03


「それじゃあヤマトさん、先週のおさらいをしましょうね」



自立支援センターの職員という中年の女性が、その人格者らしい優しげな顔で微笑んで新聞を取り出した。
また一から社会の勉強だ。まるでアカデミーの子供相手にするような優しい口調が彼女の親切心や慈愛の精神を感じずにはいられないけれど、裏を返せばそれは僕がこの世界で「異常者」だというレッテルを貼られたからに違いなかった。
―――この世界こそ、異常だっていうのに。チャクラが存在しない世界。



気がついたら、あの山田という女性の部屋に立っていた。
休日だった。それまでの長期任務を明け、待機という事ではあったが休暇には違いなかった。
ロングTシャツにジーパンを履いただけの無防備な格好でぼんやりとコーヒーを飲みながら、ふっと目を閉じた。そして目を開けた瞬間、僕はもう彼女の真暗な部屋にいた。知らぬ間に術を掛けられたか、と意識を集中させたが、しかしどれだけ気を張り巡らせてもチャクラの存在を確認することが出来なかった。今となっては分かる。この世界はチャクラが存在しない。人間が人間の持つ動物としての身体能力以上の力を持っていない世界。だかあの時は流石にそこまで状況理解をする事ができなかった。そして突然、部屋に入ってきた誰かの気配に、咄嗟に相手を押さえ込む事しかできなかった。たとえその相手が平和極まりない声で「ただいま」と言って自分の部屋に入ってきた若く無防備な女性だったとしても…。



―――殺さないで。



暗部にいた頃、そう懇願される事は少なくなかった。
でも、相手は同等の立場である忍である。そしてその結果に納得していた。恨みも積もっている事だろう。だが割り切っていた。そこには一切の感傷もなかった。しかし彼女は違う。まるで里で生活している普通の人間だった。彼女を殺した所で里にはなんの影響だってない。ただ、虫を殺す程度の、些細なこと。……殺す必要がないという事。


彼女が部屋を出ていった事なんて分かりきっていた。きっと面倒な事になるだろう、という事も。
すぐに受け入れる事はできなかったが、このチャクラの存在しない世界が何者かによる妖術ではなく、信じられない事だが現実であると予感した僕は、そのまま身を任せる事にした。その可能性は考えられなかったが、例え妖術使いの魅せた幻影だとしても、そいつが用意しているシナリオに乗ってやろうという気でいたし、そうでなくもうひとつの現実の世界だとしても、恐らく若い女性の部屋への不法侵入であるからには何らかの機関へ送られると予想した。あまりに情報が少なかった。
警察という組織から逃げる事はたやすかったが、この、ありえない現実の中枢に入り込み、情報を得る為、大人しく待った。



そして、与えられた答えは「異常者」。
異常な僕はこの日本という国家のお荷物となり、税金からサポートを受けて生活をする事となった。
この自立支援センターの紹介で工事現場の作業員の仕事を得た。チャクラの能力を失った僕は、もはやただの人間だった。多少身体能力の優れた程度の、ただの人間。そうして日々は淡々と過ぎていく。誰も僕を殺そうとしない。誰も誰かを殺そうとはしない。妖術使いの魅せた幻影だというのなら、もう沢山だ。もう十分苦しんだ。頭がおかしくなりそうだった。


里へ返してくれ。




「今年が平成何年か、分かりますか?」


先週やった通りの答えを言えば、彼女は満足したように微笑んだ。
彼女は初めて出会った時、僕に里の話を聞いた。もしかしたら、僕の知らない国に飛ばされただけで、里が存在する世界なんじゃないだろうか、という甘い期待を抱いて、木の葉の里の事や忍について時間が許す限り話をした。だが、それが僕を異常者たらしめたらしい。彼女は里の話題に二度と触れる事はしなかった。忍と同じだな、と内心でその手腕の皮肉に笑った。誇大妄想を抱いている人間を相手にする時は、相手の妄想に立ち入らないようにする事。別の話題やテリトリーで持って相手をすること。それはアカデミーでも習うごく初歩的な心理学だった。


