04


なんだかこの人、あぶない人だなぁ、と思った。


そりゃわたしが自分で警察に突き出した人だ。あぶない人には違いないだろうけれど、でもそういう「あぶない」ではなくて、もっと根本的なところ、うまくは言えないけれど、人間を作っている芯のところが今、ちょっと、あぶない、と思った。この人、このままじゃだめだ、と思った。



「とりあえず、ごはん、食べに行きませんか?」

なんだかとても重大で重々しく貴重なものに対するように言われたお礼の言葉に、わたしはなんて答えたら良いか分からなくてついそう言っていた。ごはん食べに行こう、はわたしの口癖みたいなもんだ。大学の頃からもうちょっとだけ仲良くなりたいと思っている女の子や、さっさと会話を締めくくって「じゃ」と別れるまでにもう一言欲しいときや、なんだかゆらゆらと頼りなくなっている人を見た時のわたしの口癖だ。キャンパスでは「おー、じゃあ今度ね!」とさほど重大でもない社交辞令と互いに分かっている中で、笑顔であてもない約束をして別れるけれど、ヤマトさんは違った。ヤマトさんはさっきまでの、なんだか泣き出しそうな顔からちょっと怪訝そうな顔になる。そりゃそうか、と納得しながらもこの人を放っては置けなかった。


この人、放っておいたら駄目だ、と思った。



「というか、ごはんに付き合ってください。近所にラーメン屋さんができたんだけど、やっぱり女一人じゃ入りにくいですから。だからヤマトさんはあくまでダシです。おまけです。カモフラージュです」
女の子に恥かかせないでくださいね、と付け加えて笑えば、ラーメン屋と聞いてヤマトさんはいくらか肩の力を抜いて、自分の頭をがしがしと乱暴にかいた。いきなりイタリアンに連れて行けと言えばこうはいかなかっただろう。ラーメンは世界平和に繋がるに違いない。


「僕、あんまりこってりしたのは苦手だよ?」
「大丈夫!関西風あっさりしょうゆ味だから」
あくまで小声で会話していたけれど、近くに座って難しそうな本を読んでいたおじさんがわざとらしく咳払いしたもんだから、わたし達は顔を見合わせて共犯者のごとく小さく笑った。




図書カードだって持っていないというヤマトさんに、カードの作りかたを教えてあげた。
ヤマトさんはわたしが持って来た「ヌー」は置いておいて、フィラデルフィア計画について書かれた難しい本や、その他空間移動だの瞬間移動について大真面目に解説している物理の本と、それから「今月の新刊」に置かれていた「世界の建築」という本を借りていた。カウンターで貸し出し手続きをしているヤマトさんに隣に立って、「好きなの?」と聞くとちょっと照れたように笑って頷いた。


「気晴らしになると思って。雨が降ると仕事がなくなるんだ」
ヤマトさんは、そう言ってどうしてだか少しだけ遠くを見るような目をした。
雨が降ると仕事がなくなる。その事実を受け入れながらも、でもどこか「他の人の事実」を告げるような目だった。自分のことじゃないみたい。




図書館を出ても雨は降っていた。
ヤマトさんは無料で本を借りられるという事にとても驚いていて、それから大げさなくらい感謝された。
ヤマトさんは言葉だって当然通じるし、字だって同じだけど、まるで外国人みたいだった。もちろん、まだ、100パーセントその木の葉の里とかいう不思議な世界の話を信じたわけじゃないけれど、でも、この人が図書館のシステムやパソコンを知らない様子が演技とも思えなかった。カウンターで図書館の司書さんが本のバーコードを読み取って、パソコンをカチャカチャといじる。そんな当たり前のことを見て、ちょっと息を呑んでいた、ヤマトさん。口に出して驚く気持ちを隠して、あくまで「当たり前の人」のように振舞っていたけれど、でもあの驚いた様子は本当のことみたいだった。



「アメリカって、遠い?」
会話もなく、ヤマトさんの一歩先を歩いてラーメン屋を目指してもくもくと歩いていたわたしに、ヤマトさんがそう聞いてきた。もうこの人の突拍子もない質問に驚くのはやめようと思って「めちゃくちゃ遠いですよ」と答えて、ポケットからスマホを取り出して世界地図を検索する。そして立ち止まって、ヤマトさんにスマホの画面を突き出す。


「この細長い島国が日本。この巨大な海を越えた先の大きな大陸がアメリカ。飛行機に乗って、西海岸に行くにしても12時間も掛かりますよ」
「12時間で行けるのかい?」


あ、そっちか。スマホに驚くかと思ったけれど、そっちに驚いたか。
うん、と頷いたわたしは、内心で飛行機の原理とか聞いてくるんじゃないだろうか、とちょっと身構える。こう言っては失礼だけど、まるで5歳の男の子を相手しているみたいだ。この世界に対して「なんで?」と「どうして?」で頭がいっぱいの小さな男の子。ヤマトさんはアメリカの遠さにも、たった12時間ということにも驚いたような、途方にくれたような顔をしていた。新幹線や飛行機でお手軽に遠い場所に行ける時代に生まれ育っているわたしにとって、太平洋を越えるのに掛かる12時間というのはとても長い時間のようだけれど、この人にとって、まるで果てしない海を越えるための12時間という時間が驚異的な短さのようだった。


