06


「ね〜、先輩〜、もしも”僕は違う世界から来た人間なんだ”って人が現れたらどうします?」


昼休み、社員食堂には誰かが見るともなしに付けられているローカルテレビの番組が流れているけれど、わずかな休み、さっさと食べてさっさと休憩したい社員たちが脇目も振らずに食べている中で、お伊勢参りパワースポット巡りなんてコーナーは誰の耳にも入っていないようだった。向い合って座ったみっつ年上の先輩が月見うどんを食べながら、いじっていたスマホから顔を上げてわたしを見たけれどその顔にはくっきりと「はぁ?」と書いてる。まあそりゃそうだろうなぁ、と思う。わたしも山菜うどんの汁をずずっとすすって、安物のやけにツルツルしたうどんをすする。食券120円だけど原価もっと安いんだろうなとケチくさい事を考えるとちょっと虚しい。


「なに?スピルバーグでも見た?未知との遭遇?」
「いや違いますよぉ。なんか、どうするんだろうなぁ、と思って。っていうか未知との遭遇は宇宙人でしょ?宇宙人じゃなくて人間です。でも違う世界から来た人ぉ、みたいな?すごく冷静だし見た目だって普通だし、どっからどうみても当たり前の人間で、でもなにか欠けてる人」


先輩はちょっとだけ考えるような顔をしてから「めんどくさい」と一言言ってまたうどんすすりながらスマホをいじる。
お行儀悪いですよ、と指摘すると「あんたの下手な電話応対のが悪いわよ」と間髪入れず返ってくるのだから後輩は立場が弱い。きっついなぁ、と苦笑いをお汁をすすってごまかしていれば、先輩が口を開いた。


「あんなのとっとと忘れちゃいなさい。日本だけで人口が一億ちょっといるだもん。頭おかしいのだって時々はいるのよ」
「頭おかしくない!むしろ良い人でした!」


咄嗟に言い返してから、はっとすると顔を上げた先輩の目がどんどん丸くなっていく。
そして丸くなった目が釣り上がっていくのが分かってわたしは背中を丸めて体を小さくするけれど遅すぎた。発言を取り消すことはできない。「あんた、まさかあの男と会ってるんじゃないでしょうね!?」と先輩の大きな声で食堂の注目を浴び、慌てて「先輩、声!声!」と注意すれば先輩がわずかにたじろいでから幾分声のトーンを落として、でも小声で怒鳴るという器用な芸当で矢継ぎ早にとどめを刺しにかかる。


「あんたねぇ、自分がなにされたか分かってんの?いくら不起訴になったとはいえ相手は変態よ?金目当てでなく女の家に入り込んでた奴なんて何が狙いか分かるでしょ?無罪放免で放り出されたし、こんな小さな街だから顔だって会わせちゃったんで、あんたの事だからお人好しで相手と喋ったりして、中途半端で無責任な情が湧いてきたかもしれないけど、相手が頭おかしいって事は受け止めなさいよ。国も、裁判所も、あの男が頭おかしいって認めたから無罪になったんであって、人畜無害の聖人君子だから無罪になったんじゃないんだからね。関わったってロクな事になりゃしないんだから。あんたはあんなゲス野郎の事なんて忘れて、さっさと良い男見つけて寿退社でもなんでもしろってのよ」


なんなら合コンセッティングするから、と締めくくった先輩の言葉に頷くしかなかった。
わたしの事は、こんな小さな会社で起きた大事件だ。わたしの名前を公表せずに「当社の女性従業員のアパートに不法侵入があったから、諸君も、特に女性社員は物騒な時代だから戸締りはきちんとするように」という旨の社報が出されていたようだけど名前を出しても出さなくてもすぐにどこの部署の誰の話かなんて漏れるもんだ。知らない人なんていやしない。そしてヤマトさんが無罪放免になった理由だって知られている。すべて知っている。そこに居心地の悪さも覚えたけれど、それ以上に得たものも多かった。