そんな異常者への対応は里となんら変わらない。


言葉だって通じる。読み書きも、食文化も、容姿だって似ている。
しかし、この世界は何もかもが違う。チャクラが存在せず、人間がその脆い肉体のみで生きているせいか、その弱さを補うように文明が発達していた。見た事のないものばかりだった。テレビ、地下鉄、携帯電話、パソコン、目に飛び込むものすべてが見覚えのないもの、想像だってしなかったようなもので溢れている。人間は闘うことを知らない。守られていることを知らない。


食い入るように読み漁った新聞やテレビで得た戦争の情報は、僕たちが参加していたようなものよりずっと残忍で、冷徹だった。パジャマ姿でコーヒーを飲みながらパソコン操作をするだけで、1000キロ先の村を完膚なきまでに破壊する事ができる世界。次世代無人戦闘機だの核兵器だのミサイルだの、まるで化け物じみた兵器の存在を知りながらそれを脅威と感じることもなく、日々を平和に、安穏と生きる人々。僕にはまるで与えられなかった価値観だった。理解ができなかった。



彼女…山田さんは、そんな世界でぬくぬくと生きていた普通の女性だったんだろう。
あの日、あの時、僕に懇願した瞬間が彼女にとって生まれて初めて感じた「死」だったんだろう。
さぞ、怖かっただろう。



それなのに、彼女は僕に傘を差し出した。
自分を殺そうとした人間に、既にずぶ濡れになっていた人間に、傘を差し出した。
建設業者の作業員たちがいくら親しげに、すっかり僕を仲間と信頼して女の話をしてきたとしても、もう二度と、決して誰にも話しをしなかった里の話をした。彼女はまるで、知らない国の童話でも聞く女の子みたいな顔をしていた。そして、その表情には戸惑いが滲んでいた。彼女にとっても、僕は異常者に違いなかった。
こんな事で償いになるとは思えなかったが、せめて払わせて欲しい、と喫茶店の支払いをして、彼女とは別れた。茶色の傘を差した彼女が遠慮がちに頭を下げて、そして互いに最後の言葉を捜しているのが分かった。もう二度と会わないだろう。いや、会ってはいけない人だった。


迷った末に出た言葉に、彼女も同じようにぎこちなく答えた。「さようなら」と。






センターを出ても、雨が降っていた。
6月の空は毎日毎日、ぐずぐずと泣き出しそうに重たい雲が鈍色となって太陽の光を奪い、飽きもせずにざあざあと無遠慮に人々の頭上へと大量の雨を撒いた。コンビニで買ったビニール傘は、500円という値段の元をもう十分に取れるほど使い込んでいた。世界が変わっても、この傘のように、同じ構造の物を見つけると胸が締め付けられるほど安堵してしまう自分に、思っていたよりもこの状況にまいっている自分に気づかざるを得なかった。そして、チャクラがない自分など、もはや頼りない人間という生き物でしかなかった。


なんだか誰かに話を聞いてほしいと思った。
たっぷり一時間、センターで話をしたけれど、でもそうじゃなかった。そうじゃなくて、一人の人間として、話を聞いて欲しいと思った。このわけの分からない社会に対する不安を、誰かに聞いて欲しいと思った。




すっかり見慣れた車たちがばしゃばしゃと水を跳ね返しながら道路を走っていく。
アスファルト、というのだったろうか。里では見なかった地面だ。この日本という国は山を切り開き、土をアスファルトやコンクリートで固めて、天に突き刺さるようなビルを建てて、建てて、建てて、その巨大な箱のようなビルの中に密集させるように小さな店をいくらも詰め込んだり、人々が生活していたりする。息苦しいな、と思った。センターから住んでいる粗末な集合住宅までは電車で一本だという事は分かっていたが、どうもあの乗り物には慣れなくて、歩いていく事を決めた。

里にいた頃のようにチャクラの力を使って木から木へと飛び移るように移動できれば一瞬だと思ったけれど、チャクラが使えたとしてもこの街にはそもそも木がなかった。夜になればキラキラ光る電飾をまとわりつかせた頼りない街路樹なんて、木とは呼べなかった。