本当にこの人、どこの人なんだろうか。






まだ4時だっていうのに、ラーメン屋さんは混んでいた。
部活帰りらしい、大きな泥だらけのスポーツバックを乱暴に足元に置いた丸刈りの少年たちに占拠されている。野球部だな。あの学ランは近所の公立中学の学ランだなぁ、と思い出していると、カウンターの向こうから店長らしいおじさんがチャッチャと麺を茹でながら「カウンターへどうぞ!」と叫ぶように声を投げてきたので、ヤマトさんと顔を見合わせてカウンターに座った。最近できたばかりのラーメン屋さんは、まだ有名人のサインもなければふてぶてしさもなく、黒く塗られた木のテーブルと椅子がどこか落ち着ける内装だった。これなら今度は一人で来られるかもしれない。
わたしは「オススメ」と書かれたあっさり醤油ラーメンを選び、ヤマトさんも同じものを選んだ。


野球部の子たちが大騒ぎをしながらラーメンやチャーハンや餃子を口にかき込んでいる良い匂いがしてきて、本当はちっとも空いていなかったお腹だったけど食欲をそそられた。それはヤマトさんも同じだったらしい。男の子たちを見ながら「おいしそうだね」と小声で笑った。


近くに取り付けられていたテレビでは午後のニュースが放送されていた。
なんでもどこぞの住宅地を工事していたら戦時中の不発弾が出てきて陸上自衛隊が撤去作業を行っていたのが終了したとかいうニュースだった。まだ信管が残っていたから爆発の危険があったとか。うわー、あぶねーと、テレビから目をそらすと、ヤマトさんが暗い表情をしていた。


「どうかしたんですか?」
「君たちは、こんな戦争の影響が残っていても、アメリカへ旅行へ行くのかい?」


ヤマトさんはとても真面目な顔をしていた。
その質問の意味は、たぶん、戦争をしていた国と仲良くやっているのか、と聞きたいんだろうとは思ったけれど、この質問がヤマトさんからじゃなかったら「やだちょっと右とか左の人かしら?」と引いてしまうところだけど、この人が至って真面目なのでわたしも真面目に考える。



「でももう60年以上前のことだし、みんなアメリカ好きですよ。映画とか音楽とかファッションとか食べ物とか、魅力的なものがいっぱいあるし。切っては切れぬ関係ですとも」

うーん、朝まで生討論の学生みたいなことしか言えないな、とちょっと苦笑していればおいしそうなラーメンが運ばれてきた。ナイスタイミング、と内心でバイトのおにーちゃんにグッジョブ!!と親指を立てるがそうとは当然知らないおにーちゃんはさっさと伝票をカウンターに置いて去ってった。



「僕には分からないな。遡れば肉親を殺した国と和平を結び、たった60年で若者が気軽に旅行へ行く時代になるなんて」
「じゃあ、これ食べたらとりあえずアメリカの映画見よう。ささ、伸びないうちに!」
はぁ?という顔をしているヤマトさんをさくっと無視して、割り箸を割って、「いっただきまーす」とラーメンを一口すする。う、うまい!!麺のかたさも絶妙だし、なによりコシがあって良い!!インスタントではこの生めんの味は出ないぞ!!


「おいしいですよ!!早く、早く!」
まだ腑に落ちない顔をしたヤマトさんを急かせば、ヤマトさんは不承不承といった顔でラーメンをすすった。そしてそのままずずっと二口食べて、スープを飲んで、ほぅっと吐き出すように一言「おいしい」と呟いた。それがテレビのグルメリポーターみたいな大げさな言い方じゃなくて、心の底からほっとした人のものでわたしは思わず緩んでしまう頬を隠すようにずずっとラーメンをすすった。



やっぱり、お腹すいてるときは駄目だ。
心がくさくさしてしまう。それに食べるなら冷たいのは駄目。あったかいのを、誰かと食べないと駄目。
それはお母さんの言葉で、落ち込んだときはよくあったかい食べ物と一緒にそんな自論を出してくれるのが常だった。親や先生の言うことはちゃんと聞く真面目な女の子だったわたしは、ことさらこの言葉を信じていた。間違っているとはちっとも思わなかった。



わたし達が夢中になって無言でラーメンを食べていると、野球少年たちがどやどやと大きくて重そうなスポーツバックを担いで、大きな声で「ごちそうさまでしたー!」「あざーっす!」とカウンターの向こうの店長に声を掛けていった。店長ももう顔見知りだったのか「次の試合勝てよぉ!」と大きな声で返して、少年たちが「おうよ!」と拳を掲げて出て行った。わたしが知らないだけで、高校生の頃の、あの坊主の男子たちもこういうやりとりをしていたのかもしれない、とぼんやりと教室の空気を思い出してた。あんまり会話をしなかったけれど、あの野球部の子は今はどうしているんだろうか、とちょっとだけ、彼らが持つ特有の空気が懐かしくなった。


「どこもみんな一緒だな」


隣でヤマトさんが苦笑した声に「?」を込めて顔をみれば、ヤマトさんがちょっとだけさみしそうな顔で笑った。ヤマトさんも、あの男の子たちの向こうに誰かを見たのかもしれない。蓮華でスープをすくって、大切に一口飲んだヤマトさんが、やっぱりほっとしたように一言「おいしい」と呟いた。