02

それから色んな手続きと裁判を経て、男は不起訴となった。
まだ訴えようと思えば民事に持ち込むしかなかったけれど、それでも男に精神疾患という診断が下っていたので、民事に持ち込んだとしても敗訴は見えていたし、よくて示談ということだった。わたしはそんな難しいやり取りにすっかり疲れていたし、これ以上私生活に支障を出すのが嫌でそのままの結果を受け止めることにした。そして男は無罪放免、だ。


けれど、男には該当する戸籍だってなかったし、男が話す自分のことを、男は「真実」だと信じ込んでいる。
それが日本社会にとって「虚言」である事は明白であり、難しい医療や精神鑑定の結果、国は男を「保護」する事になったらしい。そして男は精神疾患を持っていて、本人の望みとは無関係に犯罪を犯してしまった人たちをサポートする市民団体に面倒をみてもらう事になった、というのは刑事さんから聞いた。男からの謝罪の手紙には、「怖い思いをさせて本当にすみませんでした」という事が書かれていたけれど、それは弁護士が書かせたものだからあまり本気にしないように、と刑事さんが耳打ちした。


何がなんだか分からないうちに、わたしには日常が返ってきた。
しばらくは職場で浮いたりもしたけれど、いつの間にはそんな話題を出す人もいなくなって、ちょっと気になっていた人には彼女ができていて、梅雨の季節になっていた。






「おい、ヤマト!!そっち袋取って来い!」


新しいチョコレート色の雨傘にぱらぱらと大粒の雨が落ちてくる音さえ心地良いと感じながら歩いていた時、近くの工事現場から聞こえてきた声に思わず足を止めた。いやまさか、でも…。珍しい名前に、それでも恐る恐る工事現場を覗き込めば、その人だった。大粒の雨の中、何かがずっしりと入った麻袋をみっつも担いで、ぐしゃぐしゃにぬかるんだ地面を泥を飛ばして走り黄色のヘルメットをかぶって、先輩らしい作業員に頭を下げていた、その人。――――――あの人だ、ヤマト、だ。


その時、その人がゆっくりとこっちを見た。互いに目が合ったその人はみるみるうちに目を丸くした。
そして彼は麻袋を言われた場所に置いてくると、急いで走りよってきた。思わず一歩後ずさるわたしに、彼は表情を曇らせて、土砂降りの雨の中、深々と頭を下げた。


何も言わなかった。
彼も言わなかった。


ただ、大粒の雨からバケツをひっくり返したような雨に変わり、激しく傘を叩く音や、重機やコーンや道具をあわただしく片付ける音や、作業員たちの声が、むせ返るような雨の匂いと共に飛び込んでくるばかりだった。その静寂を破ったのは、さっきの先輩分の彼を呼ぶ声だった。


「……あの、時間、ありますか」


一歩歩み寄って、彼の頭上に傘を差し出して、わたしはそう言った。
わたしの言葉に、その人は、困惑した表情で顔を上げた。思っていたより背が高くて、差し出した傘に頭が引っかかりそうだった。彼はわたしの傘に慎重に、そっと手をやって、自分から遠ざけた。まるでわたしの傘には入れないという事を意思表示するようだった。そしてまた、土砂降りに濡れながら、ぎこちなく頷いた。


「1時間だけ待っていてください。ここを片付けたら一度事務所に戻りますから」
「じゃあ、そこの喫茶店で待ってます」
彼は頷いた。わたしも頷いた。
そして彼はもう一度だけ深く頭を下げて、作業へと戻っていった。
わたしはその後姿を妙な気持ちで眺めてから、自分で指定した喫茶店へと歩き出した。







頼んだカフェオレがすっかり冷めていくのをぼんやりと眺めながら、オールデイズの流れる喫茶店で男を待った。
わたしが生まれるよりもずっとずっと前に流行った洋楽は、今ならCMや映画で聞くくらいでそう真面目に聴いたこともないけれど、どこかで覚えているメロディーが心地良かった。どうせならオシャレなカフェにでも入ればよかったかな、とちらっと思ったけれど、相手が別に彼氏でもなんでもないのだから、こういう場所でよかったかもしれない。カフェ特有の若者の空気の中、話が出来るとも思えなかった。


やがて一時間きっかりして、男は現れた。
黒いパーカーとジーパンは彼によく似合っていたけれど、どうしてだか異国の服を着ているように馴染んでいなかった。なんだかまるで違うものを着ているようで、うまく言えないけれど妙な不一致感を覚えた。軽くタオルで拭いて、走ってやってきたような男の髪はまだ濡れたままだった。シャワーだって浴びてこなかったのか、男の顔色は青ざめて、すっかり白くなっていた。