僕は思っていたより里を愛していたんだろうか。






「ヤマト、さん?」


顔は見なくてもそれが誰なのかは分かった。
でも、まさか…、と思いながら振り返ると、山田さんが少し驚いたような顔をして立っていた。手にはあの日と同じ茶色の傘を持ち、コンビニ袋をぶら下げている。その軽装備の格好から彼女の家がこの近所なんだろう事まで推測する事ができて、内心で舌打ちをした。彼女と生活圏が被っているなんて。それに彼女だってわざわざ声を掛けてこなくても良いのに、この人はなんて無知で無防備なんだろうか、とつい顔を顰めれば、そんな僕の表情の変化を悪い方に取ったらしい彼女は「すみません」と小さく謝った。


「いや、その、違うんです。……いや、違わない。山田さん、君はもっと人を疑った方が良い」
「…すみません」


アカデミーの生徒だったらすぐに落第だ、と思った。
殺されかけた相手とたった一度コーヒーを飲んだくらいで何故友達にでも声を掛けるようにできるんだろうか。それともここはそういう世界なんだろうか。馬鹿正直ばかりだ。鴨がネギしょって歩いてる世界だ。
人間の悪意や殺意を知らずに生きている温室育ちばかりだ。イライラする。


「でもよかった。もう一度話しをしたいと思っていたんです」
「だから、今言ったばかりじゃないですか。僕が君に何をしたか…」
「そうじゃなくて!…あれから気になって調べてみたんです。そしたら違う場所に瞬間移動する人の話を結構見つけたから」


まだ100パーセント信じられたわけじゃないですけど、と付け足して彼女は笑った。








図書館で彼女が得意げに持って来た雑誌は、いかにも怪しげな「ヌー」とかいう雑誌だった。
アカデミーに置いてあっても、きっと誰も手に取らないだろうな…と苦笑するような怪しい雑誌を、彼女は目的のページを探してぱらぱらと捲っていく。雨のせいだろうか。図書館には随分と沢山の人がいて、それぞれが穏やかに新聞を読んだり、学生らしい若者たちがノートや教科書と向き合ったり、時々意味不明の大きな声を出す子供の手を引き「しーっ」と宥めながら母親が絵本コーナーを歩いている。誰かが小さく咳払いをし、誰かがページを捲る音以外、静まり返った図書館の屋根を叩く雨音だけが心地良く聞こえている。隣に座った、頭ひとつ小さな彼女を見下ろしながら、この変な女の子に内心で首をかしげる。真意が見えない。普通、殺されかけた相手の話に興味持つか?しかも後から調べるなんて。


そこに押し付けがましさもなければ、恩義背がましいところもなくて、それは法廷での彼女の様子を思い起こさせた。
異常者ゆえに無罪放免となった僕。彼女が望めばそれ以上の裁判をして、僕になんらかの刑罰を与えることができたというのに彼女はそれをしなかった。示談金さえ受け取らなかった。よっぽどのお人よしなんだろうか。お人よしなんだろうな。
「あ、あった。ほらここ」
ね、と嬉しそうにページを開いた彼女が指差すまま、その記事を読む。



『空間移動の謎を追う!
1843年、アラバマの夫婦が日曜礼拝に出た後に行方不明。しかし同日、夫婦はデトロイトのキャンパスに突如現れる。また、19世紀、英国にて女の子が夕食の席でドレスにぶどう酒を零してしまう。母親が台所へ布巾を取りに行き、戻ってくるとそこに彼女の姿はなかった。しかし翌日500キロ離れた村の農家の台所へ現れた、との記録が残っている。そして…』



つらつらと書かれていたのは、人間が何千キロも移動したというウソか本当か分からない事件ばかりを書いた記事だった。
もしアカデミーの生徒からこの記事見せられたのならば、カカシ先輩が得意としていた瞬身の術についての講釈をするところだが、ここはチャクラの存在しない世界。術を使うのは不可能だろう。はなっから馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばせない状況にある自分は、気がつけば記事を熟読していた。



「……どう、思います?」
「どうって…」
「例えば、ですよ?例えばヤマトさんもこの女の子みたいに突然どこかから消えて、どこかから現れた人かもしれない。世界中にそんな話がごろごろ転がっているんだから、最初から馬鹿にはできないのかもしれない。それに、ほらこっちの本の記事、フィラデルフィア計画」