自分は一人じゃないし、大切にされていたんだと実感した。
けれど曖昧に頷いたわたしの納得していない気持ちなんて見透かしている先輩は、きつい目のままだ。


「もう、これ以上心配させないでよ。なんならうちにしばらく泊まっても良いから。だからもうそんな男と会うのはやめな。まぁいくらあんたが馬鹿でもそんな男と何度も会うわけないと思うけど、今度は道で見かけてもダッシュで逃げろ。通報しろ。二度目の通報なら逮捕してもらえるかもしんないしね」
先輩の意見が正しいのだろうし、心の底から心配してくれていることは分かっていたけれど、でもわたしは曖昧に頷くことしかできなかった。



「よし。とりあえず来週の金曜日はあけといてよ、あんた休みでしょ?」
「なんでですか?」
「経理にいった同期が合コンセッティングしてくれたから」
「…まさかさっきからずっとやってたのってそれ、ですか?」


先輩はスマホから顔を上げてにやっと笑い、その同期とやりとりしていたらしいLINEの画面を見せて得意そうに笑った。
さすが先輩仕事が早い!さすが出世頭っす、と笑えば先輩は「独立して女社長になったらあんたもヘッドハンティングしてやるよ」と頼もしく笑った。そしてもう二度と、あんな男には会うなと子供にでも言うように言いつけた。わたしは「はい」と返事して笑ったけれど、本当は笑っていなかった。



わたしは先輩が思っているよりずっと馬鹿なんだから。






映画館を出たときには、すっかり夜になっていた。
冷たい夜風が足元をすくっていき、少し肌寒さを覚えたけれど、それ以上に妙に緊張した気持ちだった。カップル達は手をつないで駅や繁華街の方に向かって流れていき、わたしとヤマトさんはどちらがどうするともなくぼんやりと映画館の前に佇んで空を見上げた。降っていた雨が洗った夜風は清潔で硬質で、水分をたっぷりと含んだ重たい空気が鼻孔を濡らすようだった。このままご飯を食べに行くような関係では、決してなかった。


ただ一瞬、人生が交差しただけの人。被害者と加害者。赤の他人。
さようなら、と言うべきなのは分かっているけれど、でも、まるで昔から知っている人のようにどこか居心地がよかった。出会った場所が違えば、出会った道が違えば…そう考えずにはいられない何かを感じてしまい、わたしは最後の言葉を言い出せずにいる。だって、同じ人間だから。もしもヤマトさんがもっとクレイジーであきらかに「あ、こりゃ無理だわ」という別の人種であればわたしは緩く、穏やかに、そして明確にヤマトさんを遠ざけ、線を引き、二度と関わることはしなかっただろう。けれどそうじゃなかった。


あまりに、普通の男の人だから。そして、なんだかゆらゆらと足元がおぼつかない人だから。




「明日はよく晴れるだろうね」
空を見上げたままヤマトさんが言った。確かに、空にはもう薄い雲のひとつもなく、ただ真っ黒なカーテンが広がっている。街のネオンがその黒をぼんやりと照らしている。わたしは「そうだね」とだけ頷いた。
星なんてひとつも見えなかったけれど、確かに晴れるだろうって気がした。天気のことなんて、ちっとも分からないのに。



「ありがとう」



隣を見あげればヤマトさんがわたしを見下ろしていた。
あ、と思った。道で会ったときのような、なんだかぼんやりとして足元が見えない、ふわふわとした目じゃなかった。当たり前の大人のような目をしていた。守られる必要も、同情される余地もないようなしっかりとした強さでまっすぐにわたしを射抜いていた。そのままヤマトさんはくるりとわたしに背を向けて歩いていった。走れば追いつけるような距離だけど、でも足早に立ち去っていく背中を追ってはいけない事くらいは分かっていたから、わたしはなんにもしないでその背中を眺めた。



