05


それは、一楽の味に似ていた。


この世界で最上級の料理、とはちっとも思っていなかったけれど、自分がどれだけあの味に慣れ親しんでいたのか突き付けられたような気持ちになった。同じ醤油ラーメンにしても、微妙に違う。だからこの世界にラーメンマニアがいるんだろうな、とは思っていたけれど、それは驚くほど一楽の味に似ていた。


卵で練られた麺の味。大量の玉ねぎを焦がす手前で延々と煮込み、それがじんわり溶けたスープ。ちょっと芯の残る手作りらしいメンマ、シャキシャキとした太もやし、黄身まで味の染み込んだ煮卵。カウンターに座って、少年たちの声を聞きながら、ふと目を閉じてスープを飲んだとき、ほっと吐いた息に胸を締め付けられるような懐かしい心地良さを覚えた。けれど隣に座っていたのは、ナルトやサイやサクラではなかった。まったく知らない人だった。




考えていることがよく分からない人だ。
何が楽しくてこんな僕とラーメンを食べているのか。
この世間知らずの温室育ちで、忍とはまるで違う、どこもかしこも別の成分で出来たような一般の女の人が、僕は少し苦手だった。里にいた頃だって、付き合ってみようと思った事もなかった。まず接点がない、という事を除いても、全く別の種族だ。小さくて丸い肩の骨。薄い胸骨。頼りない筋肉。チャクラを練る事さえ知らない。チャクラを失って初めて、自分は人間というひとつの動物なのだと思い出した。驕っていたわけではないけれど、業を失った自分が酷く弱く頼りない動物となったことに呆然とした。チャクラを持たない彼らは、特に女性は、一体こんな弱い肉体でどうやって生き伸びていくのか、その手段が分からなかった。彼女たちの話す言葉は脅威だ。全く訳が分からなかった。彼女はまさにその最たる人間だ、と感じた。それでも彼女が彼女なりに気を使っているのだろう事ばかりは忍ではなく大人として察した。彼女も僕を持て余しているという事なのだろう。



互いのどんぶりは綺麗に平らげられていた。
こんな時間にラーメン一杯食べられるのかな、と心配したけれど彼女は案外ぺろりと食べた。
それからまたあの日、喫茶店でコーヒーを飲んだ時のように別れるのだろうか、とちらっと考えた。
彼女には二度と会いたくなかったけれど、もう一度会いたいような気がしていた。気恥ずかしさと、名残惜しさ。なにより自分が会話というものに存外飢えていたんだな、とそっと苦笑すればカカシ先輩の小言と嫌味の紙一重のような顔が脳裏に浮かんだ。あの人がこんな腑抜けた僕を見たらきっと慰めてくれるよりも嫌味を言ってくれるだろう。そういう人だ。そういう所に救われている。



「聞くは一瞬の恥、知らぬは一生の恥っていうじゃないですか」


コップの水を飲み干した彼女が、何か面倒なことを思いついたときのナルトみたいに目を輝かせているのにぎくりとする。厄介なことを言いだすぞ、と思っていると彼女はその厄介なことをさも名案のように、当然のことのように話し出した。今度は映画に行くらしい。アメリカの映画を見よう、と言って彼女は僕にはちっとも分からない映画のタイトルをいくつか挙げながらどれにしようかと迷っていた。僕に拒否権はないらしい。どうも逆らえない。どう扱って良いのか分からないな。



「敵情視察ですよ、そうですとも」


嬉しそうにそんな事をいう彼女に、敵情視察ねぇ、と呟いていれば彼女はささっと二人分のお会計を済ませてしまった。
自分の分は払うと申し出た僕に、じゃあジュースは奢ってくださいね、とちゃっかり映画の約束を取り付けてしまうのだからもうお手上げだった。結構しっかりしてる。いや、ちゃっかりかな。






ラーメン屋を出れば雨は上がっていた。
雨に洗われた清潔で硬質な空気を肺いっぱいに吸い込む。雨上がりだけはこの街も悪くないな。車の吐き出すなにかのガス特有のすっぱいような臭いには辟易していた。この街の人間は平気なんだろうか。ガスに耐性ができているんだろうか。この科学力に頼りきっている世界の人間たちの鈍感さには驚くばかりだった。里では雨が降れば、山から下りてくる風に濡れた腐葉土の匂いが届いた。雨上がりの森の清潔すぎる空気は嗅覚を研ぎ澄ませるから、時々任務の邪魔をした。ぐずぐずに濡れた砂利道は厄介なことは厄介だけれど、埃をすっかり洗い流したつやつやとした小さな砂砂利の中の石英がキリキリと足元で鳴いた。雨の後の夜空は透き通っている。月の光が普段よりいくらも透るから任務には向いていないほど。


