要領も分かってきたし、自由になるお金もいくらも増えた。誰にも言ってないけど、職場にちょっと気になる人もいる。顔はそんなに格好良くないけれど、でもとても優しい喋りかたをする人。



これからわたしにはわたしの思うままの人生が待っている。
明日会社を辞めてしまえば、そういう人生が。明日素敵な人と出会えば、きっと新しい毎日が。学校では知ることのできなかった色んな秘密や、いろんな出会いを知っていく事の楽しさ。



特急電車の止まる駅で降りて、コンビニで低カロリーのはるさめヌードルとお茶とチョコレートを気だるそうな顔をした金髪の女の子から買って、マンションへと向かう。住宅地の中に立つマンションが見えてきた。わたしの初めての城。オートロックを解除して、無機質に並んだ味気ないポストから広告を取り出して、ダイエットのために階段を登る。あ、まだあそこの蛍光灯切れてる。管理人さん早く直してくれないかな。あ、そうだ、家に帰ったらこの間借りてきた映画も見なくっちゃ。早くシャワー入って、映画見ながらバラの香りのパックでもしよう。そんな取り留めのない事を考えながら、自分の部屋の扉に鍵を差し込み、誰もいない部屋に向かって「ただいまー」と言いながらドアを開けた。



その瞬間、誰かの力で乱暴に引き倒されて、その誰かが音もなくドアを閉めた。
あっ、と声を出す間もなくそいつはわたしに馬乗りになって、口を塞いだ。――――殺される!!



真暗な部屋、足をばたつかせようとしても、その男が完璧に体に圧し掛かり、指を動かすことさえできないほど体の自由を奪われる。自由になる目を、眼球が乾くほどに見開いて、男を見る。男は真暗な夜のようで、何も分からない。わたしの口を容赦なく抑えながら、呼吸ひとつ乱していない。殺される。殺される!!ガタガタと震えだした身体をどうする事もできないまま、ぶるぶる震えながら男を見上げていれば、男がゆっくりと口を開いた。


「大きな声を出さないと誓えるか」


わたしは必死に頷いた。例え男が何か別の事を誓えと言ったとしても、わたしは必死に頷いただろう。
男はゆっくりとわたしの口から手を離し、馬乗りになっていた身体から恐る恐る退いたけれど、わたしは震える身体を止めることはできないまま、玄関に仰向けにひっくり返ったまま、息だってできない。このまま殺されるんだろうか。それともレイプでもされるんだろうか。それは嫌だ。殺されるのだって嫌だ。でも、そんな死体を見て両親はどんなお葬式を挙げるんだろうか。


男が慎重にわたしを眺めながら、壁を探り、電気のスイッチを押した。
間抜けなほどに辺りは明るくなり、男の顔が目に飛び込んだ。男はどうという事のない、平凡な、いや、むしろ「格好良い」部類に入るような普通の男だった。テレビで見たり地下鉄に張り出されているような凶悪犯には見えなかった。でも、案外人殺しはこういう顔をしているのかもしれない。女をレイプでもしないと性的に興奮しない男なのかもしれない。
震えたまま、男を見上げていたわたしに、男が具合の悪そうな顔で手を差し出した。
その手を困惑したまま見つめていれば、男が小さく「すまん」と謝ったのが聞こえた。


「お、お金なら、そこの引き出しに入っています。通帳と印鑑も一緒です。だから、どうか…殺さないで…」

と震える声で泣き出すように、喘ぎ喘ぎ吐き出したわたしに、男が困惑したような、ショックを受けたような顔をしたのが不思議だった。男は顔をくしゃくしゃにして、わたしの背中に手を入れて、壁にもたれかけるようにして廊下に座らせた。



「すまない。君に危害を加えるつもりはないんだ。……水を取ってくるよ」


男は、そのまま台所の方へと姿を消した。
わたしは萎えた足を奮い立たせて、部屋を飛び出した。






『昨夜未明、XX区マンションに一人暮らしをする女性会社員の部屋に男が侵入。男は容疑を認めているも一部容疑を否定。XX警察は男からより詳しく話を聞くとし、男を住居侵入罪で起訴する方向。…さて、次のニュースは、住宅街にアライグマが出没して…』




あ、これわたしのニュースだ。
保護してもらった警察で、婦人警官からもらった熱いカフェオレを飲んでいると、静かな待合室にそんなニュースが飛び込んできた。もうニュースになっているんだなぁ、とどこか遠い気持ちでテレビを眺めていれば、わたしのニュースなんて一瞬で、すぐに住宅地を大きな網を持って走り回る市の職員の人たちの映像へと変わっていった。待合室の黒い革張りのソファーはどころどころ破れていて、けれど随分人のお尻に馴染んでいるソファーはすわり心地がよかった。ブラインドの隙間から暖かい春の日差しが差し込んで、テレビではアライグマが走って、水をもらったばかりの観葉植物は日を受けてきらきらと光っている。なんだか「のどか」としか言いようがなくて、昨夜の出来事が嘘のようだ。