それっきりだった。










一度だけ、アパートの前まで行ったことがある。
霧雨だった。水分の濃い空気が冷たく肺を満たしていき、音が遠く、なんだか現実感のないぼんやりとした日だった。あの時図書館でヤマトさんが書いていた住所の場所はなんとなく覚えている。あの公団地区だ。ほら、だって、あの団地の向こうのTSUTAYAにレンタルDVDも返しに行かなくちゃいけないし、と誰に言うでもなく小さく胸のうちで呟いて、外へと出かけた。雨の日は仕事が休みになる、とあの人は言っていた。別に会いたいわけじゃないけれど、用事があるわけでもなかったけれど。


沿線沿いにある築30年は経っているような公団のアパートの壁は、最初は白かったんだろうに今では長い年月の間で積み重なった雨水が黒い涙のような線を描いてべったりとこびりついている。住宅街の団地よりもどこかひっそりとして、溢れるような洗濯物やゴミ袋や乾燥したアロエが積まれたベランダは、社会を濃縮したような人間臭さを覚えた。巨大な四角いアパートは、なんとなく、小学校の校舎を連想させる。四角い積み木が積まれただけのような、味気ないアパート。



濡れたアスファルトから小学生の頃の記憶が立ち込めて、足を引っ掛ける。
図工の授業が好きだったこと。毎年、春になればクラスみんなが近くの土手へ桜の写生に行ったこと。いつも人の持ってるいちごやオレンジの香りのついた練り消しや、キラキラしたシールや、ヘアゴムを欲しがって、持っていっちゃう女の子。運動場の隅に転がっていた誰かの縄跳び。体育館の汗や埃の混ざった冷たい空気の味。硬くて重たいマットの匂い。開けっぴろげなずっと年上のお姉ちゃんの影響で誰よりも早くセックスが何かを知っていたあの子。学校から送られてくる教材資料を見ながら、みんなでお揃いで買ってもらったキティちゃんの裁縫セットを使える家庭科を心待ちにしたこと。


運動場にしゃがめば汗ばんだ肌に小さな砂利が引っ付いてむず痒くて、払っても払っても、砂利の中のキラキラとした石英や雲母がいつまでもいつまでも、やわらかい肌の上で光っていたこと。




わたしも、ついさっきまで、子供だったのに。
つい昨日まで、わたしはなんでも持っている女の子だったのに。
万物は完璧な光を帯びて輝き、本の中の女の子みたいな冒険や、出会いや、希望が待っていたのに。
気がついたらわたしはもう大人だ。女の子じゃない。わたしが履いている靴はひらがなで名前の書かれた白く柔らかいナイロンの上靴じゃない。中敷きにイタリア語が書かれたヒール5センチの黒く硬いエナメルのパンプスだった。ちっとも趣味じゃないけれど、OLなんだからこういう靴を履くのだ。そして大人なのだから、そういう人生を送るのだ。



アパートからアスファルトへと目を落として、わたしはさっさと歩きだした。
明日になったらまた仕事だ。最近パソコンの使いすぎなのかひどく目が疲れる。ブルーライト遮断のメガネを買った方が良いのかもしれない。一日、一日、一時間経つたびにわたしは老いていく。学級目標の書かれた教室からも、膝上で揺れていた制服のプリーツからも、甘えていれば良いだけだった時間からも、どんどん遠い場所へと落ちていく。そういうことが、たまらなく寂しい。そういうとこへも、誰かと一緒に落ちていけるのならば、それが生きることならば―――。


お父さんがいます。お母さんがいます。お兄ちゃんがいます。妹がいます。犬がいます。
そんな家庭科の教科書の挿絵のようなありふれた生活がどれだけありふれていないかを知った時、女の子は女になる。わたしはもう女の子じゃなかった。だから、寂しいと泣き喚いたって誰も抱き上げてはくれなかった。



なんだか、誰かと話したいと思った。