そういう事を何も知らないこの人たちは、どうやって生きていくんだろうか。
僕には分からなかった。








どうせ分からないから好きに選んで、と言えば彼女はちょっと困った顔をしたけれど、ミュージカルを映画にしたという今ヒットしている一作を選んだ。パンを盗んだ罪で19年も囚人をしていた男の生涯と民衆の生き様を描いているんだという。ポスターを見た中では一番面白そうだ、と思っていたものだった。隣の恋愛映画を選ばれたらどうしようか、と心配していたから安堵した。きっと寝てしまうに違いなかったから。


彼女ご所望のジュースと、ポップコーンを買って、そのまま映画のチケットを買おうとすれば、スタッフの若い女の子が笑顔で「本日雨の日特典でカップルさま千円となっております」と言ったもんだから、思わず夢子さんを見れば彼女も僕と同じように眉を寄せて、笑おうか困ろうか迷っているような顔をしていたので、女の子が少し困ったような顔をしていたけれどそれは見なかったふりをして僕が支払った。彼女じゃないですから、と夢子さんが僕のポケットにねじ込もうとした千円札をしっしと追い払って、さっさと指定された座席へと座った。


「君には恩があるから。これくらい良い格好をさせてくれないかな」
まるで新しい遊びのように僕の尻ポケットを狙う彼女の手首をゆるく掴んで拒否すれば、彼女はまるで身に覚えがないって顔をした。彼女の手を離して、その頭上に浮かんでいる「?」を無視して、深く座席に座りなおした。彼女もそれ以上追及してくる事はなくようやく男を立ててくれようとしたらしかった。




「ヤマトさんがいたところも、映画はあったんですか?」


上映中はマナーモードに、なんて書かれているだけの味気ないスクリーンを見つめながら夢子さんがぽつりとそう言った。忍家業には座り慣れないふわふわの座席や、ぽつぽつと集まりだした人々のざわめきの中で油断すれば聞き逃してしまいそうなくらいの調子で聞いてきた言葉に、僕は頷いた。


「あまり行かなかったけれどね」
「あー、映画館だと集中できないタイプ?」
「というより忙しかったからね」
「なんの仕事だったんですか?」
「教師だよ」


少しの迷いもなく答えた教師という言葉にどれほどの意味が含まれているのか知る由もない彼女がぼんやりと懐かしむような口調で「学校の先生かぁ」と呟いた。もう忍者の話をして、異常者だと思われたくはなかった。ここが全く異なる世界だと気づくまで、僕は警察の人間相手に大真面目に自分の所属を話した。もちろん話しても良い領域を弁えていた事は間違いない。暗部でもない限り、ユニフォームのように忍者丸出しの鉢当てをしている位なのだから、所属している里くらいは話しても良いだろうという判断の上だったが、当然のことながら通じることはなかった。夢子さんに、あの自立支援センターの女性の、どうしようか困っている人間特有の曖昧な笑みを浮かべさせることはしたくなかった。



「仕事大変?辛かった?」
「平気だよ。仕事のない人生なんて考えられなかったから」



夢子さんが何かを言い出そうとする前に、映画の予告が始まった。
さっきまでのざわつきがウソのようにすっと静まり返り、それぞれが映画の世界へ入り込もうとするささやかな緊張感が生まれたのを少し心地良く感じた。最後に映画館で映画を見たのはいつだったろうか。もう思い出せないな。付き合うか付き合うまいか、という時期を過ごした中忍の女の子とのデートだったか。彼女の好きだったカクテルの名前は思い出せるのに、映画のことはちっとも思い出せなかった。寝ていたのかもしれない。けれどそんな曖昧な記憶の中のスクリーンや映像技術より、この世界の映画はずっと進んでいた。そしてそんな映像と、全く知らない世界の話にあっと言う間に引き込まれていった。









エンドロールまで席を立つ人はいなかった。
隣をみれば夢子さんが鼻を真っ赤にしてすすり泣きを耐えていた。素直に泣いたら良いのに、と苦笑しながら道でもらってポケットに突っ込んだままだったティッシュを渡してやれば夢子さんがにやにや笑いながらティッシュを見せてきた。「新店舗オープン特別価格!2時間コースご奉仕中!」という謳い文句と一緒に目の大きな可愛い女の子がにこっと笑った顔がビニールにデザインされていた。いらないんなら返して、と取り上げようとしたのを夢子さんは「いりますいります」と笑って容赦なく女の子の顔を破いてティッシュを取り出して涙をぬぐった。



涙をぬぐった夢子さんの濡れた黒い目が好奇心に輝いていた。
僕からの答えをわくわくとして待っている目だった。だから僕は「面白かった」と笑っただけだったけれど、彼女には十分だったらしい。夢子さんは嬉しそうに零れるような白い歯を見せて笑った。


この映画を作ったアメリカという国に若者が魅了される気持ちがよく分かった。
ここはもう、すっかり平和な世界なんだ。忍者のいない国。いや、これほどの国家であるからには夢子さんのような人間の知らない、知らない方が良いことが沢山あるだろうけれど、それでも、その秘密を身近に感じる必要がない幸福な国。人々は日々の生活だけを考えていれば良い平和で豊かな社会。



この国に僕の居場所はなかった。