フィラデルフィア計画
それはアメリカという国の海軍が極秘裏に行った軍事計画のことだった。
第二次世界大戦中、人間を乗せた軍艦を瞬間移動させたという実験のことだ。軍艦は2500キロ先の海へと瞬間移動したのだという。しかし、乗務員は身体が甲板に焼き付けられていたり、半分透明人間になっていたり、壁にめり込んでいたり、凍っていたり、衣類だけが残っていたり、行方不明になっていたり、発狂したり…という地獄絵図だったという。
記事にはいくらかそれらしい人物の名前や地名や物理的な原理などを説明していた。


オカルトであれ事実であれ、大真面目に人間が瞬間移動について実験していた事は確かな事のようだった。
確かにチャクラさえあれば瞬間移動は出来ない事じゃない。この世界の人間たちがチャクラの変わりとなる科学力でそれを実現させようとしたとしても不思議じゃなかった。少なくとも、最初に読んだ「ヌー」とかいう雑誌の怪しげな伝承よりはよっぽど生々しく感じられた。





「まったく馬鹿みたいな事だったら、こんなに沢山の人がお金や知恵を使って実験するとは思えないし、きっと実験するに至る、何か根拠みたいなものがあるんじゃないかなって。うまく言えないけど、誰か、本当に瞬間移動とかタイムスリップをした人がいて、だからこうやって頭の良い人たちがそれを調べてるのかなって」
少し興奮気味の彼女は早口にそう言ってしまうと、興奮している自分を恥じるように華奢な身体を更に小さくして「ごめんなさい」と謝らなくても良い謝罪の言葉を口にした。なんで、この人はこんなに真面目なんだろうか。僕のような異常者の妄言だと一蹴してしまえば良いのに、なぜそんな事を考えるんだろうか。



「どうして君はそこまで考えてくれるんだい?」



顔を上げた彼女は、戸惑いながらもまっすぐに僕を見た。
僕も彼女の視線から逃げないよう、真っ直ぐに彼女を見返した。
彼女は眉を下げて、唇を結んで、少し覚悟を決めたような表情をして、でもやっぱり戸惑ったように口を開いた。



「刑事さんから聞いたの。その、あなたがどこからわたしの部屋へ入ったのか、侵入経路を調べたって。でも全然分からないの。ベテランの鑑識の人が何度も指紋とか、なんかよくわかんない技術で調べたみたいだけど、全然分からないって。マンションは五階だったし、鍵も閉まってた。指紋を拭ったのだとしたらそういう痕跡になるらしいけど、そういうのもなくて、本当に全然わからないって。……まるで、あなたが本当にどこかから突然、わたしの部屋に現れたみたいだって。
だから、もしかしたら本当にあなたはどこか違う世界の人で、どういう訳かわたしの部屋に現れて、それで、とても、困っているんじゃないかって思ったら、なんだか……とても、気になって」



それだけです、と言った彼女は自分でも自分の言葉を信じていないような表情をしていた。
馬鹿馬鹿しいと分かってる。分かっていても、それでもなお想像する事を止められなかったという顔。任務ではあらゆる想像をすることが必要となる。一歩足を出した瞬間、どうなるのか百以上のケースを想像しなくてはならない。とくに、暗部に求められるのは予知にも似た想像力だった。しかし、空想力なんてものは一切求められていない。暗部になるような子供時代を過ごした人間には、空想なんてものは一切与えられない物だった。



彼女のは空想だ。
馬鹿げた空想だ。
僕の知らない、与えられなかった子供時代を当たり前に生きた人間の持つ空想力だ。
そんな根拠のないものを馬鹿馬鹿しいと思いながらも可能性として捨てきれず、こうして「瞬間移動」なんてものを調べて、そして僕を違う世界の人間だったら、と仮定して話をしようとしてくれている。センターの女性も、警察の人間も、誰ひとりとして持っていなかった柔軟な空想力で向き合おうとしてくれた。




「夢子さん、ありがとう」


救われたような気持ちだった。
やばい。泣きそうだ、と思った。泣くわけなんかないのに。



それでも夢子さんは、少し嬉しそうに笑った。