でも、さっき職場に電話をすればもう警察が連絡を入れていてくれたお陰で、今日明日は休みをもらう事ができた。
苦手だと思っていた気難しい課長が電話の向こうで「無事でよかった」と泣いてくれているのが分かって、うっかり涙ぐんだ。


部屋にはもう鑑識の人たちが入り込んで、あの男の侵入経路や指紋とかを調べているらしい。
午後からは刑事さんたちと一緒に部屋を見に行んだっけ。あー、洗濯物出しっぱなしなんじゃないかな。部屋もキレイじゃないし、そういや朝飲んだカップだってそのままだ。あー、人様を呼べる部屋じゃないんだけど……なんて、考えられたのは生きているからだ。



男が「水を取ってくる」と話した隙に、部屋を飛び出したわたしはそのまま転がり落ちるように階段を駆け下りて、道路に飛び出して、犬の散歩をしていた近所のおばさんにしがみついて、泣いていたんだっけ。何も説明できなかったけれど、わたしの尋常じゃない様子におばさんがすぐに警察を呼んでくれて、運よく近くを走っていたパトカーがやってきて、それで部屋にいた男がすぐに逮捕されたんだ。



ぼんやりとニュースを見ていれば、アライグマから今度は幼稚園も芋掘り行事に変わっていた。
きっと、わたしが昨日殺されていたとしても、アライグマも幼稚園の芋掘りもニュースで流れただろうし、みんな何食わぬ顔でトースト齧りながら、最近物騒ね、なんて話したなんてことのない日常を送っていたんだろう。わたしがそうだったように。




「山田さん、少し良いかしら」

声を掛けてきたのは、さっきカフェオレをくれた婦人警官だった。
隣にはわたしの事件を担当するという刑事さんが立っている。
「少し、刺激が強いかもしれないが本人照合が残っているから、あの男を見てやってもらえますか。もちろんマジックミラー越しだからこっちの事は分からないし、こっちの話し声は向こうには聞こえない。安全は保障されています」
「…はい」
壮年の刑事さんはテレビドラマに出てくるような悪そうな顔をして汚いトレンチコートを着た人ではなく、スーツを着た、普通のサラリーマンのように見えた。案外ドラマと違うものなんだな、と考えながら刑事さんにくっついてその取調室の向こうの傍聴室へと入ったけれど、そこはテレビドラマそのものだった。窓の向こうで、あの男が座っていた。男は困惑しきった顔をして、警察の人に向かって怒鳴っていた。



「だから言ったじゃないですか!気がついたらあの部屋にいたんだって!僕はあの女性とは顔見知りではないし、危害を加えるつもりもなかった!」
「ならなんで押し倒したりしたんだ?猥褻目的じゃないのか?」
「それは違う!自分の置かれた状況が分からなかったからやむを得ず取った行動で、彼女に危害を加える気はなかった!……本当に何も知らないんだ…ここがどこかさえ分かっていないんだ…」



男は苦痛のような声を出して、そのまま俯いていた。
肩が震えていた。小さく、「里に帰してくれ」と呟いた声に刑事さんを見れば、刑事さんは溜息を漏らした。
「多分、あなたには申し訳ないのですがこの男は逮捕できそうにありません。精神鑑定の結果がまだですが、恐らく記憶喪失という事になりますからね」
「記憶喪失?」
「そう。男は自分を“木の葉の里の人間”と言い出したり、“チャクラ”だのなんだの意味不明の供述が多いんですよ。この日本社会の仕組みをまるで何も理解していない。さっきも、ほら、あそこで聴取を記録している警官がノートパソコンを使っているでしょう?あれを見てひどく驚きましてね。21世紀の若者とは思えない。……刑事をしていると時々あるんですよ。記憶の混濁のある人間の犯行が。恐らくこの件は人権団体にも届くでしょうし、色々とやり辛い事にはなると思います」
そういえば、鬱病の人なんかの犯罪はなかなか逮捕できたりしないんだっけ、と曖昧なことを考えているわたしに、刑事さんは心底気の毒そうな顔をしてわたしを見ていた。



「本当に、彼女を怖がらせるつもりはなかったんだ」



男はそう言って、顔を覆っていた。
殺さないで、と懇願したわたしにショックを受けたような、傷ついたような顔をした男の顔が脳裏を横切った。もしかしたら、この人の言っていることは本当のことかもしれないとちらっと思った。その時、昨日、男に有無を言わせぬ力で押し倒され、足一本、腕一本動かせないほどに押さえ込まれた強い力を思い出して身体が震えた。でも、震えている事はこの刑事さんに知られたくない気がして、わたしは歯を食いしばって耐えた。



「彼の、名前はなんて?」
「ヤマト、としか名乗りません」


ヤマト、と口の中で反芻した。――あの人は、どうして傷ついた顔をしたんだろうか。



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2013年2月5日スタート