07



お、お腹が…痛い


精神的じゃない。肉体的に。
トイレの外ではハンジさんがついてくれているけれど、正直ちょっとだけ席を外してほしい。こんな情けない所、惨めでたまらない。
生ガキを食べたわけじゃないけれど、心当たりはある。非常にある。たぶん、精神的なもんじゃなくて、もっと現実的な理由だ。あの、滅菌、殺菌、消毒、無菌で徹底され、家庭のカーペットに至るまできっちり殺菌なんてされているような現代社会に生きていたわたしの繊細かつやわな肉体がこの世界の原始的な水や食料に耐えられるわけがなかった。苦しい。気持ち悪い。吐き気がとまらない。

うえぇ、と戻すわたしの声が聞こえているのか、外からハンジさんが「大丈夫なの?」と声を掛けてくれるのが聞こえてくる。今のは通じた気がして『大丈夫じゃない…』と返した言葉は自分でもびっくりするほどか細かった。






遅い昼食を食べた。


よく考えれば、ハイドニクの家でも全く食事に手をつけることができなかったから、ほとんど丸一日ぶりの食事だった。
出された食事は、ライ麦パンと、キャベツのスープ、ビールのような飲物…多分、中世ヨーロッパで主要な飲物だったというエールとかいうやつだろう、そういったものだった。ライ麦パンは、イースト菌ではなくサワードウが使われているせいか、酸味がある。それに当然毎日スーパーでパンを買うなんて事もなく、一か月分の大きな丸いパンを一度に焼いて、薄くスライスして食べていったという。大学で酵母について勉強したときにそんな話を聞いたし、中世を舞台にした洋画だと、よく大きなパンをスライスして食べているシーンが出てくる。そういった食習慣がここでも行われているだろうことは出された食事を見れば一目瞭然だった。フランスパンのように固くなった酸味のあるライ麦パンなんて食べ慣れた味ではなかったけれど、贅沢など言ってられなかった。


ふと駅前にあったオシャレなパン屋さんを思い出した。
コーンとマヨネーズをたっぷり塗って焼いたパンや、さくさくのクロワッサンや、チョコレートドーナッツや、ふわふわのアンパンや…。コンビニの、大量生産されている菓子パンを、あんまりおいしくない、味気ないなんて言って研究室で齧っていたことも。まだ中身の入っているカフェオレのペットボトルを、惜しげもなくゴミ箱に放り込んだこと。居酒屋で席を立ったとき、皿に残ったままのサラダや枝豆、固くなったピザや、遠慮の塊のお刺身。冷蔵庫に入れたまま腐らせたチーズ。


キャベツのスープは、ハイドニクの家で出されたものよりずっと味が濃く、出された食事の中では一番食べられるものだった。エールは論外。ただでさえビールなんて苦手なのに、えぐみが残るほどの麦汁の味だけど、居酒屋のビールに比べて随分水っぽい。一口舐めるように飲んであきらめた。






「なんか、口に合わないみたいだね」

わたしの荷物が置かれた部屋、わたしの雑誌を読みながら食事していたハンジさんがぼそっと何かをリヴァイに言い、会話についていけないわたしは食事相手に奮闘する。向かい合うように座ったリヴァイが固くなったライ麦パンをちぎり、エールに浸して食べるのを真似してみるとパンの酸味とエールの苦味がいくらか調和されて食べられるってことに気がついた。カチカチに固くなったライ麦パンもいくらも柔らかくなって食べやすい。


「食いたくなきゃ食わせなくて良い。人類は慢性的な食糧不足だからな。しかし食い方が分からねぇなら教えてやれば良い。こいつが壁の外の人間なのか、それともバカを装っているのかはまだ判断しかねるが、それでも動物じゃねぇんだ。躾ければ理解できるだろ」
「っていうか、これだけの物的証拠を目の前に、一体何を疑うのさ?夢子は絶対壁の外から来た人間だよ!間違いないさ!」
「お前はこの、俺たち人類とは違う文明を持つ人間を、人類として受け入れられるのか?」


自分のことを話しているんだな、という事は分かった。
でも今は黙って、結論が出るのを待つしかなかった。それしかできない。だけど、こうしてわたしにも、彼らと同じ食事が与えられた。彼らと同じ席で、同じ場所で、食事をする自由を与えられた。それだけでまずは感謝しなくちゃいけなかった。でも、目のまあ絵で自分について何か話をしているのを聴いているのって、気まずい。不安でたまらない。



「受け入れるかどうか、なんて段階じゃないと私は思う。彼女一人でこれらの機器を製造できたとは思えない。きっと、どこかに彼女と同じ人類がいる。この、まるで人間が紙になっちゃったみたいな本を見てよ。ここには夢子以外の沢山の東洋人が載っている。時々は私たちと同じ人種も、混血みたいな顔だっている。でも東洋人の方がずっと多い。私だって東洋人なんて見たことないけれど、でもこの目鼻立ちは明らかに私達とは違う人種だ。そんな人種が大半を占めてる。つまり夢子の国は、東洋人が主要の国なんだ。信じられる?絶滅した筈の東洋人がマジョリティーなんだよ?
それに、なんていうか、みんな無防備だ。人類が直面している危機なんてまるで知らないって顔をしている。女性がファッションにこれだけ関心を持つことができる社会ってのは、それだけ安定した社会じゃないのかな。それだけ社会的余裕があると思うんだ。この本はまるでカタログだ。靴やかばんを紹介している。多分、これが今最先端のデザインなんだよ。そういうなんて事のないものなんだ」