「えっと、…何か、暖かいものでも」
「…じゃあ、コーヒーを」
コーヒーが届いても、わたし達は何も言わなかった。
でも、互いの頭の中にぐるぐると色んな考えが飛び交って、言葉が言葉を潰しあって、結局何もいえないのだという事は分かっていた。




「今、どうしているんですか」


わたしがようやく言えたのはそれだった。
傍から見たら分かれたカップルが再会したような様子に見えたんだろうか、さっき彼にコーヒーを運んできた若いウェイトレスが好奇心を丸出しにしてこちらをみている。でも、実際は彼女の楽しい想像よりもずっと複雑だった。



「あれから、無国籍の人間をサポートする市民団体の援助を受けて、今は市の世話になっています」


彼が住んでいると言ったアパートは、確か市の文化住宅の名前だった。
それから、彼は自分が無国籍であるという事、国籍がなく、執行猶予がついたとはいえ犯罪を犯した事には変わりがなく仕事が見つからず、市のサポートであの工事現場の仕事を見つけたことを話した。本当であれば国籍のない彼は無期限収容として、送還先のない人間を収容する施設に入れられる所だったのを保護されたのだと話した。それは彼の容姿が日本人であり、日本語に堪能であり、ましてや自分の記憶の混濁があるため、ただ国籍のない人間とはまた違ったサポートを受けられる事になったからだ、と話した。


恐らく日本人で、なんらかの心因性のショックにより記憶の混濁。
どこかに住民票がある筈であり、現在該当する人物を行方不明者や捜索届けのリストから探している、と。これが現在の彼の状況だった。彼は暗記したことのように、どこか他人事のようにそう話した。その状況は、まるで彼とは無関係のことのようだった。



「あの、なんでしたっけ…老人ホームみたいな名前の……」
「木の葉の里、ですか」
「そうです、それ。それは、その、どうしたんですか?」


彼は顔をくしゃりと歪めて、自嘲を浮かべた。
「誰にも、信じてもらえませんでしたからね。……この街は、見た事のないものばかりだ」
「…よかったら、話してもらえませんか。その、木の葉の里のこと。あなたが記憶している、あなたのこと」
彼は、どうせ信じませんよ、と少し笑ってから、話を始めた。



チャクラという力を使って、人々が生きている世界。
この世界よりも素朴な生活をする人々。パソコンも、スマートフォンも、テレビもない世界。
その世界で教師をしていた、という彼。彼の教え子達の話。変わりゆく里の四季。尊敬する先輩。
まるでファンタジー映画の話でも聞いているような気持ちになった。最初はどっかの怪しい宗教かと思ったけれど、彼が自嘲まじりだった表情から、その故郷を懐かしむような目を、郷愁のようなさみしさを無自覚に混ぜて話しているのを聞いていると、なんだか不思議な気持ちになった。本当に、そんな世界があるような気がした。



「信じていないでしょう?」
「……正直言うと」
「それで良いんですよ。あなたはこの世界に生きている人だから」
彼はそう言って微笑んで、すっかり冷めただろうコーヒーに一口口を付けた。




「わたしの部屋にいた理由は、わからないんですか」


彼はカップに目をやったまま、小さく頷いた。
わたしは、もうあの部屋には住んでいない。すっかりご近所の話題になってしまったし、誰かが簡単に入ることのできた部屋というのは怖かったから。それに、警察とはいえ見知らぬ男の人たちがあちこち触って、調べた部屋だっていうのも気持ちが悪かったから。今はこの街に住んでいる。あのマンションに住んでいたら降りない駅だ。だから、彼を見つけられた。もしあのままあのマンションに住んでいたら、わたしと彼の人生はもう二度と交差することはなかっただろう。



「名前、聞いても良いですか?」



彼はそう言ってまっすぐな目をしていた。
そこには悪意も他意も感じられなかった。
甘いかもしれないけれど、わたしはもう、この人を怖いとは思っていなかった。不思議な気持ちだった。好きでもないし、嫌いでもないし、怖くもない。どこか同情すら感じている。そういう甘さや世間知らずな部分が、まだ学生気分だ、と課長に叱られる所以なのかもしれないけれど、わたしはもうこの人を許している自分に気づいていた。



「山田夢子です」
「山田夢子、さん」



彼はゆっくりと噛み締めるようにわたしの名前を呼んだ。
その目が謝罪と同情に満ちていた。だから、許そうと思った。



「あなたは?」
「ヤマトです」
「ヤマトさん」


わたしは微笑んだ。彼は、一瞬、驚いた顔をしたけれど、くしゃりと目を細めて微笑んだ。