「こいつについて決定権を持つのは俺たちの一存では無理な話だ。今、エルヴィンが工作しているだろうが、それでもこいつは街であまりに多くの市民に顔を見られちまった。話題に飢えた街だ。すぐにこいつの話はあれこれ尾ひれがついて国中に広がるだろうよ。こいつを手中に収めたのが俺だという事も知られている。いずれにしても、歩く禁忌みてぇなやつだからな。総統や宗教が放置するとも思えん。混乱を生むこいつから情報を得るだけ得た後は、さっさと始末する事も考えられる。総統を敵にしてまで、こいつをうちが保護する理由はない。今は状況が状況だったから手中にしているだけで、上からの要請があればすぐに渡す」
「そんな……だって私たち以外の文明の存在を闇に葬るっていうの!?」
「いいから黙って食え。唾飛ばすな」



夢子、とわたしの名前が漏れた事は聞き取れた。

ファッション誌を指さしてリヴァイに向かって長々となにかを力説するハンジさんに、リヴァイが何かを応えて、あとは淡々と食事を続けた。わたしの今後の立ち位置とか、そういうことを話していたのかもしれない。幽閉とか、軟禁とか、だろうか。だって、鎖国時代の日本に欧米人がやってきたとして、出島以外の人間が欧米人を見たらどうするだろうか?織田信長は弥助という黒人を家来にしていたというけれど、それは信長が特異な人物であり、そして弥助に戦闘能力があったからじゃないだろうか。生き延びるための、才能があったからじゃないだろうか。無人島に漂着したロビンソン・クルーソーは、食人の島でどうやって生き延びたんだっけ?




わたしは、どうやってこの場所で生きれば良い?





「しかし、まずはこいつと意思疎通を図れるよう教育するべきだな。こいつにはこいつの言い分があるだろう。ま、そりゃお前の仕事だな。任せた」
「……投げた?投げたよね?これっていわゆる丸投げ?」

リヴァイの冷たい目に睨まれたハンジさんが黙ってさっさとスープを口に掻きこんだ。
わたしもスープの最後の一口を食べ終え、ほぅ、と息を洩らす。『ごちそうさま』と言って手を合わせる。いつもの何気ない習慣。風が吹けば前髪を抑える。そんな当たり前で、無意識の週刊。けれどそれが当たり前じゃなかった事を、二人を見て思い出す。そっか、そんなのやんないよね。


「ね!今のどういうこと!?なんかの儀式?」
『えーっと、意味とか聞かれてるかんじ?食べる。終わる。ごちそうさま。それだけだよ』


食べる、で物を食べるようなジェスチャーをして、終わる、で空になった皿を指さし、ごちそうさまと手を合わせて頭を下げてみた。多分食物への感謝とか、そういう事を説明したってジェスチャーひとつでどこまで続くか分からず、とりあえず食べ終わったらやることだ程度の意味を伝えてみると、ちゃんと通じたのかハンジさんが「へぇ!」と目を輝かせる。なんだかそうやって、ちょっと好意的な興味を持ってもらえる事が嬉しくて、思わずわたしははにかんだ。



「食後のあの儀式、宗教的なものかな、それとも夢子個人の癖?くぅ〜っ!知りたい!この子に関すること全部知りたい!」
「聞くべきことは沢山ありそうだな」





食後、リヴァイは部屋を出て行こうとした。
せっかく名前を覚えた人と、わたしを助けてくれた人と、このまま二度と会えなくなるのが怖くて、「リヴァイ!」「リヴァイ!」と名前を呼んで腕を掴むと、リヴァイが鬱陶しそうな顔をしてわたしの腕を振り払った。ハンジさんが「あら、懐かれちゃって」と何か笑って言葉を投げたけれど、それをさくっと無視して、リヴァイは何も言わずに部屋を出て行った。



また会えるんだろうか。
わたしはどうなるんだろうか。



リヴァイ…。

あの人がわたしを助けてくれなきゃ、わたしは今、こうして居ることはできない。ハイドニクが連れていこうとした場所がどこかは分からない。けれどきっとここより良い場所だったとは思えない。目の前に伸びてきた中年の男の太い指。唾液に光る黄色い歯。気持ち悪い。気持ち悪くて堪らない。思い出しただけで吐き気がする。リヴァイがあの時、わたしを男たちに引き渡せば、わたしはどうなっていたのか。会えるよね?また会えるよね?なんだか胸がずきずきとした。


……いや、胸じゃないな。なんか、リアルに痛い。感傷的じゃなくて肉体的に痛い。あれ?生理痛?………むしろ腸?


きゅるる、と鳴りだしたお腹が内臓をぎゅっと絞るような細い痛みの声を上げ、わたしはお腹を抱えてその場にしゃがみ込んだ。こみ上げる吐き気に口を押える。ハイジさんが驚いたようにわたしの名前を呼びながら、背中をさする。やばい。やばいぞ…やばい!!



と、トイレ行きたい!!!トイレ!!トイレに行かせてください!!